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「自分がされて嫌なことを人にするな」の呪い

とくに躾らしい躾をされた記憶がない私だが、
よく父親が口にするこの言葉だけは
ずっと私の心の中にある。

これが結局、自分と他人の区別をつけなくしている。
と最近思い始めた。

自分が責められたくないから、人を責めない。
自分が褒められたいから、人を褒める。
自分が勝手に仕事を振られたくないから、人にも仕事を振らない。
自分が困りたくないから、人を困らせるような依頼をしない。
自分が怒られたくないから、人を怒らない。

綾小路つか麻呂自伝(発売未定)より一部抜粋

いまの苦悩を体現しているな。

親からの教育や躾というのは、
幼少期に培われたものが多い。
それすなわち遺伝子レベルで刷り込まれているのと同じこと。
これを呪いと呼ばずしてなんと呼ぼうか。

なぜ急にこれを思い出したかというと、
読んでいた新書に「気配り」というフレーズを見た時に
バチィと頭をよぎった。
(イメージはコナンの閃く時に出るあの閃光)

この「自分がされて嫌なことを人にするな」は
気配りというフェーズのみに適用すればよいのではないか。
と気がついた。
いままでは
他人に関わる全ての行動原理
「自分がされて嫌なことを人にするな」を用いていたが、
これからは「気配り」というフェーズのみにフォーカスして
適用させていこう。
もしかしたら父親はそういう観点で言っていたのかもしれない。
それを馬鹿正直な私は
全ての行動に当てはめなければならないと勘違いしただけかもしれない。

勘違いが遺伝子レベルで刻まれてるってめちゃくちゃ怖い。
それを信じてしまう己の脳があまりにも単純すぎて
もはや笑ってしまう。(笑っている場合ではないのだが…)

こうやって冷静になってみるとわかるのだが、
いくら自分がされて嫌なことを他人にしなかったとしても
他人が自分にしてこない保証などどこにもないのだ。
あるのは、自分がやっていないから
他人もやってこないだろうという“思い込み”である。
そう理解すれば
「自分がされて嫌なことを人にするな」は性善説に基づく理想論であることに
たどり着く。
だからと言ってすべてを手放すことはしない。
「気配り」というフィールドにおいては
引き続きこの考えを指針としていきたい。

こうして少しずつだが
自分の脳内を支配しているわけわからん思考回路を
一つずつ解きほぐしている気がする。
快楽とは言わないが、
前進している気分に浸れる。

しかし、一番忘れてはいけないのが
「どんなに理論武装しても全て吹き飛ばす俺のクソザコメンタル」
をどうにかしないといけない。
水が川下に流れるのを防ぐように
本能に抗っていかなければ、元の木阿弥。

ここにひとつ新しい武器を加えるなら

ここで抗わないとまた休んじゃうよ?


という“良い意味”でのプレッシャーだろう。
筋トレで筋肉が肥大し、強靭な体が作られるように、
メンタルトレーニングで精神力が肥大し、強靭なメンタルを作り上げたい。
ギリギリで踏ん張れる、そんな精神力を身に付けたい。

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