愛について今思うこと

今回は『愛』をテーマにして書こうと思う。

愛について考えたり書こうとすると 自分がなんだか頼りないような 心細さを覚えるような瞬間がある。僕が好感をもっている人の中に『愛』や『光』と言った言葉を極力使わないようにしているという人がいる。

その話を読んだとき 自分がなにか間違っているような感覚がした。ただその間違っていると感じる感覚こそが なにか自分にとって重要なヒントのような氣もしていた。

ある人は愛は人を縛るものという。日本にはもともと愛という言葉で人を想う言葉はなかったという。

では愛ってなんなのだろう?

愛は色々な種類 色々な人 色々な存在に向ける種類の愛があると思う。僕が愛について今考えているのは 愛はその人を自由にするエネルギーがあるということだ。

僕は数年前 特に愛情に飢えていた時期があって 夜中の3時ごろになると決まって心臓のあたりが痛くなることがあった。そうなると数時間は唸る声をあげながらベッドの上やカーペットの上で悶えていた。その頃の自分は家族や身近な人の愛情を信じられず 確かにあるはずなのに受けてれていない自分が悪いのだと 自己否定ばかりしていた。また愛情を受けてれていない自分に対して ものすごい罪悪感を感じていた。

今 自分が昔の自分になにか伝えるなら 愛情は受けれないときは無理に受け取ろうとしなくていいと伝えると思う。その頃は 今 愛情を受け取らないと もうこれから愛情がもらえなくなる 二度と受け取れなくなってしまう と思っていたのだと思う。

実際はそんなことはなかったのだけど 当時の自分は真剣にそう感じていた。だからあれほど苦しかったのだろうと思う。僕は愛情や愛は人を自由にするエネルギーだと感じているので『受け取るかどうかはその人の自由』だと考えている。

例えば 僕が家族やパートナーのために何かしたとして 感謝の言葉が無かったり 思ったような反応が貰えずに悲しくなったとしたら それは愛ではないのだと思う。相手に対する『期待』があるからだ。

僕のパートナーは思い出したように「相手には愛情を受け取らないって選択もあるからね」と言うことがある。その言葉を聞き始めたときはなんと寂しい言葉なのだろうと思ったのを今でも憶えている。

初めてその言葉を聞いてから いくらか時が経った今はようやく パートナーの言う言葉の意味が飲み込めてきたように思う。

僕が苦しかった理由。僕を苦しめてきた理由は相手に対する『期待』だった。

自分が思うような愛情を貰えるものという期待。

自分が思うように相手に理解してもらえるはず!という期待。

自分が思うような愛情を相手に受け取ってもらえるはず!という期待。

自分が思うように相手に理解してもらいたい。理解してもらえるはず!という期待。

色々な期待を握りしめていて苦しかったのだと思う。そして そういったことを自分の胸に秘めていたことも苦しかったのだと思う。そんなふうに思うことを悪いことだと思っていたから。

自分の心と向き合いはじめて 自分の想っていることをそのまま受け止める練習を始めたとき 色々なことに良い悪いと評価するのを止めることにした。ただそう考えているんだね そう思っているんだね と自分の考えや感じていることをそのまま一旦受け止めることにした。

やっと自分が自分の話を聞いてくれているような氣がした。

おそらく僕がずっと理解してもらいたかった相手。愛して欲しかった相手。愛を与えたかった相手。それはすべて自分自身に対してだったのだろうと思う。

僕はよく家族やパートナーに「話を聞いてくれてない!」「理解しようとしてくれていない!」と怒っていたが これらの言葉は自分自身に向けたものだったと感じる。

誰より自分が自分の話を聞いていなかったし 理解しようとしていなかったのだと思う。他人に話せば 理不尽に思われるようなことも それも自分なのだと 自分に受け止めてもらいたかったのだと思う。

そういったことに少しずつ氣がついて 自分との対話を進めれば 進めるほど 自分の心が少しずつ自由になっていくのを感じた。そうすると相手の感情や意見 反応も 『相手の選択の自由』なのだと受け止めることが出来るようになってきた。

相手の存在を自由に受け止めることが出来るようになるほど 自分自身がより自由になり 自分自身が自由になるほど 相手の存在を自由に受け止めることが出来るようになっていく。

僕が 今 考えている『愛』とはこういうカタチだ。

愛の学びの旅路では痛みや悲しみや憎しみ 相手をコントロールしたいという欲求が出てくることもある。自己否定の沼にハマることもある。

それらも含めて『愛』を知るための大切なピースなのだろうと思う。



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