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【仕事と趣味の差別】3-3 代行的浪費―浪費を他人に代行させる習慣の発生―

 古代において主人に従う人間は、奴隷、使用人、妻等である(これらを総称して従者と言うことにする)。従者の役目は、主人のために食料の生産や身の回りの世話などの労働をすることである。従者が多ければ多いほど、多くの富をもち、人よりも優れていることの証拠と見なされる。人口が増え、農業技術や品種の改良等により食料生産の効率が上がると、やがて分業が始まるが、従者階級のなかでも分業が始まる。多くの従者は生産活動に専従する一方、一部の従者は主人の身の回りの世話に専従するようになる。要するに、主人の身辺の従者たちも生産的な労働から免除されるようになる。労働を免除される従者の範囲は、主人に近い側から徐々に広がってゆくだろうから、真っ先に免除されるのは妻である。

 このような従者の存在は、紳士の潜在的な欲求を実によく満たすことになった。主人の財力が大きければ大きいほど、主人一人でその財産を消費することができない。従者たちが主人の代わりにその財産を消費することで、主人の財力の大きさを示すことができるのである。すなわち、前述のような時間と財産の浪費を従者たちが代行するわけである。これをそれぞれ、代行的閑暇、代行的消費と言う。二つをまとめて代行的浪費とも言う。

 そこで、従者が主人のためにこれ見よがしに物や時間を浪費する方法が発達する。したがって、従者は厳格な礼儀作法に精通することが求められ、制服や正装等の格式ばった衣装が着用されることになる。

 またこのような代行においては、あくまでも主人の財力の誇示が目的であり、従者本人の快楽や利便性、利益のためではない。従者は主人の前では神妙な面持ちで控えていなければならないし、作法から逸脱することは主人の不名誉になる。作法からの逸脱がなぜ非難の対象になるのか、ヴェブレンは次のように述べている。

「作法からの逸脱は、どれほど些細なものであっても、非難の対象になる。けっして主人が物理的に困るからではないし、使用人の側の服従心の欠如を示すからですらない。非難の対象になるのは、結局のところ、使用人が十分な訓練を受けていないことを示すからである。主人に仕える作法に習熟するには時間と労力を要するので、使用人が高度な訓練を受けていることがあきらかな場合には、その使用人は生産的な労働を日常的に行っておらず、過去にも行っていなかったと言える。つまりこの使用人の存在は、閑暇の代行を過去にまで遡って明白に証拠立てることになる。」(※1)

 「主人が物理的に困るからではない」というのは、たとえば次のよう事である。ナイフとフォークをテーブルに並べるには正しい位置があるが、めちゃくちゃな位置に置かれていても手元にさえあれば、食事には全く困らない。従者が見事な作法にのっとって仕事を成し遂げることは、その従者が生産的な労働を現在だけでなく過去も行っていないことを意味する。そして従者にそれを可能にさせるのは、主人の財力である。

 時代が下ると、強大な富と権力を持つ王や貴族が出現し、代行的浪費の方法も洗練されてゆく。しまいには、ほとんど何もしないでただ君主のそばに控えているだけの侍従や儀仗兵が出現する。

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仕事と趣味の差別(目次)

※1 第3章 p103

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