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「現象学入門」(竹田青嗣)に基づいて〜「知らないものは存在しないのと同じ」の現象学的な意味 その2

「その1」のつづきです。

「その1」はこちら

フッサールが立てた新しい問い(『第2章 現象学的「還元」について』より)

第1章で、問題は「主観か客観か」ではなく別のところにある、という着想が得られた。それは、問題とすべきなのは何か、という話につながって来る。

フッサールも、客観的な認識や、客観的な存在は証明できないことを認める。その点では主観重視の見方と同じだ。しかし、人間は身の回りの世界が存在することを疑っていない(フッサールも、これを書いている僕も)。

一方で、どんな見方も主観、あるいは個々人の思い込みであって、同様に正しいし、同様に間違っている、という考え方にもフッサールは同意しない。日常生活でこんなことを言っていては何もできない、つまりこの見方は問題解決能力を失っている。実際我々は、他人が見つけた「正しい」と思われる事実や「正しい」と思われる法則のおかげで、便利な日常生活を送れている。

では、人間が「何ものかが確かに存在する」という確信をもてるのは何故か?というのがフッサールの立てた新しい問いである。

『人間は<主観>の中に、ある「疑えないもの」を見出し、それを他人と共有せざるを得ないような構造を持っている』
(第2章 p42)

そこでフッサールが採ったアプローチの仕方は、「戦略的に独我論から始める」(同著 序説 p13)というものだった。独我論とは、世界があるのか無いのかはなんとも言えないが、それを疑っている私自身の存在は疑えない、ということだ。デカルトの「我思うゆえに我あり」だ。言い換えれば、戦略的なアプローチとして、まず主観の立場に立つわけだ。

還元(『第2章 現象学的「還元」について』より)

この章で、現象学で重要な用語「還元」が初登場する。ちょっと不親切なことに、本文中で初出する箇所で「ほぼ今まで述べてきたような事柄に尽きる」(p44〜45)と書かれている。たしかに「今まで述べてきたような事柄」はわかりやすく納得できたのだが、これだと、真正面から定義する(一言でいう)ことから逃げているというか、怠慢のように感じられた。しかし、他の箇所の説明はとっても良いので、もしかしたら紙幅の都合だったのかもしれない。

そこで竹田先生に代わって、ちょっと頑張って(なるべく)一言で言おうとしてみる。

『還元』:
前提:主観か客観か、という見方は捨てる。
あくまで主観の中で、ある「認識」について、それに付着した思い込みを取り払って、どうしても疑えない根拠を特定すること。
(言い換えれば、主観の中で、「確信」が生まれる条件を明らかにすること。)

第3章まで読み進むと、次のような説明が現れて理解の助けになる。

『じつは、<還元>とは、ただ「客観がまず存在する」という前提をやめて独我論的に考えを進める、という"発想の転換"、視線の変更を意味するにすぎない』
(第3章 p80)

「還元」について、世間でよく言われる説明については、次のように言及されている。これには全く同感だった。

『現象学的「還元」とは「事象それ自身に立ち戻ることだ」とか、「純粋意識」の場面に立つことだ、などという言い方がある。これらの言い方はまったくの誤りではないにせよ、極めてあいまいであり、かつ誤解を呼びやすいものだ。』
(第2章 p45)

思い込みを取り払って到達できる「疑えない根拠」、つまりある認識を「還元」して発見できる「確信の根底」とは何か?それは「原的に与える働きをする直観」(p45)(略して原的な直観)と言われる。

原的に与える働きをする直観(『第2章 現象学的「還元」について』より)

この言い回しはちょっとわかりにくい。日本の哲学業界では、ドイツ語の直訳を伝統的に使ってきたので、今もこのように言わざるを得ないのだろう。おそらく原文はもっと普通な(=日常語的な)表現なのかもしれない。たとえば「オリジナルに与えられる直観」とか。

「原的な直観」に関する良くある誤解について、またデリダが登場して切り倒されている(竹田先生もデリダが嫌いなんじゃないだろうか)。

『J・デリダは、フッサールの「原的な直観」という概念を、"正しい認識を作りあげていくための「起源」としての出発点"と理解し、そのため現象学は伝統的な形而上学を擁護している、といった批判を行っている。ところがフッサールがこれを「認識の正当性の源泉」だと言うのは、「原的な直観」は「正しい認識」のための基礎だと言うのではなく、ただ人間のさまざまな判断がこれは間違いない(不可疑だ)という確信を伴うための根拠だ、と言っているにすぎないのである。』
(同著 第2章 p50)

さてこの「原的に与える働きをする直観」(意訳して、オリジナルに与えられる直観)は、人間の意識の外から勝手にやってくる。「我思うゆえに我あり」の「我」の外側から、「我」の意思とは無関係に入ってくる輩である。だから人間は「原的な直観」を「疑えない」。

火に触れれば熱いし、氷に触れれば冷たい。この知覚自体は意識では変えようが無い。(心頭滅却しても火はやっぱり熱いということだ 笑)逆に、記憶や想像は、意識的に呼び起こしたり、考えないようにすることができる。そういうわけで、彼は今目の前にある火の存在を疑えなくなる。

『<知覚>だけは意識の自由にならないものとして現れる』(p55)。『まさしくこの理由によってのみ、<知覚>は、「疑えないもの」、ほんとうのもの」という確信一般を人間に生じさせる「源泉」だとみなされる』(p55〜56)。

この「原的な直観」を基礎として、人間は他人や身の回りの物の存在を確信し、世界の存在を確信する。

「その3」(完結編)につづく

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