TRPGシナリオ製作術 【制作者が悩む『リアリティ』は2つの視点で思考する】

記念すべき10記事目ですが、タイトルをナンバリングすると「最初の記事から読まないといけないのかな……?」という問題が発生しそうなので今回からナンバリングをやめます。
この記事以外にも、TRPGシナリオ制作時に役立ちそうな技術をまとめていますので、興味のある方は他の記事もよろしくお願いします。

今回はゲームデザイン、ゲームプラン技術としてのリアリティの話と、脚本技術としてのリアリティの話を切り分けつつ、どのようなリアリティがTRPGシナリオを良くしていくのか考察しています。

ゲーム用語としてのリアリティも脚本用語としてのリアリティも重要な技術です。しかし、リアリティを追求し過ぎてしまうと、プレイヤーに疎まれてしまうようなゲームデザインや脚本を作ってしまいます。


↺ゲーム用語、脚本用語としての『リアリティ』とは、リアルであること

↳とはいえ、『ファンタジーの対義語』というわけでもなさそう

まるで現実を想起させるゲームシステムやゲームプラン、または脚本の描写を指して『リアル』と表現することが多々あります。

ひとまず例として、『MP(マジックポイント)が無くなると、そのキャラクターは気絶する』というゲームシステムが採用されているゲームを想像してみてください。
そもそもMPというシステムは"現実"から最も遠い位置にあるゲームシステムと言えるでしょう。『魔法』や『呪文』や『超能力』などなど、とにかく魔術的な行動をすることが出来る時点で、現実的ではありません。現実には魔法も呪文も超能力も科学的に観測出来ていないからです。
人類は今まで、どんな未知の現象にも何とか頑張って法則性や計算式を編み出し、科学や数学で解決しようとしてきましたが、2024年現在では魔法を観測出来ていません。
要するに、とことん現実的ではないということです。

そんな魔法を、そのキャラクターはどれだけ使用することが出来るのか数値として可視化されているのがMPというゲームシステムです。
人が現在持っている体力などを数値として可視化されているのもまた現実的じゃないですよね。

人は自分の体力や筋力、精神力を数値化することは出来ておらず、せいぜい身長や体重、血圧や血糖値などなどを数値化出来るぐらいであることと、50m走を何秒で走れるか、シャトルランを何分継続できるかなど、間接的な方法によって自らの体力を計り知ることしか出来ません。頭の上にMPやHPのバーが数字と一緒に表示されていません。
MPというシステムは、とんでもなく現実的ではないのです。

では、そんなMPが無くなると気絶するというシステムはどうでしょうか。こちらはMPというゲームシステムと比べて現実的なのではないでしょうか。

魔法を使うのにMPを消費するということを前提として認めた場合、わざわざMPとHPといったようにポイントを分けるということは、魔法は体力ではなく魔力という体内の物質を使用しているということになるでしょう。少なくとも、HPというゲームシステムが別にあるのであれば、体力的な物とは少しだけ違う体内物質的な何かであると考えられます。
そんなMPが体内から枯渇してしまったとき、そのキャラクターが気を失ってしまうというゲームシステムというものを解釈するのであれば、MPというものは健全な人として活動するために必要な何らかの物質であり、そんな体内物質を対価として魔法を放つことが出来る世界設定であると説明出来るでしょう。
そう考えてみれば、気絶するのも納得です。人の活動に必要な何らかの物質で、更に魔法を使用するのにも消費する体力的な物質をMPと定義した架空の世界の出来事として、リアルであると言えるでしょう。

MPが枯渇しても気絶しないシステムだった場合も、MPが枯渇すると魔法が使えなくなる理由として『周囲の環境から魔力を蓄えているが、それが無くなると蓄える時間が必要』だとか、なんでもいいので後付けで理由さえ追加してあげれば、舞台設定として組み込むことによってリアリティは生まれます。

魔法が使える世界だとして、魔法を使うための魔力をどうしているのか脚本側で決めておけば、おのずとゲームシステム側で魔力の管理をする必要が発生します。MPというゲームデザインもまた、そういった経緯で必要になったから生まれたゲーム用語なのかもしれません。
このように、脚本上必要になった舞台設定を考慮してゲームシステムを脚本に連動させていく流れはゲームプランを脚本とゲームデザイン両方に落とし込む流れとして一般的です。

『MPが枯渇すると気絶する』というゲームシステムを解釈すると、非現実的な現象でありながら現実的なゲームシステムでもあるというバランスでMPというシステムが扱われているようにみえます。

この流れでHP(ヒットポイント)の説明も致します。どうしてHPはHitという単語が使われているのでしょうか。
相手に攻撃された、または相手を攻撃した回数をカウントするためのステータスであると解釈できますが、ゲーム用語における一般的なHPというものの中身をもう少し具体的にすると、体調面や体力面やスタミナなどを考慮した全体的な人としての体力を管理していて、HPが0になると気絶したり死亡したりするというゲームが多い印象があります。Hitから察するに、敵からどれぐらい殴られても大丈夫なのかの許容値をHPとして表現していることになるでしょう。しかし、もっと拡大された解釈でHPは扱われています。
ゲームルールを考える流れのなかで、『相手からどれぐらい攻撃されても大丈夫なのか数値化する』という視点から始まったゲームシステム用語というわけで、Hitという言葉が選ばれた様子です。日本語にするなら耐久力となるでしょう。

人の耐久力を数値化していたり、耐久力というものを総合的に拡大解釈して1つの値にまとめたことはリアルではありません。
よくある例え話として、『もうHPが残り1しかないキャラクターは、タンスの角に足の小指をぶつけただけでも気絶したり死亡したりするのか問題』というものがあります。
人の最大HPが100だとして、タンスの角に小指をぶつけた痛みや衝撃を考慮すると確かに、HPは1ぐらい減少しそうです。しかし、もしHPが残り1のボロボロの状態のキャラクターがいたとして、とはいえタンスの角に小指をぶつけたことで1ダメージを受けて、それによってHPが0になり、致命傷になるのは現実的ではないですよね。

上記の問題を解決するために、『HPというものはその人物が致命傷を回避できる指標であり、HPが少なくなったキャラクターというものは致命傷を回避するための体力的余裕が無い』と解釈することによって、HPが1の時にタンスの角に小指をぶつけた場合は、その衝撃で転倒してしまい、頭部などの急所を守る受け身もとれないので、頭を打って気絶、または死亡してしまうが、HPが十分にあるときはタンスの角に小指をぶつけたとしても、痛いと思うだけで転倒することはない。しかし、この小指をぶつけたダメージの1点は残るので、後々タンスの角に小指をぶつけたダメージのせいで敵の攻撃が避けきれず、致命傷になってしまう可能性がある。とする考え方を発言してくれたゲーム制作者の方もいらっしゃいます。
もしくは、体の部位ごとにHPを設定しておく解決策もあります。手足や胴体や頭部などのHPがそれぞれ減少するルールだと、足のHPが0になっても歩行に支障がでるのであって命に別状はないとするルールで死亡してしまうのを解決できます。
この2つの解決策は、HPというゲームデザインに対して、よりリアリティを追求した形で問題を解決しています。
しかし多くのゲームにおいて、HPはゲームシステムやゲームプラン側の都合としてシンプルに扱われている印象です。

このようにゲームデザインやゲームプランに合わせて設計されたルールをどれぐらい現実に近づけるかによって、面白さが増す方向に調整するのが、ゲーム用語としてのリアリティの価値となります。面白さが増すのであれば、どんどんリアリティを追求したほうが良いでしょう。
しかし、リアリティを追求しすぎたあまり、面白さより面倒臭いという感情が勝ってしまう場合がありますが、次の大見出しにてその現象を考えていきます。

↳脚本としてのリアリティは、ゲームよりも重要で多大な影響力で脚本を支配しているテクニックである

では、脚本的な目線から見てリアル、またはリアリティとはなんでしょう。
例えば、物語のキャラクターが「私のMPが無くなった!」なんて発言をした場合、リアリティのある言葉なのかどうかは舞台設定次第です。

ストーリー上で『この世界におけるMPという用語は人の魔力値を表しています』と読者に説明していたとしましょう。しかし、ストーリー上に出てきた言葉や用語は、『チェーホフの銃』の考え方でいくと、今後のストーリーにも関わらなければなりません。
チェーホフの銃とは、"誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。"という考え方であり、今回の場合は『わざわざMPというゲーム用語をキャラクターに言わせたからには、MPという言葉が重要なストーリーであるべき』だと思います。
もしストーリーに関わらない設定なのであれば、もっと無難で世界的に一般的な呼称になりそうな『魔力』とか、英語というかカタカナが含まれるのを許容するにしても『魔法エネルギー』だとか、魔法が使える舞台設定のなかでわざわざMP(マジックポイント)という言葉を使う必要はありません。
わざわざ説明しないといけないような言葉を改めて用意して、それを説明するシーンというものは、ただの無駄なシーンとなる可能性があります。しかも、そういったことをキャラクターが説明するようなシーンは、キャラクターが説明口調になってしまって更に不自然なシーンになりがちです。

しかし、説明しなければいけないシーンは物語に必ずあります。舞台設定上必ず必要なことで、なおかつキャラクターたちにとってもストーリーにとっても重要な舞台設定は説明シーンが必要です。
そういった説明が必要なシーンに集中してもらうためにも、無駄なシーンは省く必要があります。

まとめると、ストーリーに関係のない舞台設定特有の言葉や造語を説明しようとするのは無駄なシーンになってしまうのに、ストーリーに必要な言葉や造語の説明が不足すると『どういう意味を持った言葉なのか』という疑問や『わざわざMPという言葉を使うということは、いわゆる第四の壁を超えた発言なのかどうか』などなど、視聴者や読者、プレイヤーたちを大いに混乱させてしまいます。

脚本における"リアリティ"とは、より現実味のあるセリフや描写やストーリー、人間関係、感情の描写に付与されるものです。
キャラクターの魔力が尽きて気絶するシーンをリアルに描写するのなら、魔法を苦しそうな表情で使用し続けた挙げ句に、無言で倒れて気絶するような描写で表現するのがリアリティであって、「私のMPが無くなった!」なんてセリフはとんでもなくリアリティからかけ離れたセリフです。
このキャラクターが生活している世界では本当にMPという言葉を自身の魔力値として表現する世界観だったとして、そして本当にMPがなくなったのだとして、どういう"感情"でこんなセリフを叫ぶのか、説明が不足しています。

逆に、本当はMPが残っていたとすると、敵を欺くために、一瞬でも良いから隙を作ろうとして、あえて「私のMPが無くなった!」と叫んで気絶したフリをするシーンなのであれば、この短いセリフに『敵を欺くためには、たとえ幼稚な方法でも手段を選ばない』という"キャラクターの感情"をも情報として含ませてあるセリフとなり、リアリティが生まれます。そして、ストーリーに関わってくる言葉なので、事前に『MPという言葉は魔力を表す言葉である』ことを説明しておくべきでしょう。

上記のように、ゲームとしての『リアル』と脚本としての『リアル』は似て非なる用語です。特にゲームデザイン、ゲームプラン的な目線でリアリティを考えるのは割と直感的で分かりやすいのですが、脚本目線で『脚本にリアリティを追加する』作業を考えると、これは最早必須ともいえる考え方であり、何も考えずに言葉や造語をストーリーに登場させて、その場で思いついたノリでキャラクターたちにセリフを喋らせていると、『リアリティのない会話』が出来上がります。日常会話みたいな状況で舞台設定を淡々と説明するキャラクターが登場したり、『パルスのファルシのルシがコクーンでパージ』などという難読文章が発生したりします。

リアリティという考え方を排除した、または欠如した現実味のないセリフたちを、良しとするのかどうかは作者の流派や主義によって様々です。
正直、キャラクターのメタ発言や、訳分からん造語が満載の発言は面白かったりしますし、異世界転生モノのライトノベルにおいてキャラクターたちが『MP』や『ステータス』や『レベル』という単語を普通に使用するのも『わざわざ改めてMPやステータスやレベルという単語を読者に説明しなくても意味が伝わる=読者に向かっての説明シーンが不要』という図式が成り立つからだったりします。異世界転生してきた主人公もゲーム知識がある設定で、MPやステータスやレベルという単語を聞いてその場で即理解して話が進んでいくのは定番ですね。いちいち主人公が「レベルって何ですか?」なんて質問するシーンが必要なくなるように脚本が書かれています。
そういう意味で、リアリティをあえて排除したシーンを意図的に配置するコントロールとバランス力は脚本を書く上で腕の見せ所です。

例えば、とある世界に異世界転生してしまった主人公の耳に、道行く鎧姿の人たちの会話が聞こえてきたシーンを想像してください。彼らのリーダーと思しき男性が部下たちに対して
「よし、まずはバルディオンを打倒するために必要な戦力を確保するためタンヌトゥヴァへ向かい、そこで各々のアーティファクトをリチャージしよう。目的としてベルモンド様への謁見は重要だとしても、バルバロス卿の救援に向かわず、政治行動に奔走するのは黒竜聖騎士団としてあり得ない。我々は常にセフィアクリ様と弱者の味方である!」
というセリフがあったとして、この世界の情報がない主人公も読者も「タンヌ……何だって?」と、ちんぷんかんぷんになってしまいます。

しかし、先程のセリフを改変して
「よし、まずは我々と敵対している組織である『バルディオン』を打倒するために必要な戦力を確保するため、魔力資源が豊富な都市である『タンヌトゥヴァ』へ向かい、そこで各々の魔法剣や魔力鎧といったアーティファクトをリチャージして魔法剣や魔力鎧に魔力を充填し直そう。政治的な課題として我らが領主様のベルモンド様への謁見は重要だとしても、戦力として同盟を組んでいるバルバロス卿の救援に向かわず、政治行動に奔走するのは黒竜聖騎士団としてあり得ない。我々は常に『総ての神の中の第一神』、『大地を想像せし黒竜神』であらせられるセフィアクリ神と、弱者を守る正義の味方である!」
というセリフに変更したとします。
主人公にとっても読者にとってもいくらか黒竜聖騎士団リーダーの言っている意味が理解できるようになったかと思われますが、これはよくやってしまいがちな間違いであり、説明シーンをキャラクターに言わせてしまっている典型例です。

黒竜聖騎士団という団体のリーダーが、部下に対して"我々と敵対している組織である『バルディオン』"という遠回しな言い方をするかと言われれば、芝居がかった印象や演説のような喋り方である印象を受けます。
もともと芝居がかった喋り方をする人間像であるという設定なんだとしても、敵対している組織ぐらい部下だって知っていて当然なのに、わざわざ"我々と敵対している"と補足説明する必要はありませんし、なんなら"奴ら"とか"敵"と省略して会話するほうが自然です。
リーダーは要するに「一旦、敵組織はおいといて、タンヌトゥヴァで補給したあと仲間のバルバロス卿を助けに行こう」という話を部下にするつもりなんですが、先程のセリフではこの世界特有の固有名詞が大量に含まれているため、舞台設定の説明シーンをしているつもりで、ただ読者を設定で圧倒しているだけのシーンとなってしまいます。
騎士団のリーダーが部下に話しかけているのだから、尚更彼らの間では知識や教養、思想などが統一されており、もっと短い会話で命令されてしかるべきですし、それがリアリティというものです。
ちなみに、リーダーとして器量や能力が不足しているという設定を仄めかしたいなら、逆にもっと冗長なセリフをダラダラ喋らせた後、部下にコッソリバカにされているシーンなどを追加する方がリアルです。

脚本の都合を加味してセリフを練り直すのであれば、今後のストーリーに関係する単語が読者に徐々にインプットされるようなセリフに変更し直したほうが良いでしょう。
例えば、主人公が後に『バルディオン』という組織に加入して、戦いに身を投じていくストーリー展開で、バルディオンと黒竜聖騎士団は宗教的な問題で争っているのだとすれば、リーダーのセリフを改変して、
「『バルディオン』どもとの聖戦に備えるため、補給地に移動するぞ。黒竜聖騎士団、前進!」
ぐらいのセリフにしておくべきでしょう。
リーダーが"補給地"と呼んだ場所がタンヌトゥヴァという都市であること、向かった理由が魔力を帯びた装備品の整備が目的であること、ベルモンド様やバルバロス卿といった人物、そして黒竜聖騎士団は自らを正義の味方であると主張していることなどは、この後に徐々に明かされていけば良いですし、ストーリーに関わってくる順番を考慮して『不自然な説明シーンにならないように』工夫することが大事です。

逆に言えば、自然と説明シーンが必要になるシーンもあります。主人公が誰かに何かを質問すると、その説明を誰かがしてくれるでしょう。
先程の例の続きとして、黒竜聖騎士団のリーダーの会話を聞いていた主人公が、酒場のマスターなどに「『セフィアクリ神』って何?」といった質問をした場合、酒場のマスターはマスターの立場として『総ての神の中の第一神』、『大地を想像せし黒竜神』という説明をしてくれるでしょう。更に、何なら『総ての神の中の第一神』という主張をしているのは黒竜聖騎士団だけであって、第一神がどの神なのか世間は揉めているという説明を追加すれば、『主人公が今後巻き込まれるのは宗教戦争である』ということを主人公よりも一足先に読者に匂わせておくことができますし、宗教戦争が勃発しているといった大規模な世界情勢について酒場のマスターが知っていて、それを説明してくれるのは至って自然ですし、リアリティがあります。

もしリアリティを追求しすぎた場合、異世界転生してきた主人公の設定として、黒竜聖騎士団のリーダーがそもそも知らない言語で喋っているどころか、主人公はこの世界の言語を全く知らない状態で放り出されてもおかしくありません。
日本語も英語も通じない状況のなかで、ホームレスとして生きていくしか無い主人公も日々の生活の中でこの世界の言語を理解し始め、優しい酒場のマスターがたまにまかない料理を出してくれるなどして、どうにかこうにかサバイバルしながら3年の月日が経った……という物語の始まりはかなりリアリティのある展開ですが、チェーホフの銃的にこの展開が今後のストーリーに影響しているべきなのは変わりません。
3年間サバイバルしながら言語を習得する主人公というシーンをやったのなら、言語習得のノウハウや3年間サバイバルしたノウハウを活かした立ち回りで主人公は活躍していくべきですし、『異世界から転生してきた』という言葉に該当するこの世界の単語がなかなか見つからず、主人公は自分の境遇を上手く説明出来ないシーンがあったりだとか、新しい異世界転生者と出会った時、その転生者が日本語を喋るのを聞いた主人公は、故郷を懐かしつつも翻訳やこの世界の言語習得に協力してあげる展開などもあって然るべきでしょう。
チェーホフの銃とは、上記のような伏線回収をしようという話であって、本来は伏線回収に焦点をあてた言葉なのですが、脚本におけるリアリティのバランス調整の指標として意外と重宝します。
そのセリフやシーン、ストーリー展開がリアリティという目線で見て必要なのかどうか、キャラクターがセリフの中に何らかのキーワードを含ませて喋るからには、今後のストーリーで再びそれが登場する必要があります。
何なら、何度も物語に登場させて印象付ける『リフレイン』という技術もありますが、一旦置いておきます。

つまり、脚本においてのリアリティとは、ただ追求するだけではなく、脚本全体の方向性を大きく支配する影響力を持った技術であり、大まかなプロット全体の流れを調整する必要もあれば、全てのシーンの細かい描写一つ一つ、キャラクター達のセリフの細部まで気を付けて調整する必要があるということです。
ゲームデザイン、ゲームプランのリアリティとは違って、脚本のリアリティという技術の重みは段違いに重いのです。同じリアリティという言葉であっても、全然違う技術だとして切り分けて考えましょう。

↺リアリティの弊害

↳ゲームデザインやゲームプラン的なリアリティを追求しすぎると、『面白い』より『面倒臭い』が勝つ

ハッキリと申しますとゲームデザイン、ゲームプラン目線で見た『リアリティ』という技術は諸刃の剣ともいえる技術です。主にゲームの難易度周りに影響してきますが、リアリティというものは追加すればするほどゲームの難易度は上昇しがちです。

例えば、ゲームのキャラクターが何かを持ち歩こうとした場合、カバンやリュックサックを背負って行動することになるでしょうが、キャラクターが持つことのできるアイテムの総量をアイテム重量で管理するゲームはかなり一般的なゲームシステムとして普及しました。大昔のRPGから『アイテムを持ちすぎると重たくて行動に支障が出るよ』というシステムが海外のRPGでは一般的でした。
重量システムをゲームに落とし込むとなると、リアルに寄せる場合、人類が普段から持ち歩く現実的な重量を参考にすることが出来ます。
例えば、登山する時の装備品の重さは5kgぐらいです。人が仕事中に素手で連続して荷物運びをする場合、20kg以下でなければならない法律があります。現代の軍隊の装備品は全部合わせて40kg以上になる場合もあります。
正直、40kg以上の装備品を身に着けて歩き続けるのは、一般市民の目線で考えるとそれだけでも苦行であり、普段から鍛えている人でなければ厳しいと想像できます。魔法が存在するファンタジーの世界なら『荷物を運ぶ』、『重い鎧の代わりに軽い防御力を手にする』という目的で魔法を使う発想があってもおかしくありません。
人類はとにかく重量物をどうにかするために車輪を開発したぐらい重い物を運ぶために努力してきました。そのため、魔法や手押し車、馬車などで50kg以上の荷物を運搬しようとするのはリアリティのある行動です。
しかし、もし重い物を運搬中に咄嗟に戦闘することになったら、とてつもなく危険な状態だと思いませんか。
海外のゲームでは、リュックサックを背負った状態で戦闘するとステータスにマイナスの効果が発生するので、わざわざ戦闘の1ターン目に『リュックサックを降ろす』という行動が必要なゲームが散見されたりします。

例えば、主人公が一人で馬車に乗って荷物を運んでいる時、突然前後の道を塞がれて、山賊が4人、5人やってきてしまったらもう大変です。
現実的に考えると、山賊は主人公を殺す必要はなく、荷物を奪えれば良いのです。主人公を惹きつける役が1人居れば良いので、その山賊は主人公に付かず離れず攻撃する役割の者と、残りの山賊はその隙に容赦なく荷物を盗んでいく役割の者とで別れて、戦略的に盗んできてもおかしくありません。

リアリティとは、つまり現実とは、あまりにも辛すぎる事の連続です。賊に襲われることを考慮して酒場で腕に自身のある傭兵を雇おうと思えば、彼らには仕事に対する対価を支払わなければなりません。
雇った傭兵の中に喧嘩っ早いやつが居て、街のチンピラに因縁つけられて、そこで戦闘になってしまったことを主人公は経験し、『傭兵を雇う時に面接をしないといけない』と思ったとしましょう。しかし、採用基準が甘かったせいで、傭兵パーティの中にいた傭兵サークルの姫みたいな女の子を採用してしまい、その子のせいで仲間たちの人間関係が悪化し、悪化した人間関係によって敵に寝返った傭兵が主人公の財産の三分の一ぐらいを持ち逃げし、主人公の相棒として一緒に旅をしていた有能な幼馴染が「実は独立を考えてて……」みたいな相談をしてきて……。
このあたりで『ゲームにリアリティを求める危険性』がわかってきたかと思います。リアリティにすればするほど、現実で起こるような問題事と面倒事が次々に発生して、折角の異世界ファンタジーなのに、傭兵を雇うために面接までする中間管理職みたいなことをする羽目になるし、そのためのゲームシステムとデザイン、難易度調整に翻弄されることになります。
敵モンスターの強さのバランスを考えることに追加して、味方たちの行動をシステムで管理し、急に寝返ったり脱退したり、人間関係が変化して仲良くなったり悪くなったりなどなど、味方にも注意しないといけないRPGを『楽しい』と思うか『面倒臭い』と思うか、ゲームのコンセプトに沿っているかどうか考える必要があります。大人が遊ぶダークファンタジーならまだしも、子供が遊ぶ異世界ファンタジーなら、主人公組織の人事管理までプレイヤーにさせるのは大変です。

つまり、小説や漫画ならまだギャグシーンとして成立しますが、ゲームを遊んでいると思って上記の出来事を体験した場合、『面白い!』と思ってくれるか『面倒臭い!』と思うかはプレイヤー次第です。

さらに事態をややこしくしている事として、ゲーマーの中には「とことんリアリティを追求して欲しい」という『リアリティ過激派』がいます。ゲームが面倒臭いのは当前だとして、とにかくリアリティを追求して欲しいという一派です。
そういう派閥がいるのでリアリティ要素は一見追加しやすいのですが、当たり前なことにライトゲーマー層のプレイヤーにとってリアルで面倒臭いシステムはウケが悪いです。
そのため、『リアリティ』をプレイヤー側が選択できる状態にするというアイデアもあります。スイッチのようにリアリティ的システムをオン・オフ出来る機能と一緒に、ツマミでボリュームを操作するような、パーセントで好みのリアリティに調整出来るようにするアイデアです。
しかし、このアイデアはゲームデザインとゲームプラン両方にとてつもない負担をかけることになるため、ゲームプランナーはアイデアとして思いついてもデザイナーに相談できるようなアイデアではありません。

ゲームプランによっては、リアリティ要素のあるシステムを制作者側が指定するよりもプレイヤー側で選べるほうが良いとされるゲームシステムもあれば、ゲームプランとしてベストなところを狙い撃ちするために、制作者側が細かく調整していくゲームルールもあるなかで、クオリティの追加、もしくは排除は頭を悩ませ続けている問題です。クオリティ要素のオン・オフならまだしも、0から100まで段階的に調整出来るシステムは難しすぎます。

しかし、この記事はTRPGシナリオ制作の一助となればと思って執筆していますので、コンシューマーゲーム制作の話ではなく、TRPGシナリオを執筆するときの話に置き換えて考えてみる必要があります。

シナリオの場合、ゲームシステムは既に完成したものを使用するため、シナリオ側は割と気軽に思いついたアイデアをシナリオルールとして導入出来ます。
例えば、味方をかばうという行動の扱いについてや、相手の武器を奪うという行動についてなどなど、ルールブックに書かれていない戦闘時のルールをシナリオ側で追記することです。
情報収集をしているシーンでPLたちをそれぞれ別れて行動させるかどうかも、リアルな発想から出てきたPLたちの行動宣言だと思いますが、コンシューマーゲームで主人公パーティーを別けて行動させるのは難しくても、TRPGならシナリオを調整することでなんとかなりそうです。
NPCの仲間も割とフランクに追加することが出来ます。ストーリーに関わってくる重要なNPCの他に、探索の助っ人や戦闘の助っ人としてピンポイントで仲間になるNPCを用意してあげても良いでしょう。彼らを仲間にするリスクとリターンを提示してあげれば、PLたちは選択肢が増えて悩む楽しみが生まれますし、いちいち仲間を増やして管理するのが面倒臭いというPLならば、単純に仲間にしなければいいので、先程の『リアリティ要素をPL側でスイッチできる』システムにすることも出来ます。

リアリティ要素を追加するために、もしくは過剰なリアリティ要素を抜くために、シナリオ独自のルールを提示したほうがPLたちが楽しく遊べるだろうと思った場合は、独自のルールをシナリオに追記してみましょう。

実際はシナリオを回しているGMの判断もそこに加わります。TRPGシナリオはGMに対する演出指示書という側面もあるためです。本来のゲームシステムにないルールをシナリオで指定したとしても、GM裁量が加わってよりPLたちの好みや、その場の状況に即したルールに改変することができるのも、PLとGMが楽しく遊ぶためには必要なことであり、TRPGという遊びの良いところです。
シナリオに独自のルールとして書いてあるからこそGMやPLの新しい遊び方や新しいRPの発想に繋がる可能性もあるため、『あくまでGM裁量ですが』と前置きしつつ独自ルールの追加をシナリオ側で提案するは良いアイデアです。それを採用するかどうかもまた『リアリティ要素のオン・オフやボリューム調整』という事になりますし、コンシューマーゲームと違ってPLとGMが相談したりなどして、より柔軟に調整することができます。
この『GM裁量』という『GMがPLと相談しながらルールを変えていくことができる遊び方』は、コンシューマーゲームにはできないTRPG最大のメリットです。この機能があるお陰で、TRPGにおいてクオリティの要素を追加することは割と歓迎されるゲームシステムとなります。リアリティ過ぎるのが面倒臭いと感じるタイプのPLならば、GMがそういう要素を適度に抜けば良いのです。
コンシューマーゲームで同じことをプログラミングでやろうとするのは大変です。

ルールブックとして販売されているTRPGゲームシステムは、あくまで不特定多数の人たちに楽しんでもらえるようにルール調整されています。そこからさらに特定のGMとPLが楽しく遊べるようなルール追加は積極的にしていくべきです。
シナリオ執筆時に思いついた楽しいルールなどは、採用するかどうかGMに任せつつシナリオに書いておきましょう。

↳脚本としてのリアリティの弊害は『無い』とするが、コンセプトに沿わないリアリティは必要ない

対して脚本を書く上でリアリティという考え方をどう取り扱えば良いのかという点を考察してみます。
この記事を書く前からも、この記事を書いている最中にも、脚本からリアリティをあえて抜く必要があるのかと考え続けた結果、筆者は無いと思いました。

一応、脚本のハウツー本として代表的な『セーブ・ザ・キャットの法則』という本の中に、リアリティについて言及されたテクニック『魔法は一回だけ』というテクニックがあります。
要するに、ご都合主義的な展開は一度だけ許されるという考え方です。
『魔法は一回だけ』という指標をもってストーリーを考えた場合、『実は地球を侵略しようと考えているマルチバース先の別次元エイリアンがいる』のと『実は地球の奥底には地下帝国があり、地底人が地上の覇権を狙っている』という2つの組織が同時に偶然登場するストーリーは起きてはならないということになります。
どちらか一方だけなら、『そういう存在が実はいました』という前提で話を進めても読者はまだ何とか「そうだったんか」と飲み込んでくれますが、『マルチバースエイリアン』も『地底人』も実は両方いましたというストーリーの場合は「都合が良すぎないか?」という感情を読者が抱いてしまいます。一度そういう視点でストーリーを見始めてしまうと、その後は都合良く偶然が発生するたびにご都合主義なストーリーであると思われ続け、ストーリーに集中してもらえなくなる、という考え方が『魔法は一回だけ』というテクニックです。

物語上で偶然ではなく必然的に起こった出来事だとして読者や視聴者に思ってもらえれば『魔法は一回だけ』のルールに抵触しないので、舞台設定設定上必然だったと説明するシーンがどうしても必要になります。しかし、説明のシーンは短ければ短いほどスマートですし、説明シーンは少なければ少ないほど物語への集中力を分散させずに済みます。
そのため、この2つの組織が必然的に発生した出来事だと短く端的に読者や視聴者に伝えなければならず、それはとてつもない難易度です。
読者が納得できるほど長々と説明しシーンをやってしまうと、今度はその説明シーンが退屈なシーンになってしまいます。

もちろん、とてつもない難易度でもこの2つの題材の組み合わせを違和感なく組み合わせてスマートなストーリー展開を作ることができるかもしれませんが、わざわざそんな難しいストーリーというか、『マルチバースエイリアン』と『地底人』という題材を両方使うことに固執するより、どういったコンセプトの脚本を書こうとしているのかを考慮して片方を諦めるなど、考え直したほうが執筆で悩む時間を大幅に減らせます。
どのような読者や視聴者をターゲットにして、見終わった後どういう感情になってほしいのか考えた場合、本当に『マルチバースエイリアン』と『地底人』という題材を掛け合わせる必要があるのかと考え、コンセプトに沿っていないなら止めましょう。

上記は題材ありきで物語を書こうとしてコンセプトという考え方がブレてしまっている例なのですが、『魔法は一回だけ』という言葉に込められている言葉の重みが凝縮されていることに気付けると思います。リアリティ要素を考慮して考えると『マルチバースエイリアン』と『地底人』を両立した脚本を書く難易度がとんでもないので、もっと自然な題材の組み合わせでコンセプトを組み立てたほうが圧倒的に楽です。

別の例として、リアリティを追加し過ぎてしまった場合も考えてみましょう。
脚本目線としてのリアリティは追加すればするほど自然な台詞や無理のない舞台設定になっていきますし、あるボーダーライン以上のクオリティを追求しようとすると、筆者にとって"クオリティの追求"という行為そのものが楽しくなってしまうことがありますが、事前に設定しておいた『どういった観客をターゲットにしているのか』とか『観客に何らかの感情でもって感動してもらいたい』というコンセプトから外れてしまうようでは、本末転倒ということになります。
確かに男女関係のドロドロを永遠と表現し続けるみたいな映画は、人間関係という点でリアルかもしれません。しかし、見終わった後の観客がどういった感情を抱けば良いのかモヤモヤしてハッキリとした輪郭の無い感情を与えて終わるストーリー展開は、脚本制作者側の独りよがりによって過剰にリアリティを追求してしまった結果かもしれません。
『見終わった後の観客にモヤッとした何とも言えない感想を持って欲しい』というコンセプトを狙ってやっているならまだしも、コンセプトに沿ってリアリティを追加出来る範囲はある程度決まっており、その範囲内にリアリティのある描写を収めるようコントロールしなければ、リアリティであることのメリットと、コンセプトという考え方のメリットを両方とも享受出来ずに終わることになります。

↺適切なリアリティの質と量を見極めてTRPGシナリオに導入しよう

↳脚本におけるリアリティとは、幅広い知識、現実での経験そのもの、細部にまでこだわった情景描写。そして、それらのバランスをコントロールすること

では、ここからまとめていきます。
脚本のリアリティにこだわりたい場合、上記見出しのような点に注力してみましょう。
専門性のある知識は資料を読んでインプットする必要があるため、とにかく資料を読んで参考にしましょう。大量とは言っても、専門的な書籍やブログをいくつか読むだけでもTRPGに活かせそうな単語や概念を知ることが出来ます。参考資料や参考文献もまた、色々なものを参考資料に出来ちゃいます。十数年前の新聞記事、他人のTRPGシナリオ、大学の論文、ハリウッド映画、漫画、絵画、音楽などなど、文献という言葉にとらわれず、様々な物から知識や知見を吸収しましょう。
専門的な単語を知っていたがために格好良く演出できたシーンもあれば、大量の一般常識が組み合わさってリアリティのあるシーンに仕立てることが出来ることもあるでしょう。
重要なのは、アウトプットするためにはインプットが必要だということです。

参考資料や参考文献だけでなく、自らの経験も活かしましょう。特に五感表現は経験に頼らざるをえません。雨上がりにのアスファルトに反射する太陽光や立ち上る匂い、冬の突き刺すような気温、肌から感じる体感温度、革製品と絹製品の手触りの違い、田舎で鳴いている鳥の特徴的な鳴き声などなど。
人間関係でも子供の頃の友情と大人になってからの友情には違いがあり、愛と恋にも違いがあり、家族愛もあれば、家族が憎くて事件に発展することもあります。日本文化と他国文化でも人との繋がり方に違いがあり、性格は十人十色です。
資料で集めることができるリアリティと、経験でしか集める方法がないリアリティとがあります。折角なら場面に合わせて使いこなしたいですよね。

アウトプットする時にも、バランスをコントロールする必要があります。とある業界のシーンを描写しようとして、専門用語をたくさん列べればそれっぽくもなりますが、やり過ぎて読者に伝わらなければ、説明シーンが必要になります。説明シーンというものは、本当に集中して説明を聞いて欲しいシーンじゃない限り、排除するのが無難です。説明シーンに物語の推進力を持たせるためには、ストーリー上重要な言葉や用語で、読者自身も興味がある内容である必要があります。
読者の興味が湧かないトピックの説明シーンは、いたずらにストーリーを停滞させることになるので、リアリティを追加しようとして業界用語や舞台設定特有の造語を濫造させるのは止めましょう。

人に伝わる内容であれば、ニュアンスの追加は重要です。
物語のテンポにも影響しますが、人は詳細な情景描写をすればするほど、重要なシーンだと覚えてくれます。重要でないシーンに五感情報をフル動員させる情景描写は、狙っていないのに、匂わせシーンだと勘違いされる場合もありますし、ここぞというシーンで詳細な描写をしても、全てのシーンと同じ情景描写量になってしまうのなら、差別化出来ていません。
リアリティに詳細な描写は必要ですが、全てのシーンでやる必要はないということです。

このバランスをコントロールしましょう。リアリティの追加は筆者側が楽しくなったり、自己満足で追加してしまいがちです。全てのシーンを格好良く描写したいのは山々ですが、ストーリーの盛り上がりに繋がるよう重要なシーンにこそリアリティを詰め込みましょう。

↳ゲームデザインにおけるリアリティとは、現実的な選択肢に含まれる"戦略"と、本来は面倒臭いリアルな"作業"を『楽しい』の範囲に収めること

こちらもまた、まとめとしてTRPGシナリオに沿って考えてみます。
現実的に考えて可能なことでも、リアルな行動宣言をゲームに落とし込み過ぎると、制作するのが大変だったり、PLが面倒だと感じてしまったりします。

『効率良くアイテムや情報を集めるために、PCたちや協力的なNPCたちと手分けして探索したい』という発想はリアルだし当然の発想とも言えます。
しかし、探索箇所それぞれで特定のPCやNPC用のイベントを用意してしまった場合、イベントを無理なく描写するために必要だったNPCやPCがその探索場所にいないなんてことも起こります。

「仲間を守るために自分が囮になります」という行動宣言は確かに勇敢ですし、仲間のために献身したいという感情は社会的な文化を気付いてきた人間にとってリアリティのある行動原理であり、戦闘時の選択肢に含まれていて然るべきですが、囮になって敵に集中攻撃されて捕まってしまった後のルートをシナリオとして用意しておかないと、囮として捕まったあとのストーリー展開が全部GMのアドリブ描写になってしまいます。

ゲームに登場するアイテムに重量ルールを追加したとします。持って行けるアイテムに制限があると言われると、取捨選択というストレスが発生します。本当なら全部持っていきたいのに、何かを諦めなければいけない。もし必要なものを置いて来てしまって、PCたちがピンチになってしまったらさらなるストレスを生みます。
このストレスは、『持っていくべきアイテムをちゃんと所持していた』時や、『発想の転換によって必要なアイテムを持ってないけど困難を乗り越えた』ことでしか完全に解消できません。
プレイヤーに取捨選択を迫るのは簡単ですが、『緊張と緩和』という基本の基本ともいうべき技術に沿ってプレイヤーのストレスをコントロール出来ているでしょうか。
これを解決するためには、PLが持ってくることを選んだアイテムを尊重することが大事です。大袈裟な言い方かもしれませんが、取捨選択して持ってきたアイテムというものは、PLたちの"戦略"に基づいて選ばれたアイテムです。意味のないアイテムなんて無く、どんなアイテムを持ってきていても発想の転換で困難を乗り切れるようにシナリオを作っておくべきです。アイテムのなかにハズレのアイテムをわざわざ混ぜておく必要が無いということです。PLたちに楽しく戦略を練ってもらうために、取捨選択させましょう。

NPCを仲間にしようと説得するシーンがあったとします。説得の結果をダイスロールで決めたり、PCのRPで結果を決めたりしても良いのですが、説得に応じてくれるかどうか分からないNPCを仲間に出来るかどうかというシーンにダイスロールの結果で対応しようとするのは、ゲームルールに固執しすぎているかもしれません。
仲間になる理由の無いNPCを仲間にするためにPCたちが説得しはじめるのは、台本のないTRPGにおいてあるあるのシーンですが、シンプルに考えてその説得のシーンは必要なのでしょうか。
NPCに協力する理由がなく、どんなに説得しても仲間になってくれないことが分かったPLたちは、時間の無駄だったと残念な気持ちになって終わりますが、シナリオの舞台設定としてNPCに協力する理由が予めしっかり設定されてあるのなら、説得のシーンは時間の無駄ではなく『仲間になって欲しいという選択を取った』シーンになり、そのシーンに意味が生まれます。この場合はダイスロールこそ不要であり、「実は◯◯という理由があって仲間にしてほしかったんだ」とNPCが仲間になってくれたほうが面白い展開だと思いませんか。登場するNPCにそれぞれ目的をちゃんと設定しておけば、仲間にはならなくともアドバイスをしてくれるNPCだったり、仲間のフリして最後に裏切ってくるNPCだったり、そのPLたちだったからこそ発生した卓独自の展開が発生すると思います。

倒した敵幹部にまで「仲間になろう!」と説得するようなPCだった場合も、実は説得に必要な材料が揃っていれば仲間にできちゃうルートがある方が面白いですよね。
リアリティ要素にこだわり過ぎて不要なシーンを作ってしまっていないかシナリオを見直してみて下さい。
NPCにも人生があり、PCたちの知らない目的があって、その目的がストーリーに関わってくる方がストーリーに深みを追加できますので、仲間になって欲しいというシーンでダイスロールに一喜一憂する楽しみではなく、PCたちに簡単に協力しておいて、後に「実はこんな理由があって君たちに協力しようと思ったんだ」とNPCが目的を話してくるシーンの方が楽しいシーンだと思いませんか。

また別の例えですが、敵組織のアジトに潜入しているとき、敵に見付かるかどうか強制的に一定間隔で判定し続けるのは面倒です。もしダイスロールするのなら、いちいち敵に見付かったかどうかダイスロールする羽目になるのでストーリーのテンポすら破壊しかねません。
しかし、敵のアジトに潜入しているシーンなのに見付かるかどうか全く判定しないのもまたリアリティに欠けています。こういった場合はどう処理するべきでしょう。
敵に見付かるのは"面倒臭い"ので、隠れながら進むのは作業です。面倒臭い作業を"楽しい"に変換するためには、敵に見付かるというストレスをPLに与えるではなく、敵に見付からなかったら報酬を得られるというリスクとリターンの考えを意識してもらいましょう。
ダイスロールに成功すればするほど多くの報酬を得られるが、失敗したら見付かるリスクがあるという状況になるようなダイスロールをPLたちに提示するわけです。
ダイスロールに失敗するとバレてしまうリスクは変わりありません。しかし、バレないためにダイスを強制的に降るのでなく、報酬とバレるのを天秤にかけて、バレたくないから報酬を諦めてダイスを振らないという選択肢をPLが選べるようにしましょう。リアリティを維持しながら、よりゲーム性の高いルールになっていると思います。

"戦略"と"作業"を『面倒臭い』から『楽しい』に変換しましょう。シナリオを見直してみて、筆者自身やPLたちに面倒臭いと思われるルールで進行する場面があるのなら、そこを改変して楽しいルールになるように意識しましょう。

楽しいゲームデザインのコツは、楽しいゲームに詰まっています。ゲームシステムやデザインが世間に評価されているゲームや、自分自身が好きなゲームを一通り分析しましょう。どんなに高評価されているゲームにもプレイヤーの不満は付き物ですが、ネットを探せばそういった不満がゴロゴロ転がっています。自分が好きなゲームでも、不満がないことは稀です。好きなゲームだからこそ、具体的な不満点を見つけることも出来るでしょう。
評価の高いゲームの『どこが評価されていて、どこが不評なのか』調べて知っておくと、TRPGシナリオを執筆する際に、ゲームルールの部分を大いに参考にすることができます。

というか、優れたゲームはゲームシステムやデザイン以外も大変参考になります。
題材やテーマといったコンセプト周りについても参考になりますし、脚本とゲームデザインを連動させるアイデアも参考になります。
TRPGシナリオというものに最も近いエンタメ作品は小説でも漫画でも映画でもなく、コンシューマーゲームやボードゲームですので、まずはゲームをたくさん遊びましょう。

エモをコンセプトにしたシナリオを書くにも、脚本的リアリティとゲーム的リアリティの両立はシナリオのメリハリを高める結果になりますので、参考資料にゲームを含めてインプットしてみましょう。
RPを楽しむためには、リアリティのバランスが取れた舞台設定が非常に大事です。情景描写にメリハリをつけて、格好良いRPをいれる余地や空白も意識しましょう。
舞台設定や情景描写が余りにも綿密に詰め込まれ過ぎていると、PCたちのRPを挟む隙間すら埋まってしまいます。PCたちのエモいRPをするのに邪魔になる舞台設定は排除し、完璧な情景描写をシナリオで提示するのでなく、PLの好みに合わせて好きにシーンを演出出来るようにしておき、そういったPLたちの演出によって出来上がったシーンの連続でも整合性が取れるようなストーリーになるようなシナリオにしてくみてださい。
シナリオ側で性癖を詰め込みすぎると、同じ性癖を持った人しか刺さらないシナリオになり、かえって刃が鈍ります。力任せの袈裟斬りで一刀両断、もしくは全体重を乗せた重い突きでPLをぶっ◯すみたいなHO設定や秘匿描写より、手首や喉を刃先でサッと斬って残心、ぐらいの斬り方になるようなHO設定や秘匿内容、舞台設定にとどめて余白を作るほうが柔軟にPLたちのエモ需要に答えることが出来そうです。そのため、リアリティ要素をある程度抑えておき、PL側でリアリティをコントロール出来るようなシナリオにしておく必要がありそうです。

↺おわりに

以上でリアリティという考え方についての考察を一旦終了します。
具体例を織り交ぜたり、実際起こるリアリティ問題を例にとってもっと解説したい気持ちもありますが、そうすると一生記事が完成しない可能性があるのがリアリティという考え方です。
リアリティの追求は奥が深いどころか、深淵に首を突っ込むことになるため、この記事で興味が湧いた人は、自らの力でリアリティに首を突っ込んで欲しいです。
説明しきれないぐらいリアリティは闇の深い問題としてクリエイターたちを屠ってきた実績があります。死屍累々のクリエイターたちの屍たちの遺言もまたネットにたくさん転がっていますし、リアリティという概念を知ったうえで映画や漫画を読むと少し違う視点でエンタメ作品を客観視できるようになりますので、是非自分なりの答えを見つけてみてください。

この記事がTRPGシナリオ制作の一助となることを願っています。


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