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【仕事と趣味の差別】4-2 宗教

 現代でも宗教においては宗派を問わず、他の分野と比べて圧倒的に、伝統的な儀式や衣装が用いられることが多い。逆にそうでないと、多くの人は不自然に感じる。仏教の僧侶は袈裟を着用し、神主は狩衣や衣冠を、キリスト教の司祭はカズラやストラなどの独特の伝統衣装を着用する。しかも、その衣装はほとんど例外なくどれも動きにくく、窮屈であり、着る人の快適性を考えていないかのようである。また聖職者は、別に葬式でなくても厳粛で、神妙な立ち居ふるまいをすべきものと見なされている。地方の小さな神社では神事が少なくなり、神職が普段は別の仕事で生計を立てている場合があるが、それでもパチンコ屋でアルバイトをしていたりすると、ありがたみが減るように感じられる。また、タイでは今日でも、僧侶は走ってはいけない。威厳が損なわれるからである。

 なぜこのようなことになるのであろうか。結論を端的に言ってしまえば、宗教の儀式、衣装は、神という「主人」のために聖職者によって行われる、代行的浪費だからである。すなわち富の無駄づかいの代行であり、聖職者は神に仕える「使用人」である。

 3-3で述べた使用人の行動様式と、聖職者のそれとを比較してみれば、その類似は明らかである。儀式が実用上まったく役に立たず、形式が重んじられるのも、神という極めて高貴な主人の体面を高めるためである。聖職者が生産的な労働に従事していては、神の名誉を損なうのである。また、在家信者も神前では労働をしているそぶりを見せてはならないし、普段より良い服装でなくてはならない。あたかも、高貴な人の前にまかり出るのと同様なふるまいが求められる。

 聖職者の行為が神のための、代行的浪費である以上、聖職者自身の都合や快適性は無視しなくてはならない。富が、神に帰属するものであることを示さねばならないからである。だから聖職者の衣装は動きにくく、重々しく、機能性を無視している。生産的な労働ができないことがはっきり分かるようになっている。

 このように説明したからと言って、今日の聖職者が、自らの儀式や衣装についてこう考えているのだと言っているのではない。ここでもやはり、起源が忘却され、生き残った形式がそれ自体何か良いものだと思われているのである。神を祭る儀式が始まった最初のころは、当然まだ、神―人を超えた、なんらかの偉大な存在―との交流の作法は定まっていなかっただろう。それゆえに、極めて高貴な人物に接するのと同様な作法が取られたと考えられる。

 一般に、産業が発達してくると―現代の西洋社会の場合、第一次産業革命以降で、大規模な機械産業が発達した段階で―生産性、効率が何より重視されるようになり、これに反する伝統的な習慣がゆっくりとすたれていく。この影響は、機械産業に密着している集団ほど、速く強くこうむる。たとえば、機械産業の労働者となる庶民である。逆に、富裕層はもっとも影響を受けにくい。そのような労働に従事しなくても、生活が保障されているからである。言い換えれば、過去から連綿と続く習慣を、わざわざ変更する動機がない。しかもそのライフスタイルは、品位を保つための必須条件でがんじがらめにされているので、実用上の理由ごときでこれを変更することは「みじめ」だと感じられる。人間は変化を嫌う生き物であるから、条件が許す限り惰性に従おうとする。要すれば、代々続く上流階級において、伝統がもっとも良く保存される。

 このような例も容易に見付けられる。社会の最上位がどうなっているか、思い出して見れば良い。日本人にとって最も身近な例は天皇家である。令和においても平成においても、天皇の即位の礼では平安時代さながらの儀式、衣装を見ることができる。ヨーロッパでも王の即位式はまるで大作映画のような古式ゆかしい装束が見られる。玉座、王冠、王笏、宝珠などの数々の小道具に、威厳を示す以外の機能は基本的に全くない。

 さて、話を宗教に戻すと、宗教もまた、機械産業の影響を受けにくい領域である。そして主人である神は、上流階級どころかあらゆる人間より上位にあると見なされている。それゆえ宗教では、過去の習慣が残りやすく、本項冒頭にあげたようなことが起こるものと思われる。

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