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#エッセイ 記事まとめ

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2019年7月の記事一覧

「麻婆豆腐が食べたい」と、母が言うから。

「何が必要なんだっけ?」 買い物カゴを取りながら、母がたずねた。 「え〜と、豆腐と、豚ひき肉、花椒と・・・」 きょうの晩御飯は、麻婆豆腐。担当は私だ。 実家に帰るときは決まって、母の手料理だが、今回は母からリクエストがあった。 「この前つくっていた、麻婆豆腐が食べたい」と。 以前私が麻婆豆腐をつくって、母に写真を送った。それを見て、食べたくなったらしい。ついでに、父の好きなバンバンジーと、夫に評判のよかったシュウマイもつくることにした。 スマホにリストアップし

高感度で光っていたい

わたしの身体の中には感度センサーみたいなものがあるのだが、歩いているだけで反応しまくるほどやたらめったら敏感なときと、腹立たしいほど鈍感なときが不規則にやってくる。 ここのところはずっと後者だった。 負の感情を昇華させることをもっとも得意としているゆえ、幸福な状態が続いていると、とめどなく感度が鈍る。 それでいいじゃんと思う反面、体のどこかが常に警鐘を鳴らしているような気もしていた。 * 生理的欲求だけに身を任せてなんとなく日々を消化し、生み出すものといえば週

一時間かけてブラジャーを試着したら、黄泉の国から戦士たちが戻ってきた

※下着のお話なので、苦手な方はご注意ください。 わりと、こだわりの強いタイプです。 でも、これだけは決めているんです。 「モテている女」のアドバイスにだけは、一切のプライドをかなぐり捨て、従うことを。 東にパーソナルトレーニングジムがあると聞けば、私財を投じて馳せ参じ。 西に3kg痩せ見えパンツがあると聞けば、半月間もやしをすすることになろうと手に入れる。 情報に振り回されすぎて、5日間絶食ダイエットをした直後、コラーゲン鍋をかっ込んで東梅田の真ん中で吐いた時は、どう

梅雨とタバコとUSB

徹夜明けの気だるさだけが身体に残っている。七月上旬の暗い朝、梅雨は未だ明けず、もはや聴き飽きた雨音が窓の外から聴こえている。こんな日に外に出なければいけない用事を作ってしまった過去の自分を恨みつつ、玄関の扉を開けた。 「じゃあ、今までありがとう」 三年間付き合った恋人との関係が終わってから数週間が経とうとしていた。まだチャットアプリ上での会話の削除は出来ておらず、積み重ねてきた長い時間をあっけなく終わらせた通話時間14分42秒のログが、今も寂しく残っている。もう新しい恋人は出

大切な人を亡くしたときに

家族を失って立ち直れないという話を聞くようになった。 よく書いているが、私は8歳の時に母をがんで亡くした。幼い頃から、従姉妹、祖父母、友人など、なぜか人を弔うことが多い。2年前も大切な人を亡くし、その時はさすがに死んでしまおうかと考えた。とはいえ父はまだ存命で、自らの人生を不幸だとは思わない。 死別は人が生きていく上で経験するかなり大きな絶望だ。回数を重ねれば慣れるものでもなく、精神が強くなるわけでもない。でも、悲しみから立ち直る……まではいかないけれど、向き合い方ぐらい

大きなねこは

我が家には大中小の猫がいて、一番身体の大きい子をわたしは「大きなねこ」と呼んでいる。体重は8キロ近くあり、立ち上がると子どもと身長は変わらない。「ごましお」が本名だけど、家庭内で勝手なあだ名をつけるのがたのしい。家庭内にしかいない猫だけれど。 この大きなねこが、わたしの人生を変えたのだ。 大きなねこは、中くらいの猫(3キロ)と共に保護団体から我が家に来て、もうすぐ6年経つ。生後3ヶ月で我が家に来た二匹。先日、普段二匹が食べているご飯に「アダルトキャット(1〜5歳)」と書い

34歳OL、がん宣告から復活までの1年間。

今から4年前、実父を肺がんで亡くしました。その病気に、まさか自分も侵されているとは思いもよりませんでした。 昨年7月、お腹の中の我が子は8ヶ月を迎えていました。一般的に妊娠後期になると、重いお腹を支えるために腰痛に悩まされる妊婦さんがほとんどで、私もそのひとりでした。 私の場合はその症状がかなり酷く、歩くことすらままならない状態で、松葉杖さらには車椅子で定期検診に通うほどでした。 横になっても、座っていても、どんな姿勢をとっても痛い……。妊婦だから大好きなお酒で痛みを紛

Twitterをやめます。

 突然ですが、タイトルのとおり、Twitterをやめようと思います。   本日急に思い立ったかのように見えるかと思いますが、実のところここ一ヶ月くらいずっとそのことを考えていました。もちろん、ファンの皆さんと気軽に交流できる場であるSNSのことは大事にしていましたし、AV女優としてデビューする際には自分に与えられた武器だと思って一生懸命に取り組んでいました。私が3周年を迎えた今こうしてメーカーや事務所に価値を認めてもらい居場所をいただけているのも、初めのころの頑張りが繋いで