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【仕事と趣味の差別】4-1 衣服

 第4節「理論の応用例」では、これまで述べてきた理論を応用して、身近な物事のいくつかを分析する。具体的には、衣服と宗教を取り上げる。

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 衣服は、着用者の富を分かりやすく見せびらかす手段である。ずっと大昔、差別的なものの見方の体系がようやく発生しつつあった段階では、戦利品や富を誇示するために身に着けたり、身の回りに展示したりすることが意識的に行われたであろう。言い換えれば、高価な衣服、あるいは装飾品の着用者は、自分の武勇や富を見せびらかしているとほとんど自覚していたであろう。

 しかし幾世代もの年月を経て、富そのものが優位性のしるしになり、さらに生産的な労働からの免除も優位性のしるしと見なされる段階に達すると、なぜ財宝や装飾品が「良い」のか、あるいは「品位がある」と見なされるのかという理由は、すっかり忘却される。ただただ、「しるし」と「良い(という意味)」の結び付きだけが人々の「常識」の中に取り残される。当然、この「常識」は衣服にも作用する。言い換えれば、前述した、誇示的消費や誇示的閑暇を優位性の証拠と見なす価値観が、衣服のデザインにも作用する。

 衣服の最初期の機能は、寒さや風雪から身体を守ることであったと思われる。しかしその後現代に至るまで、衣服が身体保護という機能からどんどんかけ離れていくのは、上述のような理由である。

 もちろん、衣服の良し悪しには審美的な基準もある。すなわち、純粋に感覚的な意味で、配色が優れているとか、形が美しいとか、デザインが良いとかいうことである。しかし、「美しい」ということと、「高価である」ということは交じり合い、区別できなくなってしまう。その理由は次の通りである。

 「美しい」衣服を着たいと思う理由は、究極的には、周りの人から高く評価されたいという欲求に行き着く。「センスのある人だと思われたい」というのも、「高い評価」のバリエーションである。「おしゃれは自己満足のため」と言うのは、欲求の掘り下げ方が甘い。なぜ自分が満足するのか、という理由を考えれば、周囲からの評価という要素を完全に排除することは不可能であろう。

 要するに、「美しい服を着たい」という欲求の根源は、「高価な衣服を着たい」という欲求の根源と同一である。

 実はこのようなこと―すなわち、美と評判の良さが混同されてしまうこと―は、衣服だけでなく、あらゆる物事に起こる。そのことは、「美」という漢字に象徴的に現われている。「美」は「羊」と「大」からなる。元来、「美」とは「羊が大きい」ということであった。羊が大きいということは、富の証拠であり、周囲からの高い評価が得られるものであった。ここから審美的な意味での「美しい」が発生したと思われる。

 ここで、誇示的消費と誇示的閑暇の基準が、具体的には衣服にどのように作用するのか、見て行きたいと思う。誇示的消費のほうは、ほとんど説明は不要であろう。高価な、希少な素材を使ったり、生地の織り方や加工に特殊な技術が用いられる衣服が、より上品で、品格があると見なされる。

 誇示的閑暇のほうは説明が必要であろう。具体的には、動きにくく、機能的でないほうが、優雅で、威厳があり、品位があると見なされる。このような衣服は、着用者が生産的な労働ができないことをはっきりと示す。我が国の束帯や十二単はその典型である。十二単を着たまま農作業や掃除をすることは、想像もできない。また、Tシャツと半ズボンよりも、スーツのほうが「ちゃんとした」服装だと見なされるのもこの理由による。Tシャツと半ズボンがハイブランドの商品で、スーツより値段が高かったとしてもである。

 最後に、衣服の良し悪しの基準をまとめてみよう。第一に身体保護の機能、第二に審美的な基準、第三に金銭的な基準である。金銭的な基準とはすなわち、誇示的消費と誇示的閑暇に当てはまるかどうか、ということである。これら三つは、歴史の中でもこの順で発生したものと思われる。一度三つ全てが発生してしまえば、互いに交じり合いながら洗練されてゆく。すると、寒いのにおしゃれのために薄着で外出する、というような奇妙な現象が起こることになる。

 第二と第三の基準は、評判の良さ、周囲からの高い評価という根源的な欲求につながっている。こう考えると、毛織物のズボン(スーツ)の尻のすり減らした光沢はみすぼらしく感じられるのに、エナメルの靴の光沢は美しいと感じられる理由が良くわかる。いずれも光沢という点では物理的に同一であり、おそらく身体保護の機能の面からもほとんど差異は無い。

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