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158-2あこがれ

 あこがれ

わたしはいます。

 あの空の上にも

あの雲の下にわたしはいます。

 

あの風に揺れる花びらの中にも

あの風に揺れる木の葉の中にも

 

あの佇む樹木の中にも

あの生茂る草原の中にも

 

あの朝露のしずくの中にも

あの湧き出る水の中にも

 

わたしはいます。

 

あの沈む夕日の中にも

あの闇夜の通り道の中にも

 

あたたかな日差しの中にも

朝の眩しい光の中にも

 

わたしはいます。

 

あの道端に咲いたたんぽぽの中にも

あの道端に転がる石ころの中にも

 

 

あの小川のせせらぎの中にも

あの小鳥のさえずりの中にも

 

わたしはいます。

 

あのわたりゆく風の中にも

あの冷たく寒い風の中にも

あの緩やかな春風の中にも

あの吹きすさぶ嵐の中にも

 

わたしはいます。

 

あのカテーンのそばにも

あの目覚まし時計のそばにも

あの椅子のそばにも

あの鏡のそばにも

 

わたしはいます。

 

わたしはどこにでもいます。

わたしはあなたのそばにいます。

 

わたしは死んでいません。

わたしはこうして生きています。

わたしはいつまでも生き続けています。

 

わたしはずっとあなたのそばにいます。

わたしはあなたのそばを離れません。

 

わたしはいます。

わたしを感じて下さい。

わたしのこころの声を感じて下さい。

わたしのこころの声を聴いてください。

わたしはあらゆるものになり、

あなたに伝えています。

 

目覚まし時計の音として、

携帯電話の音として、

車の雑音や電車の音として、

料理を調理する音として

水道の水の音として

猫や犬の声として、

赤ちゃんの泣き声として、

雷や雨音として、

ラジオから流れる音楽のリズムとして

人の言葉や詩の朗読として、

本の中の一節として、

老人の戯言の中にも、

子どもたちの笑い声の中にも、

テレビからも、映画からも、

他愛のない雑談の中にも、

 

わたしはいます。

 

わたしは死んでいません。

わたしはこうして生きています。

わたしはいつまでも生き続けています。

 

聴こえませんか、

わたしのこころが。

 

聴いてみませんか、

わたしの言葉を。

 

わたしはここにいます。

わたしを感じて下さい。

わたしのこころの音を感じて下さい。

わたしの声を聴いてください。

 

なぜなら、

あなたはわたしの永遠の憧れ、

わたしはあなたの永遠の憧れだから。

 

わたしはいまもあなたのそばにいます。

 

あなたはわたしの永遠の憧れ、

わたしはあなたの永遠の憧れだから。

 

                                       マリー・フライエ詩 創訳 Coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

はじまり


私はバルカラヤ・ラーデ。

死んでしまった・・。

もうこの世にはいない。

 

人の世を去ってから、まだ間もない。

人は死んだら、美しい花が咲く天国に行けると聞いていたが、

実際はそのような場所などなかった。

また、灼熱の炎の地獄などもない。

言葉はない。姿もみえない。ただ、感じることだけだ。

私は扉の向こうに大切なものばかりを残してきた。

だが、悔いはない。

いま私は、そこから聴こえてくる、たとえようのない愛しさを、

思いきり抱きしめている。。

 

私は死ぬということがわからなかた。

生きるということも、ほんとうのところわからなかった。

長い時間を生きたと思うが、

すべてをやり終えなければ、なにもわからなかった。

だが、いまはわかる。

私が生まれたこと、生きたこと、そして死ぬことをだ。

それを私に伝え続けてくれるのは、

あの扉の向こうにある愛しさだ。

ここへ来てからというもの、私はずっと、扉の向こうから響いてくる声を感じている。

ああ、なんと美しいのか。

なんと愛しいのか。

私はこの声を聴くために、生きて、生きて、生き抜いて、力の限り生き得たのだ。

 

なにも悔いはない。

扉の向こうには、私のあこがれを置いてこれたのだから。

愛する者たちよ、ありがとう。

そしてまた、いつか必ず・・・

©NPО japan copyright association Hiroaki


はじまりのはじまり

 

もし、もう一度過去に戻れるとしたら、

もし、もう一度人生をやり直すことが出来たなら、

もし、もう一度過去を正す機会が与えられたなら、

あなたなら、どうしますか?

もし、もう会えないと思っている人に会えたなら、

もし、もう一度だけ大切な「あなた」と話すことができたなら、

あなたなら、何を語りますか?

 

 

 私はヘルヴィ・ラーデ。

 これからお話しするのは、イリヤ・ヘイネンという老人から聞いた不思議な物語である。

  私が彼と知り合ったのは、ある公園でスケッチをしていた時のことだ。その日は、まだ冬だというのに、柔らかい陽の光があたたかだった。私は独りベンチに座り、子どもたちが遊んでいる姿を描いていた。子どもたちのはしゃぐ声が辺りの静けさを感じさせてくれ、私はその長閑さを味わいつつペンを走らせていた。車のエンジン音が近くで止まったと思ったら、すぐに煙草の匂いが漂ってきた。気づくと、太い葉巻をくわえた老人が私の脇に立っている。老人は断りもなしに私の隣に座り込み話しかけてきた。それがイリヤとの初めての出会いだった。

 老人は親しげに私のスケッチブックを覗いてきた。

「へえ、君は絵が上手いのう」

 煙草の煙が目に沁みる・・。

「どうして、子どもたちの遊んでいる姿を描いているのかい。周りの美しい樹木や花々、風景は描かないのかい。余計な話かもしれんがね・・」

「子どもたちの遊んでいる姿が気に入っているのです。何かしら懐かしさを感じるのですよ」

「ほほう。確かに懐かしい。わしもあの頃に戻りたいのう。いや戻るつもりじゃ」

 この爺さんは何を言いたいのだろう。葉巻の煙は容赦なく目に沁みるし、本音を言えば、独りにさせてもらいたい。

「わしの名はイリヤ。君の名前を教えてくれ」

「私はヘルヴィ・ラーデと言います」

「いい名前じゃ。ではヘルヴィと呼ぼう」

 

(ずいぶんとなれなれしい爺さんだ。)

 

「君のご両親は元気かい?」

「昨年、父が亡くなりました。現在は母だけです」

「君は幾つじゃ」

「六一歳になったばかりです」

「おや、もうわしの仲間かの。じゃが、わしより三五歳も若い。君の父さんは幾つで死んじまったんだね?」

「九四歳です」

「ほう、わしと同い年じゃのう」

 質問ばかりが続くので、私はスケッチブックを閉じて、他の場所へ行こうと考えていた。自分の時間を失っていくような気がしたからだ。だが、この老人は妙に父を感じさせる。

「なあ、ヘルヴィ。寂しくないかい?」

「えっ・・」

「君の父さんがいなくなったことじゃよ」

「それは、寂しくないと言ったら嘘になりますが・・」

「君は残された者と、去って行った者のどちらが寂しいと思うかい?」

「それは、残された者の方が寂しいに決まっていますよ。もう二度と会えないのですから」

「確かにそうかもしれん。だがの、去って行った者の気持ちを考えたことがあるかい。彼らが何を思い、何を考えているか、わかるかい?」

「そんな事、わかりませんよ」

「確かに分からんじゃろう。だがのう、それがわかるとしたら、どう思う?」

「それは、わかれば嬉しいに決まっています」

「そうか。ならば、もし会えたらどうする?話ができるとしたらどうする?」

「うーん、想像つかないな。無理な話ですね」

 私はイリヤに応えるのが億劫になってきた。もしかすると、気が変な爺さんかも知れない。いつまでも相手にしていても仕方がない・・。

「君は、子どもたちの絵を描いて懐かしさを感じると言ったね。どうして懐かしさを感じる?あの頃に戻りたいのかい?」

「戻れるものなら、戻りたいですよ」

 おや、爺さんの話術にはまってしまったのだろうか。これでは話が終わらなくなってしまう。

「戻ったら、どうしたい。人生をもう一度やり直したいのかい?」

「でも・・戻れる訳がないです」

「ほほっ。それが戻れるのだよ」

「・・・」

「人生は何度でもやり直しができる。何度でも過去に戻れる。会いたい人にはいつでも会えるんだよ」

 何を言っているのだろう?完全にこの人はおかしい。どこかの宗教団体の勧誘なのだろうか?おかしな話ばかりして。私は呆れてしまった。

 

 こうして、心と反して立ち上がることもできずに、私はたっぷりと、この老人の話を聞く羽目になってしまったのだ。

 信じられることではないが、もし本当に死んだ父と話ができるのなら、会えるのなら、人生をもう一度やり直せるのなら。私はもう六一歳になっている。後の人生は、ただ死の訪れを待つだけだ。何よりも、この爺さんには不思議な説得力がある。無駄な話かも知れないが、聞いてみるのもひとつかと、私は思ったのだ。

 

 

 人は誰もが、憧れを抱く。

 

もし、もう一度過去に戻れるとしたら、

もし、もう一度人生をやり直すことができたなら、

もし、もう一度過去を正す機会が与えられたなら、

あなたなら、どうしますか?

もし、もう会えないと思っているあの人に会えたなら、

もし、もう一度だけ大切な「あなた」と話すことができたなら、

あなたなら、何を語りますか?

 

あなたなら、どうしますか?

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

その一 素敵な一日

 

わしの名はイリヤ。

  長いこと生きる希望を失っていた男だ。もうすぐ九五歳になる。もし人生が二〇〇年あったとしても、何も変わらないだろう。ある時、わしの人生は深い悲しみと苦しみばかりだった。そしてまたある時は、わしは最上の幸福を生きていた。表裏一体とはいうが、それは、わしの人生をいうのじゃあないかと思う。いま思えば、わしの人生は最悪にして、最上の人生だった。いったい何がそうさせたのか、どう思うかい。どこから話そうか。それよりも、早くもう一度人生をやり直すことの話を聞きたいって?まあ、それには順序ってものがある。それから話さないと理解できないだろう。

 人生というのは長い、いや短い旅のようなものだ。幼い頃は時間がたくさんあるように思えるが、年齢とともに、急速に過ぎてしまうのが時間だ。時間というものは不思議だ。ただ、人はこの時間とともに生きているようだが、これは我々人間が勝手に作り上げたものにすぎない。どうしてかって?人は忙しくしているときには、時間が足りないと騒ぐが、暇なときの時間というのは、凄く長く感じるだろ。気が焦っているときの時間は早いが、のんびりしているときの時間は長く感じる。それと同じさ。時間とは、それを感じる者が、その速度を勝手に決めているだけだからな。

 今、改めて、その時間という人生を振り返ってみると、わしの時間がしっかりと動き出したのは一〇歳の時だった。

 わしは今から九四年前にフィンランドのラップランドに生まれた。大自然に囲まれ、自由奔放に育っていた。杉の木のようにな。家は農家だったが、毎日が楽しかった。仕事から帰ってくると、父が酒を呑みながら、昔の話や歴史上の偉人の話を聞かせてくれて、そりゃあ楽しかった。家族は婆ちゃんと、母さんと兄と妹だ。

 小学校までは歩いて三時間ぐらいかかった。いくつかの小山を越えて行く道のりも楽しかった。大雪が降れば学校に行けず、父も外仕事ができないから、家族がひとつに固まって過ごすのも楽しかったよ。

 だがね、わしが一〇歳になった年に、父は病に倒れてそのまま死んじまったんだよ。人がこの世から消えるということが、子どものわしにはわからなかった。父が火葬されている場面を見ても、死というものを自覚できなかった。だから、父はどこかに行ってしまったのだろうと思っていた。悲しくはなかったよ。わしの家には、遠方から葬儀に駆けつけてきた親戚たちがいて、皆悲しみに暮れていたようだが、わしは大勢の人が我が家にやってきたことが嬉しくて、とても楽しかったことを覚えている。

 しかし葬儀が終わり、皆が帰っていってしまったらとても寂しくなった。

 父親の死からわしの人生は変わってしまった。兄は病気がち、妹は幼く、婆ちゃんは年寄りだ。母さん一人で残された家族全員を養わなければならなくなった。一家の屋台骨がなくなると、こうなってしまうのだろう。明日からどう生きればよいのだろうと、一〇歳のわしは真剣に考えた。

 夢や希望もたくさんあったよ。ほんとうはパイロットになって世界中を旅したかった。百姓には未来がない。これだけ働いても苦しい生活は変わらない。周りに成功した人もいない。わしは何と割に合わない仕事だろうと思っていた。しかし、それ以外に生きる道はなかった。わしは母と二人で、土地を開墾して田畑を作り続けた。だが、いくら鍬を持って耕しても、か弱い力では一向に作業が進まない。土を掘れば石ころだらけ。それに深い木の根だ。数メートルも掘れば作業は止まる。それをくり返えすたびに、母とわしは互いに目を合わせた。言葉などないが、心の中で無理だな、と合図しあっていた。

 楽しかった子ども時代には、遊ぶ時間がたっぷりとあったが、畑仕事の時間は長く苦しい。一時間が三時間。三時間は六時間ぐらいの長さに感じた。

「母さん、もうやめよう・・無理だよ」

「そうだね。どうしょうかね」

「僕、町へ働きに行こうかと思う」

「お前、働くと言ったって一〇歳の子どもを雇ってくれる所などないと思うよ」

「でも町は人手が必要だし、子どもなら安く使えるだろうから、きっと雇ってもらえると思う」

「・・・」

 母は何も答えず作業を続けた。

 

 

「ヘルヴィ、君ならどうする?」

「どうって・・わからないですねえ。」

「この頃かな、わしが物事を真剣に考えるようになったのは。一〇歳のわしでも、家族を支えられるのは自分しかいないという使命感があった。わずかでもよいから現金収入を増やしたかったのだ。金さえあれば何とかなる・・ただ、そう思っていた」

「で、どうなったのですか?」

「わしは一人で町を目指し、飛び込みで『仕事をさせてほしい』と町中を回りはじめた。しかし、わずか一〇歳の子どもだ。ほとんどが門前払いさ。ある店の主人に『お父さんに相談してから来なさい』と言われ、『父は先日死んでしまいました』と答えた。『ならばお母さんは・・』と言われたので、『母からは了承してもらってきた』と言ったら、同情心からか、その主人が雇ってくることになった。

 

 それから丁稚奉公のような見習い生活が始まった。住まいには物置小屋を用意してくれて、そこから仕事通いとなった。わしはこれでわずかな金でも母に持って行けるという喜びでいっぱいだった。しかし、何か月経っても給料が貰えない。給料を請求したら、『こっちは飯を食わせて技術を教えているんだ。ありがたいと思え』と怒鳴られてしまったのだ。わしは悔しかった。悲しかった。馬鹿にされたことが悔しかったのではない。少しのお金だけでも欲しかったのだ。そのお金を母に渡して喜んでもらいたかったのだ。わしは母を悲しませることだけはしたくなかった。

 

 わしはこの時、主人に逆らったために追い出され、ひとり寒空の下にいた。騙された悔しさではなく、心配している母に対して恥ずかしさと悲しさでいっぱいとなり、もう死んでしまいたいと考えた。父が生きていさえすれば、父が元気ならば、きっと助けてくれる・・。これは母の口癖でもあった・・。

 だが、どうする事もできない。

 どう生きればよいのだろう。

 わしは、夜の寒空の下を行くあてもなく歩いた。想い出すのは母の顔、病弱な兄の顔、幼い妹の顔。一人で働くために出発するわしに、わずかな小銭をポケットに入れてくれた祖母の顔。わしは声を出して泣いていた。

「父さん、父さん、僕を助けて、助けて・・」と。

 

「で、それからどうしたのですか?」

 ヘルヴィは思わず訊ねた。

「あたりには雪が降ってきた。とても寒いのだが美しい。この世にこんなに美しいものがあるのだろうか・・。見慣れたはずの雪に見惚れていた。夜空の雪は美しい。見上げれば天空に吸い込まれていくような気がする。すると、天から声が聴こえてきた。『大丈夫』という声だった。何が大丈夫なのだろう。誰の声だろう。なんとも美しい雪景色の中、その声の主が誰かもわからなかったが、わしは寒空にあたたかさを感じていた。それは大いなるもの仕業だったのかもしれない。

 

 

「おい、イリヤ、イリヤだろ。そんな所で何をしているのだ。凍え死んでしまうぞ」

 三つ年上の先輩ヘイノ・コイブが声をかけてきた。わしはよく彼の仕事場に届け物をしていた。まるで弟のように可愛がってくれた人だ。わしが顔を出すたびに、お菓子を食べさせてくれたり、マフラーや洋服をくれた親切で優しい先輩だった。

「ヘイノ先輩・・・」

 わしは思わず泣きだしてしまった。涙と鼻水が凍りつき、パサパサとなった顔のまま、思わず彼に抱きついた。先輩はわしの姿を見て驚いていた。

「どうした・・」

 わしは彼に状況を伝えた。彼は怒り、すぐにその雇い主の所に行き、『お金を払わねば法的手段で訴えるぞ』と脅かした。慌てた主人は、慌ててお金を準備しわしに渡した。

「ヘルヴィ、よかったなあ」

「先輩、ありがとう・・」

 わしが初めて稼いだお金だった。このお金を母に渡せる。家族が助かる。わしは地べたに座り込みながら、その金を胸に当てて泣いた。母の安心して喜ぶ顔が見えたのだ。

 

 その後は、先輩の紹介により炭鉱で働く事になった。こんどは広い寮が住まいとなり、給料はそれまでの何倍も稼げるようになった。炭鉱で働き始めてわずか一年足らずで家族を呼び寄せることができた。祖母、母、兄、妹たちと一緒に暮らせるようになったのだ。わしは嬉しかった。仕事は重労働だったが、わしが働いた金で家族全員が生活できることは、何にも代えがたい喜びだったから、疲れなど吹き飛んでいったさ。

 わしはいつの間にか一六歳になっていた。

 地下の炭鉱から地上に出るとき、また雪が降ってきた。あの時と同じように天空を仰ぎ見た。やはり空に舞う雪の美しさは変わらない。今度は、『頑張ったな』『ありがとう』という声が聴こえた。誰の声なのだろう。

(まさか、父さんなのかな、父さんなら嬉しいな・・。)

 

 この時も、それが誰の声なのか、何をわしに伝えているのかはわからなかった。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 〈わが祖国〉

 わたしたちの国、フィンランド

故国よ響け、この黄金のことば

これほど愛すべき

渓谷や

山や

湖や

岸辺が、どこにあるというのだろう。

この北の故国のほかに

愛する父たちの国のほかに。

 

あなたの繁栄がその殻を破り

今こそ花を咲かせるだろう。

わたしたちの国を愛する心は高まり

あなたの

希望が、

喜びが、

光り輝き。

 

そして今、故国よ

あなたの歌が

より高らかに響きわたるだろう

 

フィンランド国歌「わが祖国」より

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

その二 しあわせな話


 

 生活がやっと安定し、兄の病気も回復しはじめ、父はいないが家族全員が集まって食事をすることができるようになった。みな笑顔だった。とても幸せだった。このまま時が過ぎなければいい。墓石は作られてなかったが、わしは父の墓によく出向いた。

「父さん、元気か?父さんどこにいるのかい?兄さんも妹も、婆ちゃん、母さん、みんな元気だよ。それにね、僕はいっぱい稼げるようになったよ。もう、心配はいらないよ」

 わしは逞しい一七歳となっていた。

 

 

「なあ、ヘルヴィ。幸せっていうのは家族水入らずに暮らせることだ。それ以外に何があると思う?」

「イリヤ爺さん、確かにそうだ。だけどね、その家族を失うのはとても不幸ですよね。私は父がこの世からいなくなった時にそう感じました。まるで心の中に穴が開いたように寂しい。年甲斐もなく、これから先どう生きて行ったらいいのか、いまもわからないのですよ」

「ヘルヴィ、この話は君を悲しませるためのものじゃあない。わしの人生で最高の幸せの話をしただけにすぎない。この時の想い出が、それからのわしの人生をひっくり返したのじゃ」

「・・ひっくり返す?」

 

 わしが一八歳になった頃、戦争が始まった。わしが住んでいた所には炭鉱という資源があるため敵国から狙われていたのだ。敵軍が押し寄せてくるという情報が入り、わしは有り金のすべてを叩いて、家族を故郷ラップランドに帰すことにした。わしは先輩のヘイノと軍隊に入隊しなければならなかった。どうせ金など持っていても役に立たなくなるだろう。だから残された家族だけでも救いたかったのだ。

 波止場ではたくさんの人が乗船し別れを惜しんでいた。わしも家族に別れを告げた。

「ご無事で・・さよなら、みんな。さよなら、母さん・・」

 わしたち家族は無言だった。どうすることもできない。ただ、紙テープを握らされ見送るのみだ。大きな汽笛の音とカモメの声が騒がしかった。やがて多くの別れのテープが切られていく。船はどんどんと島から離れ小さくなっていった。船の後部では、別れがたい人々が手を振り続けていた。わしも見えなくなるまで手を振り続けた。もう二度と家族に会えないかもしれない、と。

「兄さん、妹、母さん、婆ちゃん・・愛しているよ、ありがとう」

 

 やがて船は見えなくなり、辺りは薄暗くなった。遠くに灯台の光りが見える。空からはまた雪が舞いはじめた。その雪は、わずかな風に舞い、散り、踊る。まるで舞台のフィナーレのようだ。

 耳を澄ましてみた。すると、また声が聴こえた。わしは注意深く聴いてみた。

(生きろ、生きて、生きて、生き抜け)

 何度も何度も同じ言葉が聴こえる。

「あなたは、どなたですか?僕に何を伝えようとしているの?教えてほしい。もしかすると、あなたは父さん?父さん、父さんなの?」

 

「おい、イリヤ。誰と話しているんだい」

「ヘイノ先輩、誰かが僕に話しかけているみたいなんだ」

「それって、誰?」

「わからない。父なら父だと答えてくれるはずなのに、誰だかわからない。『生きろ、生きて、生きて、生き抜け』というのです」

 ヘイノは笑いながら、「それは神さまかもね」と言った。

「神さま、何の神さま?僕は神さまなど信じていない・・」

 

 

 やがて戦争が激しさを増し、ヘイノ先輩とも離ればなれとなった。

 もうわしには誰も親しい人がいなくなった。次々と不利な戦況と戦死者の名前が知らされる。わしの役目は車の整備や通信だったから、戦況の悪化に伴って、わしは伝令や記録などに追われていた。戦死者の名簿付けはあまりにも切なく悲しかった。毎日その記録が増えていくのだからね。もうその仕事はやめたかったのだ。戦争は残酷だ。あまりの酷さに、どうせこのまま死ぬのなら前線に出向いて敵に1矢でも報いたいと、わしは真剣に考えていた。

 そんな時、わしは故郷からの電報で母の死を知った。七月七日の七夕の日だった。母は栄養失調と赤痢にかかり、薬もなく死んでいったという。

「母さん、ごめんなさい。母さん、親不孝をお許しください。死に目に会えず、葬儀にも出られず、別れの言葉も言えなくてごめんなさい・・」

 父が死んだ時は、目の前で焼かれても死んだことが信じられなかったが、電報でのわずか「ハハシス ビョウシ」、その一行だけで信じられた。もう二度と逢えないと覚悟はしていたが、母が死ぬなんて考えてもみたことがなかった。わしは、母は病死だったのだ、敵に殺されたのではない、と自分に言い聞かせた。そして、もう失うものもない、いつ死んでも構わないとさえ思った。

 

 ある日、戦況の悪化を知るわしは、上官にお願いをすることにした。

「マッティ大尉、お願いがあります。私を前線に送って下さい。私にも戦わせてください」

「イリヤ軍曹、君はどうして前線に行きたいのかね」

「はい、もう記録係はたくさんです。毎日、多くの仲間が死に、その名前を記録することに耐えられません。前線でお役に立って死にたいのです。死なせてください。お願いします」

「・・駄目だ」

「なぜですか?」

「もう時間がない。君は君の任務を全うしなさい。記録は大切な仕事だ。君は生き抜いて、戦死者の家族たちに知らせる役目がある。明日、私は最後の部隊を引きつれて前線に突入する。もし全滅したら、私の家族や他の兵士たちの事を伝えてほしいのだ」

「大尉、何を伝えればよいのでしょう?私にはそのような事はできません。この胸が張り裂けそうで苦しいのです」

「人はみな、死に逝く者と残される者とに分かれる。残された者には〈見守る〉〈見届ける〉〈知らせる〉使命がある。どちらも必要なのだ。だから、君には死に逝く者から託された役目を果たしてほしい」

「その役目とは?」

「我々みなの家族に、愛している、と伝えてくれ」

 わしは涙が止まらなった。なんと恐ろしい役目なのだろう。なんと苦しい役目なのだろう。

 (私にはできない。あまりにも辛すぎる。)

 大尉は、この言葉を伝えてくれと言い残し、翌日前線に向かった。わしは無線機の前で戦況報告を受け続けていた。大尉たちの隊は、前線で敵軍に完全に包囲され、陥落寸前の陣地に固まっていた。やがて、無線機からの声がかすれるようになった。するとその時、突然スピーカーに声が届いた。

「ガー、ガー。ピー、ピー、ピー」

「おい、誰か聞いているか?私だ。もう駄目だ。我々は全滅する。残った者は逃げろ」

 マッティ大尉の声だった。

「大尉、大尉、私です。イリヤです。聞こえますか?」

 ガーガー、ピーピーと無線機の雑音が入る。こちらの声は届かない。受信だけである。大きな爆発音と銃声、そして大尉のとぎれとぎれの声が聞こえてきた。

「イリヤ、聞こえるか?」

「大尉、大尉、聞こえていますよ」

「駄目だな・・。もし聞こえていたら、カシャ、カシャと発信音を出してくれ」

「カシャ、カシャ」

「おお、イリヤか、イリヤだな」

「カシャ」

「早く逃げろ。残された者たちを逃がしてやってくれ」

「カシャ」

「イリヤ、お前も逃げろ」

「カシャ、カシャ」

「バカヤロー!私との約束を守れ、自分の命を大切にしろ」

「・・・」

「バカヤロー、返事をしろ。もう時間がない。君に頼みがある」

「・・・」

「伝えてほしい事がある。〈ありがとう〉〈すまない〉〈愛している〉〈また逢おう〉と、私の家族に伝えてくれ。おい、イリヤ、聞こえているのか?聞こえていたら返事をしてくれ・・」

「カシャ、カシャ」

「さよなら。私は幸せだった・・」

「カシャ、カシャ、カシャ、カシャ・・・・・」

 わしは無線機が壊れるぐらい鳴らし続けた。

 (私に生きろというのか。こんなに苦しい、辛い人生なのに、大尉はどうして幸せだったといえるのだろう。)

 わしは生涯に流す涙のすべてを出尽くすかのように、ただ泣いた。泣き続けた。神などいない。もしいるのなら、こんなにも多くの人々が血を流さなくても済むはずだ。その時わしにできる事は神を恨むことだけだった。

 

「なあ、ヘルヴィ。わしはいまでも思う。最後に大尉は〈幸せだった〉と言った。わしは大尉は〈不幸だ〉と思った。死に逝く者と残された者の大きな違いって何だと思う?」

「・・・私にはわかりません」

「そうか、無理もない。だがの、それからわしに不思議な出来事が続くのだよ。何かある度ごとに、〈ありがとう〉〈すまない〉〈愛している〉〈幸せだった〉〈また逢おう〉という声がくり返し聴こえてきたのじゃ。わしが苦しい時には必ず、あの無線機のカシャ、カシャ、という音が聞こえてくるようになったのじゃ」

「・・・」

 

 私はこの老人の話にいつの間にか夢中になっていた。おかしい人だなんて、失礼なことを思ってしまった自分を恥ずかしくも感じていた。

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 わが愛するフィンランド

 

谷を流れ下る急流の音、松のざわめき

聞かせて下さい、別れの時まで

愛すべき国はほかにはない

 

世界のどこにも、この貧しい祖国のほかには

祖先たちの努力で美しく育ったこの国のほかには

 

森の中に田畑を、豊かな農地を

これから私たちが汗水たらして開墾する

あなたにすべてを捧げたい

死ぬまであなたのために捧げたい

 

フィンランド、わたしたちの祖国

あなたの腕の中で、あなたの子どもが幸せに眠る

あなたのためにささやかな命を捧げた

 

これ以上の栄誉はない

 

丘の森のささやきが聞こえてくる

あなたによって最後の眠りに送られたあとに

 

〈わが愛するフィンランド〉フィンランドの歌

  フィンランド共和国は北ヨーロッパに位置する共和制国家。北欧諸国のひとつであり、西はスエーデン、北はノルウェー、東はロシアと隣接し、南はフィンランド港を挟んでエストニアがある。首都はヘルシンキ。

 一九一七年にフィンランドは独立宣言をした。

 一九二一年スウェーデンと領土問題で争ったが、国際連盟の新渡戸稲造による「新渡戸裁定」により解決する。

 一九三九年ソ連との冬戦争でフィンランドは勝利した。これは「雪中の奇跡」と呼ばれた。フィンランド国内ではマイナス四〇℃という極寒が続き、一説によればソ連軍の戦死者の八〇パーセントは、補給を絶たれた末の凍死によるものと言われている。しかし、この戦争によりフインランドは国土の一〇分の一を失った。

 その後の第二次世界大戦ではソ連軍の侵攻により、一九四一年から一九四四年九月十九日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で二度目の戦争(継続戦争)が行われ、敗戦国として終戦を迎えた。

 当時の両国の人口は、フインランド三百五十万人に対して、ソ連は一億七千万人だったという(当時の日本は七千万人)。また、当時のフィンランドの兵力は、歩兵二十五万人、戦車三十台、航空機百三十機に対して、ソビエト連邦軍は歩兵百万人、戦車六五四一台、航空機三八〇〇機という規模だった。

 三百五十万人の人口のフインランドは軍人・軍属の死者、行方不明者は八三六九四名、一般市民二〇〇一名の死者と父や母を失った孤児は五万人以上に上った。

 戦後はソ連の勢力化に置かれる。ソ連崩壊後は西側陣営となった。

 また、フィンランドは親日国としても知られている。日露戦争ではロシアを負かしたこともあり、「新渡戸裁定」によりオーランドのフィンランドへの帰属が認められた。さらに、フインランドでは「さくら祭り」など日本の文化が浸透している。(フィンランドは第二次世界大戦では柩軸側とされ、現在でも日本、ドイツ等と一緒に国際連合の敵国条項に含まれている)

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 大切な、大切な命よ

死なないでください。

命を捨てないでください。

大切な、大切な命を消し去らないでください。

 

死なないでください。

あなたの命はあなたのものではありません。

大切な、大切なみんなの命です。

 

もし、それでも命をすてるのなら、

もし、その命を捨て去るのなら、

もし、その命を消し去るのなら、

 

僕のわずかな命をあげます。

僕の分まで生きてほしいから。

 

もし、それでも命をすてるのなら、

もし、その命を捨て去るのなら、

もし、その命を消し去るのなら、

 

僕にください。

僕があなたの分まで生きますから。

 

だから、

死なないでください。

命を捨てないでください。

大切な、大切な命を消し去らないでください。

 

どんなに苦しくたって、

どんなに辛くたって、

どんなに悲しくたって、

 

死なないでください。

あなたの命はあなたのものではありません。

大切な、大切なみんなの命です。

僕は死にたくありません。

僕は生きたい。

僕は命を大切にしたい。

僕はみんなの分まで生きてみたい。

 

僕はもっともっと生きてみたい。

大人になってきれいな奥さんをもらって、

可愛らしい子どもたちを育てて、

いじめや病気に負けない強い子になってもらい、

多くの子どもたちを助けてくれる人を育てたい。

 

もし、それでも命をすてるのなら、

もし、その命を捨て去るのなら、

もし、その命を消し去るのなら、

 

僕にください。

僕があなたの分まで生きますから。

 

僕には生きる時間がありません。

僕には君たちのような未来がありません。

僕の命はあとわずかです。

 

僕は生きる事ができません。

僕にその命をいただけたなら、僕は一生懸命に生きます。

僕にその命をいただけたなら、君たちを守ります。

僕にその命をいただけたなら、必ず幸せになります。

 

僕は死にたくありません。

僕は生きたい。

僕は命を大切にしたい。

僕はみんなの分まで生きてみたい。

 

だから、君たちには僕の分まで生きて欲しい。

だから、君たちには僕の分まで幸せになって欲しい。

だから、もっと、もっと命を大切にしてほしい。

 

それは最後の僕からの願いです。

 

「大切な、大切な命を」  創訳 coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

その三  心の旅


 

 戦争は終わった。

 残念なことに、大尉が死んでしまってから数週間後の事だった。わしには壊れた無線機と、死者の名簿と遺品以外、もう何も残されていなかった。

 わしは戻るところもなく、遺品を詰め込んだ大きなバッグを背負って、ふらふらと焼け野原の街をただ歩いた。そして、焼け跡に残された建物の残骸に座り込みながら深い眠りについた。

 頬に水気を感じた。

 辺りは真っ白な霧である。その霧の粒子が頬を湿らせていたのだ。わしは、多くの戦死者が泣いているかのように感じた。そして、わしはその霧に包まれながら不思議な安堵感を覚えた。多くの人々の涙がわしを慰めているかのようだった。

「霧って美しいものだなあ・・」

 わしは独り言をつぶやいた。すると、何かささやく声が聴こえた。よく聞き取れない。今度は何を伝えようとしているのだろう。

 (ヤクソク)

「何だって?ヤクソク、やくそく、約束だって?」

「約束・・」

「何の約束だ?」

何も聞こえなくなった。

 いつもこうだ。一方的で、こちらの質問には答えない。いったい誰なのだろう?

(カシャ)

(カシャ、カシャ)

「あっ、大尉殿ですか・・」

 わしは突然思い出した。そうだ、約束が残されていた。それはわしの使命だった。死に逝く者から頼まれていた約束。それは残されたわしが成すべき事だった。わしは慌てて、大きな擦り切れたバックの中から死者の名簿を出した。名簿を開くと、一人一人の顔が浮かんだ。

(どうせ、今の私にはやることなどない。)

 ここにある名簿を頼りに遺族の元へ訪ねて行こう。そう決心し名簿の数を調べた。全部で一八九名あった。すべて回り切れるだろうか?だが、決めた。翌日の朝、わしは首都ヘルシンキを出発した。最初に大尉の家族の元へ出向くことにしたのだ。

 

 

 まる三日間かけてようやく辿り着いた場所は、ハミナという数十軒しか民家のない村だった。

 ようやく辿り着いた先に一軒の平屋が見つかった。表札はない。わしはドアをノックした。

「パパ、パパなの?ママ、ママってば、パパが帰って来たよ」

「えっ、嘘おっしゃい。パパはお仕事中なのよ」

「すみません。たしかこの辺と聞いたのですが、マッティ大尉のお宅でしょうか?」

「はい、そうですが・・」

(なんと美しい人なのだろう。)

 出てきた女性は大尉の奥様だと、わしにはすぐにわかった。わしは薄汚い軍服のままの自分が急に恥ずかしくなった。

「イリヤ軍曹と申します。大尉には部隊で大変お世話になりました」

「まあ、よくいらっしゃってくださいました・・」

 奥様のやさしい声に出迎えられたわしは、突然涙があふれた。何から切り出せばよいのだろう。ただ来ることだけ、辿り着くことだけを考えていた。どう説明するか何も考えていなかった。

「・・あの人、死んだのね、死んでしまったのね」

「・・・」

「ママ、どうしたの?なぜ泣くの?パパに何かあったの?この叔父さんは誰なの?」

 一瞬、涙した奥様は子どもたちを抱きしめながら、優しい笑顔で、

「ううん、何でもないわ。パパのお友達が遊びに来てくれたのよ。さあ、お部屋に戻りなさい。ママはお話しがありますからね」

「・・・・」

「どうぞお入りくださいな。よく遠方まで訪ねてくれました。お腹は空いていませんか?皆で食事でもしましょう」

「・・・」

 わしはまだ涙が止まらなかった。なんと残酷な伝令なのだろう。なんと冷酷な約束なのだろう。椅子に座ると、温かいコーヒーが出された。しかし、わしは何を話せばよいのか、まだわからなかった。

「主人は元気ですか?」

「・・・」

「いえ、元気でしたか?軍隊は厳しい所ですものね、あの人って手紙一枚送ってくれなかったのですよ。戦争が終わったから、無事な姿を見れるかと子どもたちと一緒に楽しみにしてました。でもね、覚悟もしていました」

 奥様は、大きな瞳でわしを見続けていた。わしが何も言わなくとも、もうわかっているようだった。笑顔のやさしい奥様だった。そのやさしさの上を幾筋もの涙が伝っている。

 しばらくの間、わしたちは互いに言葉を発せられないでいた。

 

「あの・・伝言があります」

「はい・・」

 それからわしは、自分が大尉に救われたこと、軍隊での生活、前線での大尉の活躍、最後の状況、大尉との約束などを事細かに話しはじめた。奥様はじっと静かに聴いていた。

「イリヤさん、ありがとう。主人はあなたを寄こしてくれたのね、きっと。私にもわかっていたわ」

 何がわかっていたのだろう。わしは慌てて最後の伝言を伝えた。

「ありがとう、すまない、愛している、また逢おう・・、そう伝えてほしいと言われました」

「・・・・」

「イリヤさん」

「はい・・」

「ありがとう。主人はあなたを借りて伝えに来てくれたのね。私にも聴こえていたのよ。『カシャ、カシャ』という音が。何だろう?何の音だろう?と思っていたけど、あれは無線機の音だったのね。あれは主人からの伝言だったのね。この言葉を伝えたかったのね、きっと。ようやく意味がわかりました」

「えっ、奥様にも聴こえていたのですか?」

「はい・・」

 

「ママ、お腹がすいたあ」

「はい、はい、みんなでお食事にしましょうね」

 わしはいっしょに食事をすることになった。子どもたちは姉妹だった。上の娘はまだ七歳だという。奥様に似てとても可愛らしい。大尉はこの子たちに逢いたかっただろうな、抱きしめたかっただろうな。大人になり、お嫁さんの姿を見たかっただろうな。お孫さんの顔も見たかっただろうな・・。まだわしには子どもはいなかったが、わかる気がした。

「さあ、お食事ができましたよ。お祈りしましょうね。今日はパパのお友達がいます。パパの席もありますよ。さあ、パパに感謝しましょう」

 なんとあたたかな家なのだろう、大尉の気持ちそのもののような気がした。

「ねえ、ママ」

「なあに?」

「ちょっと前からなんだけど、どこかから『カシャ、カシャ』って音が聞こえるのよ」

「わあ、私も聞こえるよ」

「何だろうね、ママ」

「・・・」

わしは精一杯に涙をこらえ、

「それはね、パパからの合図だよ」と、咄嗟に答えた。

「嬉しい。でもなんの合図なの?」

「君たちにね、パパが『ありがとう』って言っているんだよ。そしてね、ここに来れなくて『ごめんなさい』。でもね、君たちのことを大好き『愛している』と言っているんだよ。そしてね、『また逢おうね』って合図しているんだ」

「わーい、わーい。パパ大好き」

「わたしも大好き」

(もう堪えきれない・・・。)

 わしは一目散に外に走り出て、思いっ切り泣いた。奥様も出てきて一緒になって泣いていた。

「イリヤ軍曹、ありがとう。本当にありがとうございます」

 

 

 奥様と天空を見あげた。夜空は満天の星が美しく輝いていた。

 子どもたちもいつの間にか傍らにいた。

「イリヤ叔父さん、ありがとう。パパはいつもそばにいるんだね」

「そうだよ、耳を澄ましてごらん。聴こえるかい?」

 

「うん。『カシャ、カシャ』って聞こえるよ」

「うん、パパが合図している」

「『愛してる』って言っているよ」

 子どもたちのその笑顔が、わしはとても愛しかった・・。

 

 

「ヘルヴィ、どうだ。信じてくれるかい?」

 嘘でもかまわない、私はイリヤ爺さんを信じてみようと思った。残された者への言葉があることを知った。

 生きていれば会いたい人に逢える。行きたい所にも行ける。悲しんだとしても、悲しむことができる。けれど死に逝く者にはそれがしたくともできないと思っていた。が、死んでもなお、メッセージは必ず届けられることを、私はイリヤから教えられた気がした。

 

 その後、イリヤは数年かけて、死者たちとのの約束を果たすたに、家族の元へとメッセージを届ける行脚をするのだった。

 

 後悔のない人生を送りたい。後悔のない人生でありたい。そう考える者は多い。私だって、あの時にこうしておけば良かった、ああすれば良かったばかりの人生だ。ほんとうは悔いばかりが残っている。しかし、後悔のない人生なんてあり得ないし、後悔があるからこそ人は、全力で生きるのだ。

〈ありがとう〉〈ごめんなさい〉〈愛している〉〈また逢おう〉

 この四つの言葉を大切な人に伝えることができたなら、それこそが素晴らしい人生だと思える。それさえあれば、もう何も要らない。

 

『カシャ、カシャ・・イリヤ爺さん、私にも聞こえるよ・・』。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

その四 猫たちよ 


 私の名は、イリヤ・ヘイネン。

去りゆく者からの伝言配達人。

私の旅はまだまだ続く。

 

 死者の名簿を持って旅に出てから、どれくらい経っただろう?首都ヘルシンキを出発し、ウーシカウブンキ、トゥルク、ラウマ、ポリ、タンべレ、ロビーサ、ラフティ、クオピオ、コッコラとフィンランドの各地を回って気づいたことがある。それは、残されたと思われた者たちの多くもまた、この世を去っていたことだった。だが、わしには約束がある。死んでいった家族を探し出し、そのお墓に出向き、同胞の者たちの報告をすることだ。それは、生き残った者ができる最後の供養みたいなものだ。

 八五番目のトゥイヤ・ヘッセの家に着いた。しかし、そこには誰もいなかった。

 庭は草が伸び放題、建物は廃屋のように荒れ果てていた。近所にも人気はない。仕方ないので家の前に立ち、

「私はイリヤ軍曹です。トゥイヤ・ヘッセは戦死しました。伝言があります。彼は、〈ありがとう〉〈すまない〉〈愛している〉そう伝えてくれと言われました」と伝えた。

「・・・・」

 そう、当然のことだ。誰も返事などする人はいない。

(馬鹿だなあ・・。)

 わしは思わず苦笑いした。だが、わしの頭の中にはトゥイヤの姿が思い浮かんでいた。彼は明るい青年だった。

 

「おい、トゥイヤ。君は戦争が怖くないのか?」

「イリヤ軍曹、どうしてそのような質問をするのですか?」

「いゃあ・・トゥイヤ、だって君はいつも明るく元気で、周りの者をいつも励ましているからだよ」

「そんなことありませんよ。僕だって怖い・・何よりも戦争は嫌いです」

「そうだな、戦争の好きな人などいないよな」

「軍曹のご家族はどうしていますか?」

「父と母は死んだ。兄も妹と離ればなれになっているらしい・・」

「そうですか・・・失礼しました。」

「いいんだよ。それより君の家族はどうなのだ?」

「兄弟はいません。子どももいません。猫はいます」

「ご両親は?」

「年老いた父母、妻、猫二匹がおります」

「そうか、君は一人っ子なんだね」

「はい、だから僕は必ず生きて帰ります」

「そうだ、その意気だ。必ず生きて帰るんだよ」

 その時のトゥイヤの笑顔が目に浮かんだ。家族がいるはずの家には誰もいなかった。どこかに疎開でもしたのだろうか・・。そこに突然子猫が二匹現れ、わしに擦り寄ってきたのだ。お腹でも空かしているのかと思い、バックの中のビスケットを食べさせてやった。すると、家の裏からも猫の声が聞こえた。わしは子どもたちを探している親猫かと思い、その場所に行ってみた。子猫たちもわしに着いてきた。裏庭には十字架が建てられてあった。十字架の脇には石が三つほど置かれており、ヘイリー・ヘッセ、ハンナ・ヘッセ、・タイラ・ヘッセと名前が彫られていた。わしは驚いた。誰も生きてはいなかったのだ。トゥイヤの大切な大切な家族だ。絶対に生きて帰ると言っていた彼の家族だ。なんと神様は惨いのか。

「・・・」

 わしは、その墓にトゥイヤ・ヘッセと書き込んだ石を置いた。これで四人は一緒になった・・。

 

「イリヤ爺さん。とても残念ですね。トゥイヤが、家族が可哀想だ」

 イリヤの話を聞くたびに、私は涙が止まらなくなった。戦争が憎い。愛し合う家族はこうして引き裂かれていくのだ。

「ヘルヴィ、驚かないでくれ。この話には続きがあるのじゃ」

 

 わしは跪き、その墓の前で両手を合わせて家族に報告をした。

「あなたたちには、もう届いているでしょうが、生前トゥイヤは、〈ありがとう〉〈もうしわけない〉〈愛している〉と、家族に伝えたいと言っていました。彼はとても明るく、多くの仲間たちから信頼され、讃えられていました。彼は必ず家に戻り、家族を幸せにしてあげると言っていました。しかし、彼は死んでしまいました。このように出しゃばりで、お節介の私をお許しください」

 わしは涙を抑えることができなかった。

 

 どのくらいの時間が経ったのか、辺りは薄暗くなってきていた。わしは寝る場所もないので、お墓にご挨拶をしてから、彼らが住んでいた家に泊まることにした。室内はひっそりとして、電気も止まっていたが、久しぶりのベットが用意されていた。身体の疲れが取れそうだ。わしはテーブルの上のロウソクに火を点けた。すると、二匹の子猫と二匹の親らしき猫が側に寄ってきた。ゆらゆらと揺れるロウソクの炎を囲むように、わしと猫たちが集まった。まだ残っているビスケットがあったので、それを皆で分けることにした。トゥイヤの家に残された猫たちとのビスケットパーティだ。

「おい、猫たちよ、元気かい。私は長い旅の途中で、久しぶりに屋根のある家で寝ることができる。これもお前たちのおかげかなあ・・。ハハッ、人間の言葉などわからないよな」

「ニャー、ニャー」

 突然、猫たちが鳴きだした。

「どうした、お前たち。私が可哀想だとでも思うのかい?」

「ニャー、ニャー」

 猫たちは一斉にわしを見つめた。なんと優しく愛らしい猫たちだ。四匹がわしを囲んでいた。子猫たちはスリスリと、わしに身体を寄せてきた。わしは子猫たちの頭を撫でてやった。

「おい、猫たちよ。私は悲しい。もう巡礼のような旅をするのが嫌になってきたよ。とても辛いのだ。同胞の事を伝えるたびに涙され、悲しませ、生き残った私は、そのたびに胸が痛むのだよ。もう八五回も胸が痛み続けている。今度のトゥイヤの場合は報告する相手が誰もいない。こんなに空しい事はないよ」

「ニャー、ニャー」

 おや、このリズムはなんだ?この鳴き声のトーンはいったい何なのだ?

「猫たちよ、幸せか?」

「ニャー」

「悲しいか?」

「ニャー、ニャー」

「何が悲しい?お前たちは家族が全員いるではないか?トゥイヤの家族のことを悲しんでいるのか?」

「ニャー、ニャー」

「違うのか?」

「ニャー」

「猫たちよ、では私のことを心配してくれているのかい?可哀想だと思っているのかい?」

「ニャー」

 わしは驚いた。

 マッティ大尉との無線機のやり取りを想い出した。

 この猫たちは何者なのだ・・。

「猫たちよ、もう一度訊ねる。私にこのまま巡礼の旅を続けろと言うのかい?」

「ニャー」

「それは誰かのためになることなのかい?同胞やトゥイヤの遺志でもあるのかい?まさか、猫たちよ、まさか、君はトゥイヤなのか・・・トゥイヤ、トゥイヤなのか?」

「ニャー」

「・・・おお、信じられない。トゥイヤ、君は生きているのかい?」

「ニャー」

「では私がここに来たことも、巡礼に回ることも無駄ではなかったのかい?もっと続けろというのかい?」

「ニャー」

「君の奥様やご両親たちはどこにいるのだ?私の言葉は届いていたのだろうか?」

「ニャー」

「君たちはお墓にいるのかい?どこにいるんだ?」

「ニャー、ニャー」

「そばにいるのかい?」

「ニャー」

(どこだ、どこだろう?)

 わしはロウソクを掲げ辺りを照らした。窓の外も覗いてみた。部屋の中はわしと猫たちしかいない。わしたち・・。猫たちは顔を上げてわしの前に並んだ。わしは上からロウソクの灯りで猫たちの顔を照らした。猫たちは驚かない、その炎を恐れていない。真直ぐな、美しい瞳をわしに向けている。何か微笑んでいるようにも見える。

「きみは、ほんとうにトゥイヤなのか?」

「ニャー」

「あなたたちは、トゥイヤのお父さんとお母さん、奥さんなのか?」

「ニャー」

「〈ありがとう〉〈もうしわけない〉〈愛してる〉という言葉は伝わっているのかい・・?」

「ニャー」

(信じられない。)

 この世にこんな事があるのだろうか。おそらく偶然の産物なのかも知れない。わしはその夜、猫たちとともに眠りについた。翌朝になって、わしは次の場所に向かうことにした。昨夜の出来事は夢かも知れないが、わしは素直に何かの啓示として受け取ることにした。

 旅支度をして、最後のビスケットを猫たちのために残して、晴れ渡る畑道を歩きはじめた。すると、空からひばりの声が聞こえてきた。後ろからは猫たちの見送る鳴き声も聞こえていた。

 

 わしはもう一度ふり返って、

(ありがとう)

(すまない)

(愛している)

そして、

「また逢おう」と叫んだ。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

その五 壊れた時計


 

 私の名は、イリヤ・ヘイネン。

 去りゆく者からの伝言配達人。

 私の旅はまだ続いている。

 

「イリヤ爺さん、あなたは本当に良い事をしましたね。私には理解しきれないけれど、何か信じられる気がしますよ。でもね、私には父から何も合図がない。父さんはどこにいるのだろう・・」

「ヘルヴィ、君のそばにいるはずだよ。ただ君が気づかないだけじゃ」

 私はあたりを見渡した。耳もすませてみた。

「私には猫の鳴き声は聞こえないし、『カシャ、カシャ』の音も聞こえてこないですよ」

「そんなことはない。誰もがわかるはずじゃ」

「・・・」

 

 それからもわしの長い旅は続いた。

 それまでを振り返ってみたが、ほとんどが悲しみの涙ばかりだった。当然だろう。何度も何度も考えた。こんなことして、いったい何になるんだ。生きている報告ならよいが、死んだ者の報告ばかりだ。何も伝えなければ無用な悲しみを与えないで済むのじゃあないか、知らせない方が幸せではないだろうか、と考えさせられた。わしは酷い役目の使者だ。だが、大尉と約束した。同胞からも頼まれた。だからそれが彼らの望みだと信じた。ある者は手紙を残した。ある者は手帳に書いた日記を残した。紙切れのようなメモもたくさんある。ある者は小石を預けた。ある者は髪の毛を託した。ある者は金を預けた。帽子やハンカチなどもあった。わしは預かったものすべてを大きなバッグに入れて歩いた。

 軍隊の仕事上、兵士たちの住所や名簿はすべて持っていた。確かに、こんなことはもう止めようと思った時もあった。辛すぎて、辛すぎて。旅する金も底をついてきたし、自分の食べるものも調達しなければならない。何よりも、我が兄妹にわしが無事でいることを早く知らせたかった。

 

 そんな時、わしのポケットに入れてあった時計が動かなくなった。

 その時計は、元々はアンゾリの時計だった。

 アンゾリは、わしと同じ十二月十日に生まれた男で一つ年下だった。軍隊での名簿作成のときに、誕生日が同じだったことからか、互いに親近感を覚えた。アンゾリは、わしを兄のように慕ってくれた。わしに弟はいないが、もしいたら、アンゾリと同じように接していただろう。

「おい、アンゾリ。いい時計だな」

「イリヤ兄さん、(二人きりの時、彼はわしのことをイリヤ兄さんと呼んだ)。これはね、僕の曾爺さんの形見で、父さんが亡くなるときに僕にくれたんだ。先祖代々受け継いでいる時計です。よく止まることがあるのですが、また必ず動き出してくれるのですよ」

「へえ、ネジが精巧なのかもしれないな。失くすなよ」

「イリヤ兄さん・・実は頼みがあるのです」

「なんだい?」

「この時計、兄さんに付けていてもらいたい」

「おい、馬鹿を言うなよ。君の父さんたちに申し訳ないだろう。そんな無理なことを言うなよ」

「兄さん、これがもし僕の最後のお願いだとしたら・・?」

「最後だと?縁起の悪いことを言うもんじゃあないよ」

 アンゾリは真剣な眼差しだった。わしは今でも鮮明にその眼を覚えている。戦況は悪化し、皆生き残る確率はわずかだった。誰も戦争したいと考えている者はいない。人が人を殺し、殺し合うなどとんでもない話である。だが、戦わねばならない。残してきた家族を少しでも守ることができるのなら、我々は皆、命をなげうつ覚悟はできていた。

「兄さん、僕は明日、前線に向かいます。多分、生きて帰れないでしょう。だから兄さんに預けたいのです。兄さんがもし生き残ったら、この時計を母とまだ小さい弟に渡してほしい。兄さんと僕は兄弟のように仲が良かったと伝えてほしい。イリヤ、あなたは僕の兄さんだ。僕が愛している兄さんを僕の家族に見てもらいたいから・・」

 わしは何も言えず、答えられなかった。

 (我が弟アンゾリよ、死なないでほしい。生きて必ず戻ってきてほしい。  私が代わりになってもかまわない。愛する、愛する弟よ。)

 わしたちは固く抱き合った。

「わかった。だが、私が死んだら届けることができないぞ」

「兄さん、大丈夫だよ。それは兄さんに差し上げるものだ。それにその時計を持っていれば、僕のご先祖様が必ず兄さんを守ってくれるからね。だって、僕のたった一人の兄さんだもの。父さんたちだって喜んでくれるさ、きっと」

「・・・」

 

 翌日、アンゾリは前線に向かった。彼は見えなくなるまで、わしに手を振り続けていた。

 それから二週間後に、アンゾリの戦死を知らされた。

 

 わしは、その時計を見て想い出していた。この時計を届けなければ。弟の最後の願いだったのだ。思い悩んでいる暇などない。一日でも早く届けよう。次はオウルの街だ。そして、これを最後にして、自分の兄さんと妹に逢いに行くのだ。わしは住所を頼りに歩き始めた。途中、街で一時的に仕事をしたり、農家の手伝いをして、どうにか食いつないだ。数週間経って、ようやく目的地にたどり着いた。

 しかし・・家がない。

 建物があったという形跡は残っていた。だが家がない。近くの家を訪ねようとしたが、どこも人が住んでいなかった。わしは途方にくれた。どうすることもできず、わしは困り果てたまま家の跡らしき場所の木陰で寝てしまっていた。生ぬるい風が漂う。木の葉のそよぎが聞こえる。鳥のさえずり、かすかな花の香りが疲れたわしを慰めてくれていた。

「どうどう、おい、お前さん。何しているんだ?」

 馬車に乗った老人が話しかけてきた。

「アンゾリさんの家をご存知ですか?確かこの辺だと思うのですが」

「アンゾリ?軍隊に行ったアンゾリかい?」

「はい」

「あんたは誰だ?」

「はい、兄です」

「アンゾリに兄さんなどいたかなあ・・」

「いえ、軍隊で兄弟になりました」

「軍隊。でアンゾリはどうした?」

「戦死しました」

「・・そうか。それであんたは何しに来たのだ?」

「アンゾリのお母様と弟のエルケに逢いに来ました」

「母親は少し前に死んでしまったよ」

「えっ。でエルケは?」

「確か、孤児院に預けられているはずだ。身寄りはもう誰もいないからな」

わしは愕然とした。アンゾリと歳の離れたエルケはまだ十歳ぐらいのはずだ。それなのに、家族がみな死んでしまったなんて・・。

「すみません、その孤児院を知っていますか?」

「知っているよ。逢いに行くのなら、わしがこの馬車で連れてってあげよう」

 わしはこの老人に甘える事にした。

 

 それから一時間ほどして、エルケが預けられているという孤児院に着いた。わしは老人に丁寧にお礼を述べて馬車から降りた。孤児院といってもそこは大きな馬小屋を改造した建物だった。子どもたちの声が聞こえた。こんなにも孤児がいるのか、わしは驚いた。だが、そこにいる子どもたちは楽しそうに遊んでいる。馬小屋のてっぺんには曲がった十字架があった。おそらく教会が子どもたちの面倒を見ているのだろう。

 わしはエルケを探した。しかし、どの子かわからない。子どもたちに聞いてみた。大人たちは仕事中なのか姿が見えない。何人かの子どもにエルケの名前を伝えたが、皆わからないと答えた。まだここに来たばかりなのだろうか。わしはそばにあった井戸水を飲みながら牧草の上に座った。今は何時だろう?ポケットから時計を出したが、止まっていることを忘れていた。時計は、わしの掌の上で太陽の光を浴びて輝いていた。

 

「叔父さん、叔父さん。叔父さんはだあれ」

 突然、少年に声をかけられた。

「私はイリヤ。イリヤ・ヘイネンという者だよ」

「・・それ、父さんの時計なんだけど」

「えっ、じゃあ君はエルケかい?ほんとうにアンゾリの弟かい?」

「はい」

「ああ、やっと、やっと逢えた。私はお兄さんから頼まれて、この時計を君に届けに来たんだよ。兄さんはね、兄さんはね・・」

「知っているよ、僕は」

「誰から聞いたの?」

「母さんが死んだあと、政府から通知が来て、ここに来るように言われたんだ」

「そう・・。この時計壊れているようだけど、君に渡すよ」

「ありがとう」

 エルケは十歳にしては大人びていて、特に動じることもなく、掌にのった時計を眺めていた。わしは心の中でほっとしていた。小さな子どものエルケに兄の死を知らせるのが辛かったからだ。

「でも、叔父さんはどうして兄さんから時計を預かったの?」

「君のお兄さんはね、私の弟なんだ。その弟から頼まれたんだよ」

「兄さんの兄さんなの?」

「うん、血はつながっていないけれどね」

エルケはわしを繁々と見続けていた。

「じゃあ、あなたは僕の兄さんでもあるんだね」

「そうだね、そういうことになるね」

そこへ神父様がやってきた。

「さあ、夕食の時間だよ、エルケ。この方はどなたですか?」

「僕の兄さんだよ」

「お兄さん?君のお兄さんは戦死したはずだが・・」

「あの、私はアンゾリとは軍隊仲間で、兄弟の契りを交わしたのです」

「ほほう、そういうお兄さんですか。では、粗末な物ばかりでお口に合うかわかりませんが、いっしょに食事はいかがでしょう?」

 わしは誘われるまま食事を頂くことにした。

 孤児院の天井は高く、床は土間のままだった。部屋の隅には乾いた牧草が高く積まれていて、馬小屋の名残りを留めていた。子どもたちは五十人ほどか、丸太のテーブルの上には玉葱のスープとトウモロコシ、小さなパン一切れずつが置かれていた。

 皆が席に着いたのを見届けると、神父様はお祈りをはじめた。

「皆さん、生きていてくれてありがとう。こうしていっしょに食事ができることに感謝します。

 私には五人の子どもがいましたが、戦争で皆いなくなってしまいました。私は悲しくて悲しくて、毎日泣いていました。父も母もこの世を去りました・・私はひとりぼっちになったと思いました。でもある時、誰もこの世を去っていないことを知りました。戦争が終わり、生きる力を失くした私に希望を与えてくれたものがあったのです。それは、ここにいるあなたたちでした。一人が二人になり、一〇人が二〇人になり、そしていまは五〇人のあなたたちがいます。主は、私に一〇倍の子どもを授けてくれました。君たち一人一人の瞳は、私の子どもたちの瞳と同じです。同じ輝きが宿っています。あなたたちの笑顔、話し声、涙、表情、姿の中に、私は神を感じています。そして私の子どもたちの声を聞いています。あなたたちのおかげで、私は家族にまた会えました。私たち全員が皆家族なのですから。さあ、食事をいただきましょう」

 

 神父様の言葉は、わしにとって衝撃的なものだった。

 まるで、わしとエルケのことを言っているように聴こえたからだ。

 

 食事が終わり、わしはエルケと語りはじめた。

「エルケ、寂しくないかい?」

「うん、寂しくないよ。ここには兄弟がいっぱいいるからね。弟も妹もいるよ」

「そうか。」

「イリヤ兄さんの兄弟は?」

「兄と妹がいるよ」

「死んじゃったの?」

「いや、まだ何もわからない・・」

「探しに行くの?」

「いや、探しているのだけれど、見つからないんだよ。それに私にはまだやることがあるんだ」

 一〇歳のエルケに伝わったかどうかわからないが、わしはアンゾリとの想い出や今までの経緯を説明した。エルケは凛とし聞いていた。まるで兄のアンゾリがそばにいるかのように、わしは感じた。本来ならば幼いエルケを慰めるのが役目のはずなのに、わしは話し終わると、思いっきり泣いてしまった。しっかりしたエルケの姿を見ていると、なぜか涙が止まらなくなってしまったんだ。

「イリヤ兄さん。兄さんのお兄さん、元気を出してね。そんなに泣かないで、悲しまないで、僕まで悲しくなるからね。でも僕は泣かないよ。泣かないって決めたんだ」

 どうしてこんなに強いのだろう、この子は。まるでアンゾリと同じだ。いつも明るく、人を励まし続けた兄と同じだ。

「エルケ、これからどうする?」

「どうするって?」

「私と一緒に暮らしてみるかい?」

「・・・」

「私は君の兄さんの兄さんだし・・」

「・・・僕は、家族のそばにいたい」

 お父さんも、お母さんもいないではないか、わしはそう言いかけたが、言葉をのんだ。

「イリヤ兄さん、お父さんとお母さんと兄さんは僕のそばにいると思うよ。そう感じるんだ。神父様が僕たちを自分の子どもと思っているように、僕の家族はみんな、必ず僕のそばにいてくれると思うよ」

「そうか・・・。私は君に無理強いをする気はないよ」

「ありがとう」

エルケは届けられた時計を握りしめていた。

「この時計・・お父さんのお気に入りでいつも自慢していた。お守りだとも言っていたよ。だから、きっと僕を守ってくれる」

 わしはまた涙がこぼれた。やっと届けることができたと、心から思えた。しぶい銀色の輝きを放つその懐中時計は、幼いエルケには不釣り合いだったが、時計も喜んでいるような気がした。この土地は、この子にとって大切な家族との想い出の場所。大自然に囲まれて、空気が美味しく、何よりもこの壮大な山々はきっと彼を支えてくれるに違いない。

 

「カチ・・」

「カチ、カチ・・」

「イリヤ、イリヤ兄さん!」

「何だい?」

「時計が、時計が動きだした!」

「えっ、本当だ」

「あれ、止まった・・父さん、母さん、兄さん、聞こえるかい?」

「カチ」

「兄さん、ありがとう」

「カチ」

「兄さん、死んじゃったの?」

「カチ、カチ」

「元気でいるの?」

「カチ」

「私だイリヤだ、わかるかい」

「カチ」

「アンゾリだね?約束を守ったよ」

「カチ」

「兄さんはいま、父さん、母さんと一緒?」

「カチ」

「兄さん、ごめんね。僕は何もできず、役に立たなくてごめんね」

「カチ、カチ」

「カチ、カチ・・」

「そんなことないの?」

「カチ」

「父さん、母さん、僕は元気だよ。心配はいらないよ、大丈夫だからね。いつまでも、いつまでも忘れないよ」

「カチ」

「アンゾリ、私はこのまま旅を続ければいいのかい?」

「カチ」

「私の兄や妹は生きているのかい?」

「カチ・・」

 

 わしはまた泣いた。あれだけ冷静だったエルケも泣いている。この涙は悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。涙と言うのは悲しい時だけでなく、嬉しい時にも流れてくることを、この時わしは初めて知った。

 冷静で大人びたエルケだったが、この時ばかりは一〇歳の子どもに戻っていた。

 

 夕焼けが美しい。

 鳥たちもあの夕陽に向かって帰ろうとしていた。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

その六 ふたりだけの夕陽 

 

 私の名は、イリヤ・ヘイネン。

 去りゆく者からの伝言配達人。

 私の旅はまだ続いていた。

 

 

「ヘルヴィ、おいヘルヴィ。聞いているのか?」

「はい、しっかり聞いていますよ」

「そうか・・。ありがとう」

「イリヤ爺さんの兄さんや妹はどうしたのですか?最後に逢えばいいと思っていたのですか?」

「いや、すぐにでも逢いたかった。どこにいるかは分からなかったが、必ず二人とも生きていると信じていた。旅の途中に手紙を送り続けていた。送り先は大使館さ。そこならば手紙を保管してくれるだろうと、ない知恵を絞ったのさ。わしには住所がないが、街に行けば電話ができる。そのたびに大使館に連絡して調べ続けてもらったのだ。大使館の連中も同情してくれたのか、ずいぶん親しくなった。どちらにしろ、その時点ではまだ兄妹の居場所がわからないというので巡礼の旅を続けた」

「早く、逢いたかったでしょうね」

「そりゃ、もちろんだよ。ちょっと煙草を吸っていいかい?」

「構いませんよ」

「この煙草を吸うと想い出す・・」

「何をですか?」

「この煙草をくれた軍医のタイナ・ティークのことさ。彼女は美しかった。年上の彼女がわしの初恋の人だった。ご主人を戦争で失くされていた。ご主人はタイナと同じ医者だった。わしは夕陽を見ると故郷の山々、生茂る草花、流れ出る冷たい湧水と小さな虫たちを想い出していた。そして、優しい父と母、兄さんと妹との楽しい時を想い出していた。もう一度逢いたい。もう二度と逢えないかも・・。そう思うと涙が止まらなかった・・。タイナはそんな時、いつもわしに寄り添ってくれた。つまらない男と女の関係じゃあない。彼女はわしにとって母であり、姉であり、妹であり、愛する人だった。辛く苦しい軍隊生活だったが、わしは楽しかった。それも彼女のおかげさ。一番の思い出は、二人で沈む夕陽を眺めていたことだ」

「で、その女性はどうしたのですか?やはり死んでしまったの?」

「わからない。前線に志願して、そままま帰らなかった」

「最後に何か話はしたのですか?」

 

 わしは彼女が前線に行くのを最後まで反対していた。他の者も同じだった。戻れるという保証などない。まだ若い女性だよ。わしだけでなく、同胞たち皆のアイドルでもあった。それに、故郷には父親を亡くした幼い三人の子どもたちが残されていた。祖父が面倒を見ていたらしいが、母親である彼女を早く家に返したかった。皆同じ思いだった。だが、前線で戦死した夫の代わりになろうと志願したのだ。わしはそんな彼女に言った。

「子どもたちの所に戻りなさい、誰もあなたを恨んだりしない。もう充分に尽くしてくれた。上官もあなたを高く評価している。だから、もう帰りなさい・・」

「いえ、私は帰りません。私は夫の死んだ前線に行きたいのです。それに、いったい誰が負傷兵の面倒を見るのですか?」

 わしは何も答えられなかった。

「でも、子どもたちはどうする?」

「大丈夫よ。私は子どもたちのそばにいつもいるから・・」

「・・・」

 そうか、これが戦争なのか。覚悟を決めた者たちの意志なのか。だが、タイナは母親ではないか。何か間違えてはいないのだろうかと、わしは割り切れなかった。そして、何よりもわしは彼女を愛していたからだ。わしは彼女と代わりたかった。

 

「イリヤ。ねえ、イリヤ、お願いがあるの」

 前線へ出発する前に、彼女が話しかけてきた。

「何だい?」

「ねえ、そんなに悲しげな顔をしないで。まるで私が死んでしまうみたい。二度と逢えないみたいじゃない。イリヤ、泣かないで、さあ笑おう。笑って、笑って、人生に感謝しよう」

 わしは笑った、いや笑おうとした。だが頬は強張り、口元は開かず、全身は硬直し、涙は止まらない。どうして、笑えるだろう。どうして、そんな平然とした顔ができるのだろう。わしにはできない・・。

「イリヤ、言っておくことがあるわ」

「・・・」

「私は、死にません。絶対に、絶対に死なないのよ。子どもたちにもそう話してあるの。私の夫だって、死んでなんかいない。いまも生きているわ。あなたのお父さんも、お母さんも死んでなんかいないわ。私がそう言うのだから間違いないわ」

「・・・」

「私はね、必ず戻るから。必ずね」

「そうか、タイナ。君を信じてみることにするよ・・」

「そうよ、私を信じて」

「で、お願いってなに?」

「そうそう、これを渡してほしいのよ」

 彼女はバックの中から、しわだらけの紙を出した。慌てて書いたのか、それは紙袋を手で破いたメモだった。一枚一枚しわを伸ばし、丁寧に折り曲げてから封筒に入れた。そして、封筒の上に『大切な人へ』と万年筆で書き入れた。

「これは、ラブレターよ。イリヤ、あなたにではないわ。私の三人の子どもたちへのラブレターよ。だから、直接会うまで開けないでね。約束できる?」

「うん・・」

「よし。イリヤ軍曹、命令します。君には新しい任務を与える。それは必ず生きて、このラブレターを私の子どもたちに渡すこと。よいか?」

「うん・・」

「イリヤ軍曹、『うん』ではないだろう?『はい』だろう?」

「はい・・」

「敬礼」

 

 わしは泣いた。笑顔の彼女も心のなかで泣いていたと思う。わしは涙でかすんでタイナの顔が見えなかった。わしたちは、最後の沈みゆく夕陽に向かい敬礼をし続けた。その時わしは、このまま夕陽が沈まないように願った。わずかな時間だったが、わしにとっては生涯忘れられない切なく幸せなひと時だった。。

 

「タイナはその後どうなったのですか?」

「・・・」

「あなたが初めて愛した人でしたよね・・」

「そうだ、美しい想い出しかないな。人を愛する、こんなにも素晴らしいことはない。今はこんなに平和なのだからね。物質だらけの世の中になってしまったけれど。その世界で多くの人々が苦しみ、悩み、悲しんでいるが、そんなことはちっぽけなものだよ。人間は、生きているだけで幸せだよ。元気でいられることだけでも幸せだよ。人々がどんなに悩みを抱えていたとしても、わしから見ればみな幸せじゃよ」

「タイナは必ず戻る、絶対に死なない、誰も死んだりしない、そう言ったんですよね?」

「そう。誰も死んでいないとね」

 

 わしは、タイナの故郷ロヴァニエミの町に向かった。旅慣れしてきたのか、ずいぶんと足取りが早くなり、何よりも身体がしっかりとしてきたような気がした。わしは通りすがりの牧場や車の修理工場などで旅費と生活費を稼ぎながら旅をした。戦後の人々は苦しみの中で立ち上がろうと、それぞれが努力をしていた。互いに支え合い、助け合い、悲しみを共有しあい、何よりも温かく優しい表情をしていた。

 わしはその町で中古のおんぼろ車を購入した。わずか一〇ドルだという。故障だらけで動かないから安かった。解体屋はそんな車を買うわしを不思議がったが、わしは飛行機の整備だってしていたんだ。

 もともと機械いじりの好きだったわしは、車の整備はもちろん、飛行機の整備もし、軍隊時代にあらゆる技術と免許を取得していた。本業は軍隊での人事管理、面接、会計処理、通信記録係などの事務屋だったが、何でもできるわしは重宝がられていた。この解体屋には色々な機械のパーツが転がっていて、不足する部品はすべてタダで貰えた。一週間ぐらいかかったが車は動いた。

 わしはその車を白色に塗装し、生き返った車に乗って旅に向かうことにした。

 わしの相棒となったのは、ドイツ車のフォルクス・ワーゲンだ。重く硬いボディ、アクセルを吹かすと、けたたましいエンジン音、エントツのように煙を吐いては順調に走った。三角窓を開けると気持ちのよい風が車内に流れ込む。車窓から眺める景色はパノラマのように美しかった。カーラジオからは音楽も聴けた。よく流れてきた曲はチャップリンの「スマイル」だった。

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 あなた、笑って 心痛むとき

 あなた、笑って たとえくじけそうなときでも

 

 空が曇っていたってすぐに過ぎていくから

 あなた、笑って 心の痛みも哀しみだって過ぎていくから

 

 あなたならきっと乗り越えていけるさ

 

 あなたが笑っていれば、きっと明日には

 あなたのために太陽が輝いてくれるよ

 

 だから、あなたの顔に明かりをつけて

 哀しみの痕跡を隠して

 

 それでも涙が出ても、そのときは試せばいい

 あなたが笑っていれば、きっと明日には

 あなたのために太陽が微笑んでくれるよ

 

 あなたならきっと乗り越えていけるさ

 

 あなた、笑って、泣いても仕方ない

 どんなに辛くとも決して笑顔を忘れてはならないよ

 笑顔は必ずあなたを大切にしてくれるから

 

 そうすればあなたの人生はまだ価値があるということがわかるから

 

 だから、あなたはただ笑っていればいいさ

 

 だからあなた、素敵に笑って

 

 いつもあなた、素敵に笑って

 

 あなたならきっと乗り越えていくさ

 

 

 さあ、笑って

 ねえ、笑って

 

 チャールズ・チャップリン「スマイル」より 創訳 coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

その七 破れた手紙

 

 私の名は、イリヤ・ヘイネン。

 去りゆく者からの伝言配達人。

 私の旅はまだまだ続いた。

 

 

 車を購入してから旅の速度が速くなった。荷物は積めるし、宿泊などの心配もいらなくなった。この車はわしの贅沢な部屋だった。ガソリンを食べさせなければならないが、文句も言わず、よく働く。もうすぐタイナの故郷だ。そばに川があったので飲み水を調達し、ラジエターにも水を飲ませてやった。ついでにボディも洗ってやったら我が愛車は実に喜んでくれた。新しいわしの家族が誕生した。

 

 街に入り、住所を頼りに探しまくる。「ティーク」という表札が見つかった。だいぶ古い建物で白い家だった。わしの白い愛車が似合う家だ。玄関の入り口に植えられたローズマリーの香りが漂う。これはタイナの匂いだ。わしは洋服の埃を叩いてから、慎重にドアをノックした。

 

「ママ、ママ・・」

 扉の中から子どもの声がした。子どもたちの賑やかに走り回る足音とともに扉は開いた。

「ママ・・。あれ、ママじゃあない。おじいちゃん、おじいちゃん、ママじゃなかったよ。お客様だった」

 子どもは三人いた。女の子が一人、男の子が二人。一番大きい子が一〇歳ぐらい、二番目がお姉ちゃんなのだろうか、八歳ぐらいの女の子。その子は六歳ぐらいの男の子を抱っこしていた。そして、後ろからゆっくりと車椅子に乗った老人が出てきた。

「いらっしゃい、どなたかな?」

「はい、私は、イリヤ・ヘイネン軍曹です」

「ウオン、ウワン・・」

 急に犬が吠え出した。その犬は真っ白なシェパードだった。

「おい、おい、静かにしなさい。お客様だよ。めったに人が訪れることがないので犬が驚いたのだろう。すまない・・」

「いえ、可愛らしい犬ですね。名前は?」

「タイナという名前だ」

「娘さんのお名前と同じですね」

「・・で、何のご用ですか?」

「・・」

「まあ、部屋に入ってお座りなさい。これ、椅子の上に置いてあるおもちゃをかたずけなさい。お客様だよ」

「ありがとうございます」

「長男のヘイリーを同席させてもかまわないかい?」

 老人にはもうわかっているのか。ヘイリーはコーヒーを淹れ、ゆっくりとカップに注ぎわしの前に置くと、落ち着いた物腰で老人の隣の席に着いた。ずいぶんとしっかりした少年だ。タイナによく似ている。横顔が瓜二つだ。ヘイリーは老人の膝の上に手を置いた。二人の傍らに、犬のタイナも行儀よく座った。

「・・で、タイナは死んだのですか?」

「・・・」

 もう何度もこんな会話をくり返してきたはずなのに、答えるのがむずかしい。どう説明したらよいのか・・。

 わしは、先ずこれまでの事実だけを話すことにした。タイナが多くの人の命を助け続けたこと、多くの者たちに希望を与えたこと、前線に自ら志願したこと、優しかったこと、多くの人に愛されたこと、凛としていたことなどを。老人とヘイリーは静かにわしの話を聞いていた。話の途中には笑顔になったり、悲しそうな顔もした。だが、二人とも終始冷静だった。わしは夢中になって話し続けた。どんなに小さな他愛のない事でも話した。目の前の二人は常に穏やかに、わしの話に耳を傾けていた。やがてわしの方が涙が止まらなくなった。穏やかな彼らを見ているだけで胸が詰まった。いったい自分は何をしているのだろう?何を話しているのだろう?いなくなってしまった人の話である。苦しい。わしはとうとう話が続けられなくなった・・。

「イリヤ軍曹、ありがとう。娘を大切に思ってくれて」

「叔父さん、ママえらかったんだね」

「・・・」

「そうか・・。娘は前線に行ったのか。だが、きっと生きている、死んでなんかいないよ」

 わしはタイナの死亡報告書を持っていた。状況の確認もしていた。残酷とはいえ、事実はきちんと伝えたはずなのに、〈娘は生きている、死んでなんかいない〉と父親は言う。愛する娘の死を認めたくないのだろう、信じたくないのだろう。わしもそうだった。生きているかどうかわからないが、〈死んでなんかいない〉と思うことで、人は慰められるのだろうか・・。

 ヘイリーが口を開いた。

「叔父さん、大変だったね。きっとママは喜んでいると思うよ。ママはえらい、やっぱり僕たちのママだ。パパもそう思っているよね、おじいちゃん」

「その通りだ」

 なぜ、こんなに明るい声で語れるのだろう。どうしてそんな風に思えるのだろう。そう思えば思うほど、わしは涙があふれて仕方がなかった。

「お父さん、大変失礼なことを申します。無礼をお許しください。どうしても教えてほしいのです。私は一〇歳の時に父を亡くしました。母も病死しました。この戦争で別れ別れになったきり、兄妹たちの行方もまだわかりません。私は悲しみで胸が張り裂けそうなんです。家族にも、戦友たちにも、タイナに対しても、何も出来なかった自分は後悔だらけです。どうか、教えてください。どうして、あなたたちはそんなに・・」

 

 しばらく沈黙が続いた。わしはいけない質問をしてしまったと後悔していた。

 すると、「ワン、ワン、フワン」と白い犬が吠えはじめた。

「どうした?タイナ」

「キューウ、キューウ、フワン、フワン・・」

 白い犬は何を感じたのか、天井を見上げたり、テーブルの下、ソファーの回りを歩きはじめた。何かを探しているのか、ネズミでもいたのだろうか。何か見えるのだろうか?

「クゥ、クゥ、フワン、フワン」

 急に優しい声に変わった。そして、犬のタイナはわしのところにやってきて、頬を舐めると、わしのバックを開けようとした。そうだ、忘れていた。タイナからの手紙をわしは預かっていた。はっとした・・。慌ててバックを空け、手帳に挟んでおいた手紙を取り出し、その手紙をヘイリーに差し出した。

「ごめんなさい。タイナから大切な手紙を預かっていました。これです」

「えっ?僕になの。おじいちゃん開けていいの?」

「いいよ、開けなさい・・」

 〈大切な人へ〉と書かれた茶封筒。それは軍部が使う封筒だ。わしがタイナにあげたものだっだ。

 あの時の美しい夕陽が目に浮かんだ。

 ヘイリーはその封筒をゆっくりと丁寧に開けた。手紙の中からは、あの時の汚れた紙袋の切れ端が数枚出てきた。そこには万年筆で書かれた美しい文字があった・・。

 

 あなたの右手に

 清貧を

 左手に慈愛を

 足元に静謐を

 頭上に感謝を

 中心に聖火を

 愛するあなたに贈ります

 

 それは〈大切な人へ〉と題したタイナから子どもたちへのメッセージだった。

 

 いつの日にか大人になるあなたへ。

 貧しさをいつも右手に握りしめ、貧しさを忘れてはいけません。貧しさを嫌ってはいけません。貧しさは、とても尊い恵みです。左手は心につながり、慈愛の心を想い出すためのもの。人を愛し想い続けること。左手はすべての事柄を慈しむためのもの。静謐(せいひつ)とは、何事をも荒立てないで、もの静かで安らかなものを見つめて歩み続けること。感謝は頭上に捧げ、讃えるもの。そして、あなたの中心に聖なる炎を灯し続けて生きてください。

 

「ママの字だ・・」

「ママの・・・」

 そしてもう一枚、小さな紙に、小さな字がいっぱいつまったメモがあった。

 ヘイリーがその紙切れを開こうとしたら、犬のタイナがまた吠えた。

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〈あこがれ〉

 

わたしはいます。

 

あの空の上にも

あの雲の下にも

 

わたしはいます。

 

あの風に揺れる花びらの中にも

あの風に揺れる木の葉の中にも

 

あの佇む樹木の中にも

あの生茂る草原の中にも

 

あの朝露のしずくの中にも

あの湧き出る水の中にも

 

わたしはいます。

 

あの沈む夕日の中にも

あの闇夜の通り道の中にも

 

あたたかな日差しの中にも

朝の眩しい光の中にも

 

わたしはいます。

 

あの道端に咲いたたんぽぽの中にも

あの道端に転がる石ころの中にも

 

あの小川のせせらぎの中にも

あの小鳥のさえずりの中にも

 

わたしはいます。

 

あのわたりゆく風の中にも

あの冷たく寒い風の中にも

あの緩やかな春風の中にも

あの吹きすさぶ嵐の中にも

 

わたしはいます。

 

あのカテーンのそばにも

あの目覚まし時計のそばにも

あの椅子のそばにも

あの鏡のそばにも

 

わたしはいます。

 

わたしはどこにでもいます。

わたしはあなたのそばにいます。

 

わたしは死んでいません。

わたしはこうして生きています。

わたしはいつまでも生き続けています。

 

わたしはずっとあなたのそばにいます。

わたしはあなたのそばを離れません。

 

わたしはいます。

わたしを感じて下さい。

わたしのこころの声を感じて下さい。

わたしのこころの声を聴いてください。

わたしはあらゆるものになり、

あなたに伝えています。

 

目覚まし時計の音として、

携帯電話の音として、

車の雑音や電車の音として、

料理を調理する音として

水道の水の音として

猫や犬の声として、

赤ちゃんの泣き声として、

雷や雨音として、

ラジオから流れる音楽のリズムとして

人の言葉や詩の朗読として、

本の中の一節として、

老人の戯言の中にも、

子どもたちの笑い声の中にも、

テレビからも、映画からも、

他愛のない雑談の中にも、

 

わたしはいます。

 

わたしは死んでいません。

わたしはこうして生きています。

わたしはいつまでも生き続けています。

 

聴こえませんか、

わたしのこころが。

 

聴いてみませんか、

わたしの言葉を。

 

わたしはここにいます。

わたしを感じて下さい。

わたしのこころの音を感じて下さい。

わたしの声を聴いてください。

 

なぜなら、

あなたはわたしの永遠の憧れ、

わたしはあなたの永遠の憧れだから。

 

わたしはいまもあなたのそばにいます。

 

あなたはわたしの永遠の憧れ、

わたしはあなたの永遠の憧れだから。

 

 マリー・フライエ詩 創訳 coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 老人と子どもたちは皆嬉しそうだった。

「やっぱり、ママはいる。ママはいつも僕たちのそばにいるんだね」

「そうだ、その通りだ」

「タイナ、ありがとう。愛している」

「ママ、ママ。僕たちも愛している」

 白い犬は天上に向かって吠えた。尻尾を振りながら、喜びながら、まるで何かが見えているように鳴き続けていた。

 

 この詩は、もう一枚あった。

〈愛するイリヤへ〉

 タイナはわしにも書いてくれていたのだ。

 わしへの最後の部分には、

 (私は死んでなんかいませんよ。あなたが見えています。また逢いましょうね)と書かれていた。

 

 わしは帰り道の車の中で、広がる青空に向かって微笑んでいた。

 わしの中で固まっていたものがほどけて、やっと自然に笑えたのだ。

 

 ラジオからは、またあの〈スマイル〉の曲が流れていた。

 

 その日の出来事は、タイナからわしへの贈り物かも知れない。

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その八 はじまりの旅


 

私の名は、イリヤ・ヘイネン。

去りゆく者からの伝言配達人。

私の旅はどこまでも続いた。

 

 

「あなたは、全部で何十カ所回ったのですか?」

「そうだなあ、どれくらいだろう、名簿には二百人近くあったからなあ・・」

「途中からは車があってよかったですね」

「ああ・・あの車は、わしの親友だ。老いぼれだが、食欲があった。よく病気もしたが、わしはあいつの専属ドクターだからな、すぐに直してやったよ。じゃが、いまのわしと同じく限界が近かった。あと少し、もう少しでやっと終わる。約束が果たせると、互いに励まし合っていたんだよ・・」

 

 その頃のわしは、もう二〇代後半に差し掛かっていた。いよいよ最後の旅となる。色んな人たちと出会った。悲しみに暮れる人々、希望を失う人々、涙にくれる人々、まったく行方の分からない人々もいた。また、感謝してくれた人々、喜んでくれた人々。わしはたくさんの人たちの想いに出合った。だが、大使館へ問い合わせるわしへに吉報はまだ届かなかった。兄さん、妹よ、どこにいる・・。

 

 車から眺める景色はいつも素晴らしかった。自然はいつも堂々としていて、人間が開発しない限り、その場所を守り続けている。タイナの家から三時間ばかりの所が最後の目的地だった。愛車よ、止まるなよ。よく考えたら、わしはずうっとお前と話し続けていたなあ。よく話し相手になってくれたなあ。お前は見た目はオンボロだったが、部品をすべて交換したから、新品同様だ。大切なわしの唯一の友だちだ。この最後の訪問が終わったら、感謝を込めてお前に名前を付けてあげよう。

 

 しばらくぶりに舗装された道路に出た。ガソリンスタンドで給油し、地図を開き店員に場所を訊ねた。次に着いた町は比較的きれいだった。ここは空襲爆撃や戦闘がなかったのだろう。

 小さな町だが鉄道もあった。機関車を見るのは久しぶりだ。子どもの頃、わしは機関士になりたかった。一日に一本ぐらいだが、汽車が通るたびに手を振ることが兄とわしの楽しみだった。嬉しかったのは、機関士さんがわしたちに手をふり返してくれたこと、仲良くなれたことだった。両親に内緒で機関車に乗せてもらい、運転をさせてもらったことを思い出す。親切な機関士さんだった。深い谷間を走るときに谷底を覗いたら、真っ逆さまに落ちるんじゃあないかと怖かった。山々の間を走るときには、ループ状になった区間から圧倒的な大自然が迫り、空の上から地上や雲を眺めているように感じたものだ。

 

「ピー」

「ピー、ピー」

 わしは突然、汽車の合図で我に返った。そうだ、明るいうちに最後の場所に着くのだ。次の場所は町の一番はずれにあった。名前はアクセリ。彼は、部隊で一番身体がでかく温厚だった。が、喧嘩もめっぽう強かった。恐れを知らない勇者のような男だった。

 

「イリヤ、俺も頼みがあるんだ」

「アクセリ、何だい?」

「もし、俺が戻れなかったら・・」

「何を言うんだ・・」

「戻れなかったら、子どもたちに渡してもらいたい物がある。ネックレスと指輪とイヤリングだ。そうだ、あとは俺と妻の写真だ・・」

「もし、私も戻れなかったらどうする?」

「いや、お前だけは戻ってほしい。俺はおまえの分まで戦うから」

「うーん。約束はできないよ」

「約束をしろ。俺は明日出撃なんだ。頼む、イリヤ」

 わしは約束を守れる自信がなかった。自分も前線行きを志願していたからだ。アクセリだけを死なせるわけにはいかない。もうこれ以上、死にゆく仲間を見送ることなどできない。だがアクセリは大尉の所に行き、二人分闘うからイリヤを残してほしいと頼んでいたという。わしはその事を後で知った。だからといって、大尉がわしを残したのだとは思わないが。それよりも、どうして皆はわしに何かを託そうとするのか。もし、わしが死んだら届けることなどできない。それに生きて帰れる保証など何もない。

「アクセリ、約束を守れるかどうかわからない。保証することはできないが、それでもかまわないのか?」

「それでもかまわない。俺は俺の気持ちを誰かに託したかっただけだ。俺はお前を信じている。お前はきっと生き残れるよ。もし、無理であっても信じるお前が預かってくれているだけで、俺は安らぐ。思いっ切り闘うことができる。何も悔いのないようにしたいんだ」

「・・・」

 正直、荷が重い。それに自信がない。

「で、誰に届けるんだ」

「息子と娘二人だ。息子には俺の指輪、娘二人にはネックレスとイヤリングだ。このままだと失くしちまうだろうしな」

「戦時中なのによくプレゼントが手に入ったなあ」

「買ったんじゃないよ。どこにも売っていない。これは元々、俺が妻に贈ったものだからな」

「妻、奥さん?どうしてお前が持っているんだ」

「妻の形見だよ。二年前に死んじまった・・」

「子どもたちはどうしているの?」

「それがわからない。妻に似て強い子どもたちだから何も心配しちゃあいない」

「お祖父さんとかお祖母さん、お前の兄弟や親戚の人はいないのかい?」

「みんな、みんな死んじまった・・」

「じゃあ子どもたちだけでいるのか?」

「どこかの孤児院で預かってくれていると思うが、それとも・・」

「・・・」

「長男の名はアフェドラ、長女の名はマーガレット、次女の名はネリア、妻の名はイキシアという」

 

 これが戦争だ。愛する、必要とする家族がみな離ればなれになる。これは敵軍も同じだ。生きているのか、死んでいるのか、無事なのか、どこにいるのか、病気などしていないだろうか、ちゃんと食事をしているのだろうか、誰かに助けてもらっているのだろうか・・。互いの情報などまったく入らない。破壊し、殺し合うだけが戦争ではない。これが戦争の悲惨さだ。

 

 

 わしはイバロの町に到着した。

 そばにはイナリ湖があった。なんと大きな湖なのだろう。静かだ。その町外れにアクセリの家があった。多分ここには誰もいないだろう。身寄りが誰もいないため、子どもたちは孤児院に入れられているはずだ。だが、その場所を調べなければならない。あてはないが、近所の人に訊ねてみることにしよう。

 その家の庭先には洗濯物が干してあった。人が住んでいるのは確かだ。いたる所に小さなプランターが置かれていた。これは家主の仕事なのだろうか。わしは扉をノックした。誰もいないのだろうか。いや、家の中からは物音が聞こえる。わしは気長に待った。最後だし、他にはもう行くあてもない。

 しばらくして、扉が開いた。出てきたのは小さな子ども二人、女の子だった。

「こんにちは」

「・・・」

「お父さんはいますか?」

「・・」

「お母さんは?」

「・・」

「私はイリヤ。あなたのお名前は?」

「わたしはマーガレット」

「お隣の可愛い子のお名前は?」

「わたし、ネリア」

「素敵な名前だね」

「・・」

 私は想い出した。この二人はアクセリの子どもたちだ。驚いた、良かった。誰かが面倒を見てくれているんだ。アクセリ良かったな・・。

「それで、大人の人は誰かいる?他の人は?」

「・・誰もいないよ、他には」

「・・」

 どうしたのだろう?どうすればいいのだろう?わしは誰と話をすればよいのだろう・・。わしは困ってしまった。すると、

「おい、こらっ。誰だ、マーガレット。知らない人と口を聞いてはいけないと言ったろ」

「いや、すまない・・。訪ねたい人がいたのでね。そんなに怒らないで。悪いのは私なのだからね」

 この少年は長男のアフェドラなのだろうか?手も足も泥んこだ。遊んできたのだろうか・・。

「・・君はアフェドラかい?」

「ああ、そうだけど・・」

「私は君のお父さんから頼まれてきたのだけれど・・」

「親父から・・。父さんは生きているの?死んでしまったの?」

 大きな目、ブルーの瞳、しっかりした身体、アクセリと同じちぢれた髪。アクセリが子どもの頃は、こんなだったのであろう。逞しい。アクセリが長男は一四歳だといっていたのを想い出した。

「マーガレット、椅子を出して。父さんのお客様だ。」

「私の名は、イリヤ・ヘイネン。お父さんと軍隊で一緒だった」

「・・」

「アフェドラ、マーガレット、ネリア。お父さんからの預かりものを届けに来たよ。アフェドラには指輪。マーガレットにはイヤリング。ネリアにはブレスレットだよ。そしてパパとママの写真だよ」

「わあ、ママ、ママ・・」

「ママ、キレイだね」

「ブレスレットとイヤリングにママの名まえが彫ってあるよ」

「指輪にはママとパパの名前だ」

「わあ、わあ。ありがとう」

 私は肝心な事をまだ話せないでいた。慌てず、ゆっくりとアフェドラから質問が出るのを待ち続けていた。

「イリヤさん、本当にありがとうございました。家にはママとパパの写真がありませんでした。この写真の裏には『愛する君たちへ〈生命は永遠(とわ)に続く。想えばいつもそばにいる〉アクセリとイキシアより』こんなことが書いてあります。とても感謝します」

 彼はそれ以上は何も訊ねてこなかった。わしは言葉を失ってしまった。

「アフェドラ、君たちの面倒を見てくれている人はどこにいるの?話したいことがあるのだけれど」

「僕たち以外は誰もいません」

「誰が君たちの面倒をみているの?」

「僕が妹二人の面倒をみています」

「・・どうやって?」

「花を売っています」

「庭に置いてあるポットのこと?」

「そうです。台車にポットを乗せて売っています。花売りです」

「それで生活しているの?」

「はい」

 わしは唖然とした。

 わずか一四歳である。小さな妹二人を養い生活をしている。このままでよいのだろうか?困ることはないのだろうか?

「一個、五〇セントです。多い時は一日に二〇個ぐらい売れることもあります。評判も良いのですよ。イリヤさん、そんな深刻な顔をしないで下さい。大丈夫です。心配しないでください。僕は父と約束しました。心配しないでほしい。信じてほしい僕を。頑張れるから安心してほしいと約束しました。そしたら、父は信じてくれました。だから僕は信じてくれた父を信じています」

 確かアクセリは、わしを信じていると言った。信じてもらっても何も保証がないのに、信じてくれた。アクセリ、子どもたちも君を信じているんだね。わしも君を信じた、だからここに来れたのだ。

「花を作るのは大変じゃあないのかい?」

「うん。でもね、種の選び方、取り方、土の選び方、植物の知識と技術はママから学んだ。ママの名前は六月に生まれたので〈イキシア〉という花の名前さ。意味は〈融和〉。僕たちの名前を付けてくれたのはパパさ。十一月に生まれた僕の名前アフェドラは〈希望〉。四月に生まれたマーガレットは〈未来・予言〉。十月に生まれたネリアは〈聡明〉と、みんな誕生花が名まえにつけられているんだ。」

「そう、素敵なママとパパだったんだね。叔父さんも君たちぐらいの時に両親がいなくなった。だがね、今でも忘れることができない・・。想い出すと胸が痛みとても苦しい・・。こんなこと聞くのは失礼だと思うのだけど、私に教えてくれないか、アフェドラ・・君たちの強さと明るさを・・」

 

「本音を言えば、そばにパパやママがいないのは寂しいよ。仕事もきついし、土は重い。良い土を探しに一人で山道を歩く。今日何も売れなければ妹たちを養えない・・。正直、どうしたらよいか分からない時がある。でもね、そんな時こそ僕はママやパパに語りかけるんだ。パパ、元気ですか?ママどうしているの?僕は頑張っているよ。パパとの約束を守っているよ。妹たちを必ず幸せにするよ。だから心配しないでねって。するとね、必ず返事が来るのさ」

「アフェドラ、お前は偉いぞ。さすが俺の息子だ。ありがとう、愛している」

「アフエドラ、ママよ。ごめんなさい。妹たちをありがとう、愛しているよ」

「ママ、この花苗はどうしたらいいの?」

「あまり水をあげたら駄目よ。日差しが強い時も駄目。タイミングは花びらを見てあげて、水が欲しい時は花が合図をするからね」

「パパ、もう少し楽に土を運ぶにはどうしたらいいの?」

「少し水を入れて土団子にしなさい。ころころとするが楽しいよ。いっぱい運べば良いとはいえないよ。良い土を選ばないとね。タイヤは少し大きいのにしなさい、小さいタイヤは泥濘に弱い。お金を稼いだらヤギを飼い、手伝わせなさい。乳がいっぱい出るヤギがいいぞ・・」

「パパ、パパに逢いたい・・」

「いつも、いつも、そばにいるぞ」

「ママも一緒にいるのよ。目を瞑り私たちを想い浮かべてごらんなさい。そしてね、話しかけて。私たちは必ず答えるから」

「僕は、毎日何回も何回もパパとママに声をかけて話し合っている。一緒に空を見上げたり、雲を見たり、きれいな花をみつけたら話しかけたり。目を瞑ると幸せそうなパパとママの姿が浮かぶ。もう何千回逢ったかわからないくらい・・」

 

「ありがとう・・アフェドラ。良い事を教えてくれてありがとう。私もこれから父と母に話しかけてみるよ。逢いたい、みんなに・・君のパパのアクセリにも」

「イリヤ叔父さん。早くお兄さんと妹さんに逢いに行ってあげて。きっと叔父さんを信じて待っているよ。僕たちと同じように仲良く三人で力を合わせてね」

 

 ありがとう・・。わしは最後の旅でつくづくと想ったものだ。。

 人は死なない、死んだりしない。この世も、あの世もない。あるのは同じ世界だけだ。人は永遠に生き続ける。それをみんながわしに教えてくれた。教わる、教えるというのは、小さな子どもでもお年寄りでも一切関係ない。わしは出合うすべての事柄から学んでいるような気がした。

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 こうしてわしの長い旅が終わりを告げた。

 アフェドラと妹たちは、わしの車が見えなくなるまで手をふり続けてくれた。彼らに祝福を、彼らを讃えてほしい。彼らにいま以上の恵みと幸せを祈る。わしは相棒のオンボロ車に頑張った感謝を込めて、約束通り名前を付けてやることにした。

 それは、あの少年と同じ名まえ〈アフェドラ(希望)〉だった。

 

「アフェドラ、お前も十一月月生まれだし、ちょうどよいだろう?」

 車のエンジン音が鳴きだした。

「キイ、キイ、キュルル」

「おい、アフェドラ、嬉しいかい?」

「キイ・・」

「おい、お前も返事が出来るのか・・」

「おい、アフェドラ。これからもよろしくな」

「バスン、バスン・・スコン、スコン」

 アフェドラは排気口から返事をした。

 煙まみれのまま、これからまた、はじまりの旅に出かけるのだ。

 

 車のラジオからはわしの好きな歌〈グリーン・フリーブス〉が流れ出していた。

 

 

ああ、愛するあなたは、とても残酷な人

ああ、愛するあなたは、私をおいて行った

 

私は愛するあなたを、心から想い

あなたのそばにいるだけで幸せでした。

 

グリーンスリーブスは、私の喜び

グリーンスリーブスは、私の楽しみ

グリーンスリーブスは私の魂そのもの

私のグリーンスリーブス、

愛するあなた以外に誰もいない

 

あなたは誓いを破った、私の心のように

 

ああ、あなたはなぜ私をそれほどまでに夢中にさせるのか

遠く離れたところにいる今でさえ、

私の心はあなたのところ

 

私はあなたが望むならすべてをあげる

あなたの愛が得られるならば

あなたにこの命も土地もすべてあげる

 

たとえあなたが私を軽蔑しても

私の心はあなたのところ

 

私の家族はすべて緑に身を包み、あなたに仕えてきた

だが、あなたの声は聞こえない

 

あなたは何も求めない、何も望まない

でも、あなたは私に望む

あなたの自然の美しい曲は今も響きわたる

でも、あなたの声は聞こえない

 

天高く、私は神に祈る

あなたが私の愛に気づき、

私がこの世を去る時には愛してくれることを

 

ああ、グリーンスリーブスよ

さようなら

私は神に祈ります

私はあなたの愛する人

もう一度逢いたい、もう一度愛したい

   「グリーンスリーブス」創訳coucou

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その九 贈り物

 

「なあ、ヘルヴィ。君は神を信じるかい?」

 突然、イリヤはそんなことを問いかけてきた。私は神さまなど信じていない。もし、神さまがいるのなら、この世界に悲しみや争いなど一切起こらないはずだ。それに、私の父さんが死ぬときに「神さま、私の寿命を差し上げますから、父をもう少しだけ生かしてください・・」と祈った。でも叶えてもらえなかった。

「イリヤ爺さん、私は信じませんよ。神さまなんて、人間が勝手につくったものだから、私は信じない」

「そうか、実はわしも長いことそう思っていた。これまでに起きた悲惨な出来事は、とても神の御業とは思えんからな。じゃが、何か見えない力が存在しているとは感じてきた」

「イリヤ爺さん、そんなことより、やっと探しに行けることになった兄さんや妹さんは、どうなったのです?」

「おお、ヘルヴィ。まだわしの話を聞いてくれるのか・・。つまらない話だろ、年寄りの昔話なんて・・」

「つまらなくありませんよ。私には理解できないことばかりだけれど、イリヤは偉いと思いますよ」

「ほほっ。そうか、そうか。君はわしを誉めてくれるのか。わしは、あまり人から誉められたことがないから、嬉しいなあ。誉められるというのは、こんなに心地よいものなのか・・。わしは、いつも人に誉められたいとは思っていたがね。まさか、この歳になって若い人から褒められるなんて、ちょっと照れてしまうなあ」

 イリヤは、そんな他愛のないことで、すごく喜んだ。そんなイリヤを見ていると、私は不思議な感情に自分が包まれていくのを感じていた。

 

 

「おい、アフェドラ。次の町までぶっ飛ばせ。そこで電話を探すんだ。大使館に何か連絡があったかもしれない。いいか、アフェドラ、それまで耐えてくれ、頼んだぞ」

「バスン、バスン。ブオー、ブオー」

 アフェドラは快調なエンジン音を鳴らし、わしの気持ちに応えようとしてくれていた。

 

 もし車がなかったら、三日はかかる道程だ。さあ、戻るぞ。その後もアフェドラが頑張ってくれたおかげで、たった一日半で首都ヘルシンキにあるヨエンスーという目的の町に着くことができた。

 この町は人が多かった。露店には新鮮な野菜や果物、肉などが陳列されていて、ずいぶんと賑やかな街だった。あちらこちらの建物の多くが、戦争の傷跡を残していたが、人々の活気には驚いた。わしはガソリンスタンドを見つけ、大使館に電話をした。取次から大使館へつながるまでに、だいぶ時間を要した。

「もしもし、もしもし、聞こえますか?」

「聞こえます」

「イリヤ・ヘイネンさんですか?」

「そうです」

「よかった・・。やっと連絡をいただけましたね」

「で、どうでした?」

「見つかったのですよ、やっと。もう一度確認しますが、あなたのお兄さんの名前はヘルマン・ヘイネン、妹さんの名前はハンナ・ヘイネンさんですよね?」

「そうです」

「あなたのご兄妹は、一日も早くあなたに逢いたがっています」

「そうですか・・・」

「これから、私が住所を言いますので、あなたはそこへ向かってください。電話はないそうですので、こちらの大使館が中継します。ですからマメに連絡をください。よかったですね、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます・・ほんとうに、ありがとうございます」

 応えながら、わしの受話器を持つ手が震えていた。もう二人ともこの世を去ってしまったのではないか、わしはもう一人ぼっちなのではないかと、内心では諦めかけていた。だが、生きていた。ヘルマン兄さん、ハンナ。やっと、やっと逢える。この時、わしは初めて神に心から感謝した。神さまからの贈り物だと信じた。わしは二十五歳になっていた。

 

 

「おい、アフェドラ、元気か?どうだ、まだ一緒に走れるか?オイルも入れたし、ファンベルトも交換した。お前のためにタイヤもふんぱつしてやったぞ。それにお前のボディをきれいに洗ってやったぞ。少しは感謝しろ。あと三千キロぐらいで旅が終わる。最後の旅だ。それまで頑張れるかい・・?」

「プスン、プスン・・」

「何、自信がないだと?」

「プスン」

「そうか、最後の旅といったから寂しいのか?」

「プスン」

「はははっ。目的地に着いたらな、お前にはお礼として新しいエンジンを交換してやる。どうだ?お前は若返るんだ。アフェドラ、お前も人生を新しくやり直せばいい、私と一緒にな。お前は私の親友だ」

「プスン」

「はははっ。親友という意味がわかるか、アフェドラ。親友というのは、親しい友だちじゃあない。〈親のような友達〉、つまり親のように大切な友達という意味だよ。名誉なことだろう。さあ、出発しよう」

「ブオン、ブオン、ブブオー」

 

 これまでいくつの山を越えてきただろう。それを思えば、これから先は、わずか三千キロの旅だ。なんてことはない。幾つもの朝と、幾つもの夜を越えたのだ。どれほどの太陽と月と星を見ただろう。わしとアフェドラは、まっしぐらに走り続けた。話し相手に不足はない。親友のアフェドラとカーラジオさえあれば。

 

 道中、公衆電話を見つけるたびに、わしは大使館に電話を入れた。

 

 

 やがて兄と妹がいるという町に着いた。

 人伝えにたどり着いた場所は小屋だった。扉の前に立つと、わしの胸は高鳴った。あれから十年近く過ぎていた。ハンナはまだ幼かったから、覚えているだろうか?

 何もかも、わしははっきりと覚えていた。父や母は仕事に追われ、兄は病気だったから、わしは幼いハンナをおんぶしたり、遊んでやったりした。二人とも無事でよかった。これは神さまからのご褒美、贈り物だ。

 

「失礼します。イリヤ・ヘイヘイネンです。ハンナ?ヘルマン兄さん?帰ってきましたよ」

「・・・」

 何だろう?この静けさは。今日、わしが来るということは伝わっているはずだった。

「おーい、おーい。イリヤ、イリヤ・・」

 どこかから、かすかにわしを呼ぶ声が聞こえてきた。ヘルマン兄さんの声だ。

「おーい、ここだ。ここだよ、来てくれ・・」

 わしは扉を開け、その声の方に向かった。小屋は畑仕事の作業場なのだろう。土間の周りには、乾燥した麦の束が置かれていた。声は一番奥の部屋から聞こえてくる。扉は開いたままで、ベッドに横たわる人の影が見えた。

 兄さんだ、兄さんがいる。

「おお、おお、イリヤ、イリヤだね・・」

 わずか十年、あの頃の兄の姿ではなかった。頬はこけ、やせ細った身体は骨と皮だけだった。わしの目の前には、骸骨のような老人のような兄がベットに横たわっていた。まだ二十六歳だというのに・・。

「ヘルマン兄さん・・」

「イリヤ・・生きていたか?母さんは死んじまったぞ」

「知っている。兄さんは無事だったんだね。ハンナはどこ?」

「ハンナは元気だ。近所の農家で働いている。牛の世話をしているんだよ。俺はこのざまだよ。病気が少し良くなったと思ったら、またぶり返す。腎臓病だ・・」

 わしはこの時、再会の感動はもちろんあったが、兄の変わり果てた姿を前に涙も出なかった。兄の笑顔がそうさせたのだ。兄は必死に元気さをよそおい、心配かけぬようにと振る舞っていたからだ。そしてベッドに横たわる兄の姿はあまりにも惨すぎた。こんな状態でよくぞ生きていた、生きていてくれた。わしはただ一心にそう思うしかなかった。

 そこへ仕事を終えたスカイが戻ってきた。兄と同じように痩せてはいたが、ハンナの目はしっかりとしていた。母の目と同じだった。ずいぶんと大人になった・・。

「ただいま、兄さん。あ・・イリヤ?イリヤ兄さんね?大使館から連絡があって、そろそろ着く頃かと思っていたの。無事に着いたのね。畑でずっと着くのを待っていたのに、いつのまに。ああ、とても元気そうね。良かった。これでみんな一緒に暮らせるのね・・」

 ハンナは嬉しそうに泣きだしていた。

「・・ただいま。あら、イリヤさん?イリヤさんなのね。初めまして、セリアです。セリア・ヘイネンです」

「もしかして・・義姉さん・・ですか?ヘルマン兄さんは結婚していたのか。そうか」

「イリヤ。こんな俺だけどセリアは一緒になってくれたんだよ。セリアは美しいだろう?ずっと俺の面倒を見てくれているんだ。昨年、籍を入れた。ハンナのこともよく可愛がってくれている」

 

 祖母が数年前に亡くなり、その葬儀の時に兄とセリアは出会ったという。セリアは優しい女性だった。三人の家族が、いつのまにか四人になっていた。いや、もう一人いる、それはアフェドラだ。よくここまで頑張ったな。ここが旅の終着点になるのだ。もう、お前のエンジンは焼け焦げ、到着と同時に火を噴いてしまった。だが、よく頑張ってくれた。約束通りエンジンを交換してあげよう。

 アフェドラ。

 これからもお前は家族として一緒に生きるのだから・・。

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その十 故国の空


 わしは翌日からこの村で仕事を見つけようと動き始めた。特に夢や希望などなかったが、兄や妹のために生きようと思った。それに兄を病院に入れたかったからだ。もう、考えている暇などなかった。それぐらい生きることに気が急いていた。わしには家族という生きる希望が生まれていのだ。

 

「イリヤ、それで働く場所はすぐに見つかったのですか?」

「いや、農作業の手伝ぐらいしか働くところなどなかった。だが、農作業だけでは生活ができない。そこで空軍基地で働くことにしたんじゃ。そこは占領した相手国の基地さ」

「どうして敵国(ソ連)で働こうとしたのです?」

「働く場所がどこにもなかったからじゃ」

「でも、元フインランド軍人とソ連軍人でしょう?」

「確かにヘルヴィの言う通りだ。ソ連は多くの仲間が殺された敵国だ。だがわしは、病気の兄を何としてでも病院に入れて治療を受けさせたかったんじゃよ」

 

 戦後間もない荒れ果てた国に仕事はなかった。農業を始めるのにも資金がいる。それに父や母は、あれだけ働いた農業で生活ができなかったことを知っている。もう、あんな事をくり返すことはできない。わしは、是が非でも家族を養うぐらいの収入が欲しかった。わしの持っている技術、それは車の整備技術だ。そして大型トラックからブルドーザー、特殊車両なども運転できることだった。わしは人々に非難されようが、お金のために敵国の飛行場で働くことにした。人から汚い言葉を浴びせかけられても、どんなに非難されようとも、わしの信念は変わることがなかった。確かにわしは、はたから観れば裏切り者に見えただろう。それでもわしは兄を病院に入れたかった。家族を助けたかったのだ。

 案の定、人手の足りない軍隊では、わしのように技術を持った者は重宝がられ、すぐに働くことができた。心の中では戦友たちに申し訳ないという気持ちはあったが、必ず許してくれるだろうと思った。こうしなければ生きられなかったのだ。

 やつらだって注意はしていただろう。なんせわしは、元敵兵だったのだから。戦争が終わったといっても、巷ではまだまだ争いごとが絶えなかった。わしは全力で一生懸命に働いた。昼間は基地内での運送や車輛移動の仕事。夜は英語やロシア語の勉強をした。わしも元軍人である。言葉が話せないために同僚たちから馬鹿にされることが悔しかった。言葉が話せるようになれば、馬鹿にされることがなくなると思って猛勉強したんだ。わしはこうして、敵国の軍事基地で整備専属のサラリーマンとなった。

 仕事はとても大変だったが、辛くはなかった。こんなわしでも必要とされることは嬉しい事だった。それに兄と妹と一緒に暮らせることが一番の幸福だったからだ。どんな状況でも幸せを感じることはできる。そして、このフィンランドの大地をわしはこよなく愛していたのだ。

 

 フィンランドには四季がある。ロシアより寒い国だが、一年中凍てついている訳じゃあない。長く厳しい冬を越えてやってくる雪解けの春を待つ気持ちは、なんとも表しがたいものだ。根雪の間から小さな花の芽をみつけたときはワクワクしたものだ。フィンランド人は、草木が芽吹き、鳥たちがさえずる季節を誰もが楽しみにしている。

 春と初夏はほとんど同時にやってきて、あっという間に去っていく。フィンランド北部は夏になると、太陽の沈まない夜〈白夜〉が七三日間も続く。この季節は子どもたちが一番楽しい時だ。長かった冬を忘れさせるかのように、外はいつまでも明るく、ついつい夜中まで遊んでしまう。気がついたらたら夜中だった、なんてことはしょっちゅうある。。

 秋になると、森にはたくさんのベリーが実る。野イチゴ、ラズベリー、ブルーベリー、コケモモ、クランベリー、ブラックベリー、ワイルドベリーなど種類もたくさんだ。紅葉の進む森の中を歩くと、赤や黄色、紫のベリーが顔をだして楽しませてくれた。春も秋も短いが、実に嬉しい季節だ。

 わしの故郷は、白銀の大地に広がるオーロラの美しさで有名なラップランドというところだ。ここでの戦争も悲惨だったが、ロヴァ二エミは、世界中の子どもたちから愛されているサンタクロースが住んでいた場所だ。ロヴァニエミの風景は、多くの芸術家にも影響を与えた。美しい湖と壮大な山々が眺められる土地だ。北カレリア地方(北極圏)には、「森と湖の国」と言う名に相応しい風景が残っている。ここは父と母の想い出の地だ。

 

 一九三九年に発生したソビエト連邦からの侵略(冬戦争)で、フィンランドはカレリア地方を喪失した。その後、一九四一年にソ連との継続戦争が起こり、一九四四年には、モスクワ休戦協定を結びフィンランドは敗戦国となり、一九四七年のパリ条約で講和した。翌一九四八年にフィンランドはソ連と友好相互援助条約を締結し、事実上の同盟国となった。

 

 

「イリヤ、ロヴァニエミにはサンタクロースがほんとうに住んでいたのですか?」

「ああ、昔からそう言われている。わしが子どもの頃、父がその話をよくしてくれた。わしは確かなことはわからんが、あのロヴァ二ミエの美しい大自然がその証拠さ」

 

 そう、美しい大自然が我が故国だ。いずれ、敵国とも平和協定を結ぶ時が必ず来るはずだ。わしは、その時に兄と妹を連れて故郷に帰るのが目標となっていた。

 

 一九四七年、わしは三十才になった。

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その十一 ふたたび生きる

 

 基地に勤務してから五年近くが過ぎた。噂では、もうすぐ基地が返還されると聞く。やっと独立国に戻れる。国民がみな心を躍らせていた時だった。兄のヘルマンの病状も少しずつ回復したので、少しばかり強引ではあったが、わしは兄に基地での警備員の仕事を紹介した。その頃、妹は洗濯屋の跡取りに嫁いでいた。義姉のセリアも内職や食堂の皿洗いをして働いていた。兄は敵国の基地で働くことは、割り切れない思いだっただろう。が、社会に出て働くことも必要だし、何よりもわしは、我が国の独立を兄と一緒に立ち合いたかったのだ。

 わしはロシア語、英語が話せるようになっており、簡単な通訳などもしていた。

 

 基地で働き出して間もない頃から、わしは勤務先のそばにある喫茶店にコーヒーをよく飲みに行っていた。本当はコーヒーよりお茶が好きなのだが、そこにはウェイトレスをしている物静かな女性がいた。彼女が目当てでもあった。まだ二十代の女性だ。

 その女性は、若い時の母に似ていた。まるで生き写しかのように。また軍隊時代の女医タイナにも似ていた。わしはソ連軍のユニホームを着ていたから、初めは用心されたようだが、すぐに打ち解けてくれた。彼女の名はマーラという。

「私と結婚してくれませんか?」

「・・・」

 返事がないことを了承と勘違いしたわしは、婚姻届を持参して彼女にサインをもらい、すぐに役所に届けた。

 七月七日の母の命日に、結婚式も挙げず、わしらは一緒になった。

「おかしいだろ?ヘルヴィ」

「そうですね・・」

「わしはもし相手が嫌だったら、婚姻届にサインなどしないだろうし、たとえ返事がなくとも、その意志があると思ったんだよ。嫌なら一緒にならなければいい・・とね」

「でも、ずいぶん強引ですよね」

「いやあ、時代がそうさせたんだよ」

「その事では何も言わなかったのですか、マーラさんは・・」

「そうじゃ。彼女はあえて何も言わなかった。最初はとても物静かな女性だと思っていたんだが、やがて子どもが生まれると、だんだんに強くなった。女は変わるもんじゃよ。出会った頃の面影など、すぐになくなったなあ」

 

 確かに、わしは強引だった。だが、わしにも家族ができたんだ。アフェドラを入れると、家族が六人となった。これほどの感動はない。妹は嫁いぎ、兄も働けるようになった。次は、わしの家族を作るんだ。戦争のない時代、家族が離ればなれにならない時代になる。だから祖父や父が出来なかった家族を、わしはこの地に作るんだ。それが三十代になったわしの大目標だったからな。もしかすると、この幸せはサンタクロースからの贈り物かもしれないなあ・・。

 

「運命とは不思議なものじゃ。ある時、わしはマーラのいる店で新聞を読んでいた。その記事に〈ヘイノ・コイヴ〉の名前が載っていた。まさかと思って読んでいたら、一九五二年にヘルシンキで開催される第十五回夏季オリンピックの選手として、彼の名前が挙がっていたんじゃ」

「えっ、あのヘイノ先輩ですか?生きていたのですか?」

「わしは、もしかすると、いや絶対に間違いないと感じた。彼はマラソン選手として、三十五歳の年齢で銅メダルを獲得したのじゃ。銅メダルが珍しいのではなく、三十五歳という年齢でメダルを取ったという事で報道されていたんじゃ」

「ヘイノさんは、元々マラソン選手だったのですか?」

「そうだ。わしは彼から走ることを教わった。『苦しくなったら走れ、悲しくなったら走れ。走れば何もかも忘れ、何よりも健康、元気になるから』と、彼はいつも言っていた。だからわしも走った。嫌な事も、辛い事も、走ることで何もかも忘れた」

 わしはヘイノ先輩に会うために、あらゆる手段を使った。問い合わせた新聞社では、住所を教える事ができないと言われたから、わしは毎日の新聞を注意深く読んだ。すると、彼が練習で走るコースなどが紹介されていた。わしは彼の走る周辺の学校やスポーツ施設、市役所などに手紙を送って、その手紙を彼に届けてくれるよう頼んだ。しかし誰からも返事が来ないので、以前世話になった大使館に連絡をしたら、わしの手紙をヘイノ先輩へ届けてくれたのだ。

 そして、いよいよヘルシンキで再会することになった。

 わしは妻となったマーラを連れて行った。結婚式もなかったが、この時がわしらの新婚旅行だったかもしれない。

 オンボロ車のアフェドラにも飯を一杯食わせて出発した。

「嬉しいなあ、アフエドラ。お前も嬉しいかい?さあ、また旅に出かけるぞ」

「ブオン、ブオン」

 久しぶりの長距離だ。アフェドラのエンジンも快調だ。

 フィンランドの首都ヘルシンキは最大の都市である。また最大の貿易港でもある。明色の花岩石で作られた建物が多く、「北の白都」とも言われている。幸いにして、雪のない夏である。どこにも出向いたことのないマーラにとっては初めての旅である。この町に二日かけて到着した。ヘイノ先輩とはヘルシンキ空港のそばで待ち合わせした。マーラには気づかれたかもしれないが、わしは異常に興奮していた。

 前方から走り寄る人がいた・・。

「おい、イリヤ、イリヤだろ。俺だ、ヘイノだ・・」

「・・・」

「泣くな、イリヤ」

「はい、先輩。よくご無事で。新聞で先輩の活躍を知りました」

「ははっ。俺は死なないよ。お前だって無事に生きているじゃあないか」

「はい、あれから二十年近い年月です。私は一生懸命に生きてきました。ここにいるのは、妻のマーラです」

 わしは今までの事のすべてをヘイノ先輩に話しまくった。後でふり返れば、おかしいほどの想いが噴き出していた。彼は静かに聞いてくれた。わしが人生で一番苦しかった時、助けてくれて支えてくれた先輩だ。彼はわしの話を聞いて涙を流してくれた。生きていてくれて本当にありがとうと、わしは感謝でいっぱいだった。

「イリヤ、俺はな。戦争中でも走り続けていた。敵陣をすり抜けて伝令を届けたり、物資を運んだりしていた。同胞たちのほとんど全滅してしまい、俺だけが生き残った。何度も何度も死ぬことを考えた。俺が死んでも悲しむ者はいない。むしろ死んだら、死んだ父さんや母さんに逢いに行ける・・そう考えた。何で俺だけが生き残ったのだと思う?」

「運が良かったのだと思います」

「運ならいいさ。俺は足を撃たれて病院に入れらた。戦争が終わると本国に帰された。こんな切ない終わり方はないさ。戦えない苦しさ、同胞が次々と戦死し、俺の代わりに物資や伝令を運ぶ者がいない。こんなのは惨めさ」

「・・先輩」

「しばらくは悲観し続けたが、ある時、同胞たちのためにもう一度走る決心をした。戦争が終わってから、また走るようになった。だが、その足は以前のように動いてはくれなかった。走れば足が痛くて、痛くてしょうがない。夜になると足が熱を持ち眠れなくなる。それでも走る。そんな時にオリンピックの話を聞いたんだ。よし、もう一度走ってやる。そう決心した。丁度お前が巡礼に出向いている頃に、俺は何年も走り続けていた。これが戦友たちへの詫びと生きている俺の使命だと感じた。だから何年もの間、走りながらみなに語りかけていた。イリヤ、君へもだ。その声が聞こえただろうか?この数年間、誰の声かわからないが、俺はずっと自分に語りかけてくる声を感じていた。」

「先輩、よく頑張りましね」

「誰もが無理だと言った。オリンピック選考委員会でも無理だと言われた。それはそうだろう、歩くときは足を引きずっているんだから。それに若い選手がいっぱいいる訳だし、三十五歳の年寄りの出る幕ではないというのがほとんどの見解だった。だが、俺は走った。狂ったように走り続けタイムを縮めた。様々な大会を総なめにした。オリンピックは残念ながら銅メダルだったけど、三十五歳の俺を、戦後の人々に見てほしかった。この俺の両足には、多くの戦友の想いが刻まれているのだと・・」

 

(さすが私の先輩、私の先生だ。私の巡礼の旅も間違えていなかった。先輩の走りが私の旅だった。)

 

「イリヤ。少し走ろうか?」

「えっ・・」

「奥さん、少しだけ待っててくださいね。二人で走りたいのでイリヤを貸してください」

 マーラをアフェドラに任せて、わしは先輩と走ることになった。

「ハァ、ハァ、フウ。ハァ、ハァ、フウ」

「ハァ、ハァ、フウ。ハァ、ハァ、フウ」

「・・どうだ俺の教えた呼吸法を覚えているか」

「ハァ、はい」

特に言葉はない。

「ハァ、ハァ、フウ。ハァ、ハァ、フウ」

「ハァ、ハァ、フウ。ハァ、ハァ、フウ」

 そうだ、この音、この二部呼吸だ。これは先輩から教わった走る呼吸法だ。この走りでわしも走り続けていた。ちゃんと身体は覚えていた。基地でのマラソン大会でわしは一位優勝を続けていた。馬鹿にしていた敵兵たちもわしに一目を置くようになったのは、先輩から教わった走り方と呼吸法のおかげだった。それ以来、馬鹿にされなくなった。しかし、現役のオリンピックの選手と走るのだから勝てるわけがないし、もうこれ以上は無理だ・・。

「ハァ、ハァ、フウ。ハァ、ハァ、フウ」

 よく考えてみたら、わしは自分の話したいことのすべてを話したが、先輩の話は聞いていなかった。今、先輩は何を思っているのだろう・・と、わしは思った。

 先輩の横顔を見た。

 彼は走りながら、鼻水を出しながら泣いていた。言葉はなくともわしにはわかった。悲しい涙じゃあない。わしも涙が溢れ出てきた。この涙は生きている喜びと、再会できた喜びと、死んでいった多くの仲間たちへの感謝の涙だだ、と泣きながらわしは感じていた。わしは先輩に心で話しかけた。

「ヘイノ先輩、助けてくれてありがとう」

「ハァ、ハァ」

「ヘイノ先輩、生きていてくれてありがとう」

「ハァ、ハァ」

「ヘイノ先輩、ごめんなさい」

「ハァ・・」

「ヘイノ先輩、やっと逢えたね・・」

「ハァ・・」

「・・」

「・・」

「ヘイノ先輩、愛している」

「ハァ、ハァ・・」

 段々と距離が離されていく・・先輩の後を走りながら、その後ろ姿には物凄い力強さと光が輝いていた。その光の一粒一粒に、多くの仲間たちがいた。

 

 

 こうしてわしは、再び生きる決心をした。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

ありがとうの風

 

そこで泣かないでください  

わたしはそこにはいません。

悲しんだり、寂しがったりしていません。

 

わたしは幾千の風のなかで

静かに、静かに舞い散る雪と

とても優しい雨の滴と

たわわに実る麦畑と          

朝の静けさの中にいます。

                    

わたしは幾千の風のなかで

美しく飛び回る優雅な鳥たちのなかに

美しく夜空を照らす星の光のなかに

 

わたしは幾千の風のなかで

美しく開く花々のなかに

あなたの静かな部屋の中にもいます。

美しい飛び回る鳥たちのなかにも

美しいものすべてのなかにいます。

 

だから、

そこで泣かないでください  

わたしはそこにはいません。

悲しんだり、寂しがったりしていません。

 

だから、

そこで泣かないでください  

わたしはそこにはいません。

悲しんだり、寂しがったりしていません。

 

わたしは死んでなんかいません。

わたしはいつも、あなたのそばにいます。

 

作者MARY E.FRYE(マリー・E・フライ)創訳 coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

その十二 誕生

 

「イリヤ爺さんは、ようやく幸せをつかんだんですね」

「そうじゃ。わしのような人生でもこんな時が一度ぐらいあってもよいだろう。わしはいつのまにか三五歳になっていた。一九五四年、長男のライトが誕生。数年経って次男セイントが生まれた。人は遅い子どもだと冷やかすが、忙しくてそれどころじゃあなかった。働いて、働いて、働きまくり、お金を稼いでいたんだ。息子たちが生まれた日は、わしの祝祭日だ。わしの大好きなブランディと豆が最高の御馳走だ。それにチーズがあればいい。マーラは酒が呑めないから、よくジュースで乾杯したものじゃ」

「一九五四年といったら、私が生まれた年じゃあないか?じゃあ、イリヤのお子さんは私と同級生ですね。へへえ、不思議だなあ。それにイリヤは私の父と同じ一九九九年生まれだ。これも何かのめぐり合わせかもしれませんね」

「・・」

イリヤは急に押し黙った。

「イリヤ、どうしたのですか?息子さんたちは元気なの?何かあったのですか?」

「息子たちは今でも元気じゃよ・・」

イリヤが急に元気がなくなった。

「いやあね。想い出しちまったんじゃ・・」

「何を?」

「わしが九四歳、長男は六十歳。次男は五十六歳。ずいぶんと長く生きてきたなあ・・」

「・・よかったじゃありませんか。私の父ももっと、もっと生きて欲しかったですよ・・」

「そんなに長く生きてもらってどうする?わしの兄も妹も、親戚も、友達たちもほとんどがこの世を去って行った・・。マーラも先輩のヘイノも死んでしまった。もう、わし一人きりじゃ・・。もうこの世には何も未練などない。何よりも生きている必要がないような気がするんじゃよ・・」

「そんなことはないですよ。息子さんたちだってイリヤを愛しているはずです。イリヤだって子どもたちを愛しているはず・・」

「じゃがのう・・。もうこれ以上心配をかけたり、世話をかけたり、面倒を見てもらうのが申し訳ないと思うんだ。それに段々動けなくなってきた・・」

「何言っているんですか。百歳まで頑張るんですよ。百二十年以上生きている人だっているんだ。イリヤもその記録保持者になりなさいよ。私も応援しますよ」

「ありがとう・・だがのう。最近は目が衰え、耳が遠くなり、手足が動かなくなってきた。自分の力で立ち上がれないし、トイレも自分でできない。伝えたいことは沢山あるのだが、上手く伝えられん。皆の足手まといになっているような気がする。何と言っても、歳を取るというのは初めての体験じゃからのう。自分の父や母は若いまま死んでしまったので、人が歳を取るということがよくわからんのじゃ」

「ははっ。イリヤ。そんなに落ち込まなくともいいんですよ。誰もが同じさ。今、イリヤはそれを体験しているんじゃあないですか。その姿を息子さんたちに見せる事も大切な仕事ですよ」

「確かに、そうかもしれん。だがなあ、介護する者も大変じゃが、介護される者も気を使い、いつも申し訳なく思っているんじゃ・・」

「・・・」

 

 私は父を想い出した。父も似たようなことを言っていた。いつも、すまない、申し訳ない、と。でも私と弟は二人とも仕事をしながらの介護だったけれど、そんな事は当たり前だと考えていた。まだまだ私たちのために生きてほしい、生き続けてほしいと思っていた。一日でも、一週間でも長く生きていてほしい。父が生きているだけで私たちは支えられていた。私たちは守られていると感じていた。イリヤはまるで私たち親子と同じような状況だった。

「イリヤ。そんな事は気にしないで。『申し訳ない』とか、『すまない』なんて考えてはいけないと思う。みんなイリヤには感謝しているのだから。だから、そう思うときは、『ありがとう』『感謝しているよ』と言うようにしたらどうだろう。お互いが嬉しいと思いますよ」

「そうかあ、『ありがとう』と言えばいいな・・」

「そうですよ。イリヤ、元気を出して。誰もが歳を重ねるのだから。ところでイリヤ、息子さんたちが誕生してから、それから、どうしたんです?」

「・・・・」

 イリヤはまた押し黙った。私は何かいけないことを言ってしまったのだろうか?気に障ったのだろうか?何か傷つけてしまったのだろうか?長い沈黙が続いた。

「イリヤ、調子でも悪いの?」

「・・・」

 イリヤは泣いていた。

「ヘルヴィ。もう、これ以上は話せない。話すことが出来なくなった・・」

「いいですよ、無理しなくとも。人は誰でも話したくない事はありますからね」

「ありがとう、ヘルヴィ・・」

こうして、私はイリヤの三十五歳からの人生は聞けなくなってしまった。

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その十三 ヘルヴィの話

 

「ところでヘルヴィ。ここで少し君の話を聞かせてくれないか?」

「私の話ですか?」

「そうじゃ。わしの話は沢山聞いてもらった。今度はヘルヴィ、あんたの話を聞かせておくれ」

「・・」

 そうだ、私は今、深い悲しみの中にいたのだ。イリヤの話を聞いていたらすべて忘れていた。そうだ、私の胸の中は悲しみでいっぱいだったはずだ。イリヤと話していたら、まるでこの世から消えてしまった父と話をしているかのような錯覚に陥っていた。

 私の父は九十四歳で死んでしまった。性格に言うと、九十四歳と十一日間生きた。それは誕生日まで一応元気だったからだ。最後の誕生日は私と弟の子どもたち全員が集まった。

 父は九十歳近くまで車を運転し、九十三歳で免許を更新した。もう車に乗るのは危険だと、家族皆が思っていた。高齢だから、更新は出来ないだろうと高もくくっていた。が、実際には実技まで通って見事更新を果たしてしまった。九十歳近くまで車の運転生活をしていたため、感が身についていたのではないかと思う。

 私はイリヤと同じく、父が三十五歳の時に生まれた子どもだ。弟は四十歳近かったのだから、物心がついたとき、同級生の父親と比べると、ずいぶん歳を取っているように感じた。だからか、子どもながらも父のことを心配する場面も多かった。しかし、そんな心配をよそに、父は九十四歳の生涯を全うした。

 父は八十歳を過ぎた頃、心臓病を患い、さらに心臓弁膜症も併発した。若ければ手術で治せたが、高齢になっていた父は投薬での治療しか受けられなかった。

 しかし、その薬の副作用によってふらつきが起こり、父はよく転んだ。その転倒により、脳挫傷や骨折を繰り返し、脳梗塞まで引き起こした。そして、さらなる病気と転倒の繰り返しにより、どんどんと体力や筋力を失っていった。今思えば、もしこのような大病さえ無ければ、まだ元気で百歳現役にチャレンジしていたのかもしれない。

 

 父の人生はまるでイリヤと同じだった。話を聞けば聞くほど似ていた。

 私にはどうしても忘れられない想い出がある。

 私は生まれた時から身体が弱かった。免疫力がないためか、すぐに風邪を拗らせ高熱をだし、両親を慌てさせていたようだ。小さい頃から医者通いのため、やがて薬が効かなくなり、さらに強い薬を与えられた。

 そうしているうちに小学生となったが、腎臓病のため数年間、入院するはめになった。病院生活は恐ろしいものだった。

 

 

 だれか助けて・・。

 

 だれでもいいからこの場所から連れ出してほしい・・。

 

 もし誰も僕を救う人がいなければ、最後に神さま、あなたを信じますから、あの晴れ渡る青空に連れ出してほしい。神さま、もしあなたが本当にいるのなら、僕の願いを叶えてほしい、僕は良い子になる約束をするから・・。

 僕は毎日、毎日、神さまに祈り続けた。

 

 ある日、全身が浮腫み出し、尿から突然出血が起こり、両親に病院の検査に連れて行かれたその日に緊急入院となり、ベッドから身動きできなくなった。病院内では日々薬漬けの生活を送り、絶対安静といわれ、その日から僕の世界は畳一枚分のベットの中だけとなった。病名は腎機能が正常に働かない腎臓病といわれた。

 入院したての頃は、学校の先生やクラスメイトがよく面会に来てくれていたのだが、数か月すれば誰も来なくなった。両親は多額な治療費を捻出するために、夫婦とも昼夜働きに出かけていた。入院したからといって病状は良くなるどころか、悪化の道をたどった。食べ物を食べられなくなり、栄養失調になった。体力も免疫力も失い、すぐに院内感染してしまう。いつのまにか、僕の身体は目玉だけぎょろりとした骸骨のようになってしまった。

 やがて、両手指、両足指が腐りはじめ、膿で膨らみ、ひょうそという病気にかかり、すべての爪を剥ぐ。手術は麻酔で痛くはないが、麻酔が切れてからは地獄の苦しみとなる。それを繰り返す。痛み止めの薬を飲んでも飲みすぎのためか効かなくなる。そして、さらに強い薬を与えられる。日々、様々な薬の調合と副作用により、全身が冒されていった。

 

 僕は、生まれて初めて神さまにお願いをした。

 お父さん、お母さんに逢いたい・・。

 どうせこのまま死んでしまうのなら、外を自分の足で歩きたい・・・。

 神さまが本当にいるのなら、僕を救いに来てください・・。

 

 たまに父や母が交代で来てくれる。父や母がわたしの変わり果てた姿を見て唖然としていた。僕は神さまに良い子になると約束したので、両親の前ではなるべく寂しそうな顔を見せたり、痛そうな顔をしたり、帰りたいという言葉で苦しめてしまうことを止めた。

 だから、いつも笑顔でいるようにしていた・・。

 

 僕は、小学三年生から四年生の間の二年間という長いひとりぼっちの闘病生活を送っていた。

 病院は十二人の相部屋だ。カーテンの仕切りなどない。一番困ったのは、隣のベッドに見舞いに来ている人がいるのに、丸見えのまま便器を使わなければならないことだった。周りには、毎日多くの見舞客が来ていた。この病棟には子どもは僕だけで、周りは皆重症の大人たちだけだった。

 病院生活で一番怖いのは、夜中の患者さんたちのうめき声だった。そして、次々に死んでいく人たちだった。家族の嗚咽、悲しみに包まれて退院する人たち。医師から宣告を受けて驚嘆する家族たち。すべての会話が筒抜け状態だった。

 

 やがて、僕は生まれてきたこと、生きてきたこと、生きていることに罪悪感を持ちはじめた。今までは、死ぬことが怖かったのだが、死ぬことによって父や母が救われるのなら、死ぬことを望んだ。どちらにしろ回復の見込みはないし、病状は酷くなるばかりだったので、早く違う世界に行きたいと願うようになった。

 

 僕は、何も聞いてくれない、叶えてくれない神さまに、

 死なせてほしいと祈るようになりました。

 そうすれば、父や母が楽になると考えたからです。

 僕は自分の存在をこれほど呪ったことはありません。

 

 絶望という言葉など知らない子どもだったが、明日とか、明後日とか、未来や希望などない。たとえ子どもであっても自分の人生を恨み、全否定が出来る。いつのまにか全身の筋力は弱まり、歩行することもできなくなっていた。さらに僕はすべてを否定し、「NO」を自分に突きつけていった。なぜなら、自分以外の誰のせいにもできないからだ。

 

 僕は担任の先生が届けてくれた、オー・ヘンリーの「最後の一葉」という本が大好きだった。毎日病院の窓から眺める枯葉、「あと十枚、あと八枚、あと三枚、あと・・」。すべての葉が落ちる時がこの世を去る時・・。まったくの希望を失った少女ジェシーは、すべて落ち去ったかと思う木に、一枚だけ枝にしっかりとついて落ちない葉があることに希望を持った。その葉は、どんなに風が吹こうとも、寒くなろうともけっして落ちない。ジェシーはその一枚の葉に希望を託し、やがて病気は快復し退院をする。しかし、その葉は悲しむジェシーのために、ベアマン叔父さんが本物そっくりに描いた絵だった、というお話しだった。

 しかし、それは物語上のお話しで、僕にはベアマン叔父さんなど現れない。

 でも、毎日、毎日、枯葉の落ちるのを窓から眺めていた。

「僕にはベアマンなんていない、何よりも神さまなどいないことがわかった・・」

「あと十枚、あと八枚、あと三枚、あと・・」、

 ジェシーと同じように数えたが、

 現実は一枚もなくなっていった。

 僕には絵を描いてくれる人などいない・・。

 

 その時、ふと、何か緑色のものが見えた。

 僕はベッドから思わず身を乗り出して、それをじっと見てみた。

「こんなに寒いのに、真冬なのに、木の間から小さな小さな芽が出ている・・」

 子ども心に驚いた。

 僕は、それからその小さな芽を絵に描き、絵を描くという希望を見つけた。

「もしかすると、まだ生きられるかもしれない」

 そう思えた。

 

 ふり返れば、僕の人生は子どもの頃から絶望の連続だった。

 その後もなかなか病状が回復する兆しはなく、ただ薬物治療だけを受けて動けなくなっている僕を見て、父は医師の反対を押し切り、僕を強引に退院させてしまった。

 まるで収容所から脱出するかのように、真夜中に僕を抱きかかえると、家まで運び出した。

 僕は何が何だかわからないまま、外気に触れ、手が届きそうな夜空の美しさに感動していた。

 

 それからの父は、医師を信用することをやめて、独学で腎臓病に関する勉強を始めた。

「必ず俺が治してやる。病院で実験材料にされて死なせるわけにはいかない。絶対に、絶対に治るから・・」。

 この頃の僕には父の言う意味がわからなかった。

 医者は治らないと宣言したが、父はその病気を学び研究し、徹底とした食事療法により、僕は奇跡的に快復し始めた。

 そして、五年生の後半から不定期でも小学校に通うことができるようになった。

 三年、四年生を飛び越えて進級するなど不思議に覚えたが、父が校長と直談判し、三年生から勉学をさせるのが不憫だから、このまま進級させてくれと哀願したら、そのまま僕は五年生になっていた。

 しかし、現実は勉強も追いつかず、運動もできず、知恵遅れ扱いと苛めの地獄が続いた。

 

 僕の自我が崩壊しなかったのは、父の支えがあった事と、絵が好きだったことかもしれない。どこにも出かけず、ただ好きな絵を描いているだけで幸せだった。誰も知らないが、絵が描けることが僕の唯一の自慢だった。

 絵を描くことは父が教えてくれたものだった。

 僕は友人もなまま、嫌いな小学校、中学校、高等学校を出て、念願の美術専門学校に入り、本格的に絵を学ぶようになった。

 

「ヘルヴィ、そんなに苦しかったのか。すまなかったなあ・・」

「イリヤ、なんでイリヤが謝るのですか?」

 

 イリヤは何も言わず、私の話を聞き泣き続けていた。

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私たちの祈り


 

あなたが、この世に生まれたとき

あなたの母さんと父さんは素晴らしい夢を見ました

あなたは夢を叶えて

私たちの祈りに答えてくれました

 

私たちにとってあなたは特別な子どもでした

あなたは微笑んで私たちに喜びを与えてくれました

あなたが泣くたびに私たちも悲しみました

 

 

あなたは何も知らないでしょうね

 

私たちが、いずれどこへ行くのか、あなたにはわからないでしょうね

それでも、私たちはあなたにすべてを与え続けます

あなたを通して私たちは神を感じます

私たちはあなたのために死んでもかまいません

そう信じて生きてきました

 

やがて多くの季節がやってきて、去っていきました

とても多くの年が過ぎて、時間はとても早く過ぎ去っていきました

そして、あなたは大きく強い子になりました

 

今、あなたはそこで何を思いますか

大きくなったあなたは、母さんと父さんをどう感じますか

もう、必要がなくなったのでしょうか

あなたは自分の声が聴こえるでしょうか

どうしてあなたは、お母さんとお父さんの事がわからなくなったのでしょう

 

 

あなたには何もわからないでしょうね

 

私たちが、いずれどこへ行くのか、あなたにはわからないでしょう

それでも、私たちはあなたにすべてを与え続けます

あなたを通して私たちは神を感じます

私たちはあなたのために死んでもかまいません。

そう信じて生きています

 

 

あなたは今、過ちの道に迷っています

あなたは一人きりで、そばには誰もおらず、見守るものもいません

あなたは今、泣いています

私たちは、大人になったあなたのことを今でも思い、抱きしめたい

心から心配しています

 

あなたは何も気づかないでしょうね

 

私たちが、いずれどこへ行くのか、あなたにはわからないでしょう

それでも、私たちはあなたにすべてを与え続けます

あなたを通して私たちは神を感じます

私たちはあなたのために死んでもかまいません

 

そう信じて生きています

 

「anak(child)」より フレディ・アギラ  創訳 coucou

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

その十四 呼吸音

 

 もうずいぶん長い時間が過ぎた気がした。イリヤはまだ泣き続けていた。

 私はイリヤを傷つけるようなことを言ったのだろうか?どうして私に謝るのだろう?もう公園には人影がなくなっていた。ただ、木々にとまっている鳥たちの声が響いているだけだった。この鳥たちは会話が出来るのだろうか?いったい何を話しているのだろう?私は鳥たちの囁きを聞いていた。

 しばらくしてイリヤが口を開いた。

「ヘルヴィ・・君のお父さんのことを話してくれ・・」

「父のことですか?」

「そう、君のお父さん。バルカラヤ・ラーデのことじゃ」

「えっ。イリヤ爺さんは父の名前を知っていたの?」

「・・いや、君が話したじゃあないか・・」

 私は父の名を言った覚えはない・・。いや、確かに話してはいないはずだ。もしかするとイリヤは父の知り合いかもしれない・・。

 

「私の父バルカラヤは偉大な人でした。私の人生の中で最高の、最大の愛する人でした。父が死んでから一年が過ぎました。イリヤ、私の心の中は大きな空洞が開きっぱなしで当分、いや、生涯埋めることが出来ないかもしれない・・」

「ヘルヴィ、誰もが大切な人を失えば同じだが、君のお父さんは死んでなんかいない、人は死なないのじゃ」

 イリヤは若くして両親を失い、あれだけ多くの戦友を失ったのだから、そうは思いたくないのだろう。それに私の場合は『カシャ、カシャ』も『ニャー、ニャー』も聞いたことがない。風が合図を送ってくれる訳ではないし、手紙が残されていたわけでもない。私にはそのような奇跡など起こっていない。

 

 私は父が死んだ時に、二つのお願いを神さまにした。

 一つは、私の寿命を差し上げるから、父をまだこの世に置いてほしい。もう少しだけでもそばにいさせてほしいと祈った。しかし、その願いは聞き入れてもらえなかった。

 もう一つは、父が死んだ後、せめて夢に出てきて話をさせてほしいと祈った。これも聴いてもらえなかった。私には何の奇跡も与えられなかった。

「ヘルヴィ、奇跡はいつも起きている。たった今も奇跡は起こっている」

「どこに?」

「・・」

「ヘルヴィ。君は今何を望んでいるんじゃ。何を後悔している?」

「後悔だらけさ。私は父に命を助けられた。私が窮地に追い詰められたときに、何度も何度も助け、支え続けてくれた。病院を退院させ、私の病気を治してくれた。今度は私の番だった。父を何がなんでも助けたかった。それに最大の後悔がある。それは、父にちゃんと最後の挨拶が出来なかったことなんです・・」

 

 偉大なる父、バルカラヤはクリスマスの日に意識を失い入院した。私は慌てて病院に駆けつけた。父はまだ息をしていた。私は父が生きていたことにほっとした。弟のカイラカも到着した。担当医師からは、父の肺に水が溜り、肺炎を拗らせていて危篤だと淡々と話された。私は信じる気などなかった。父は絶対に死なない。死なせてたまるか。だが内心は焦っていた。どうしよう、どうしたらいい。看護師さんたちからも諦めの言葉が出ていた。そんな馬鹿な、あり得ない・・。私は気が狂ったようになった。父の口元に付けられた酸素マスクの微かな音が聞こえていた。

 私は神に祈った。

「神さま、私の命を父に差し上げますから、もう少し、もう少し生かしてほしい。父と話をさせてほしい。そしたら私はあなたを信じます」

 神さまなど信じない私は心から祈った。

 父の身体は点滴だらけとなっていた。注射針がなかなか刺さらなかったのだろう。腕は内出血を起していた。そして、肺炎のための抗生物質と肺に溜った水を出すための利尿剤を与えられていた。

 

 数日したら少し意識が回復し出した。おそらく抗生物質が利いたのだろう。父の目が開いた。ここは何処なのだろう、なぜここに居るのだろう、と不思議そうな顔をしていたが、すぐに理解できたようだった。だが、盛んに何かを伝えたがっていたが、声が出ない。おそらく淡を取り続けていたために喉が傷つき、声が出せなかったのだろう。そこでペンと紙を持たせた。しかし、ペンを握る力がなくなっていた。盛んに何かを話そうとし続ける。

「父さん、ヘルヴィだ。私がわかるかい?」

「ハァ、ハァ、スゥ・・」

「そうか、わかるのかい。よかった。ここは病院だよ。これで安心だ」

「ハァ、ハァ、スゥ・・」

「今、どこを見ているの?何が見えているの?」

 父は天井を見つめていた。そして盛んに話している。だが、私には何を言いたいのか、何を言っているのかわからない。すると、右手を上げて指を差した・・。

「なんだい?そこに何かあるの?」

 私がまるでわからないので諦めたのか、手を置いてしまった。私はその手を握った。父の手は力強く、しっかりと握り返してきた。私がその手を放そうとすると、また力が入り放そうとしない。私はこの力強い父の手に安心感を覚えた。弟のカイラカの手も放そうとしない。

 そして、父はまた深い眠りについた。

 医師は、一応安定はしているが危篤状態には変わりがないと冷静に言った。

 外は底冷えのする寒い夜だった。もう年末だ。もうすぐ新しい年になる。

 

 数日して新年を迎えた。父は相変わらず目を瞑ったままだった。じっと見つめていたら父の足元が微かに動いていた。不思議に思い、足元の布団をめくると、なんと両足が動いていた。父が動かしているのだ。父はわかっていた。このまま寝ていたら身体が動かなくなるということを。父は入院するまでの数年間、毎日トレーニングを繰り返していた。手足を動かし、肩や腕を回し、指を動かしていた。その習慣を想い出しているのだろうか?それとも生きようとしているのだろうか?

「ハァ、ハァ、ハァ・・」

 相変わらず呼吸音が聞こえる。この呼吸音にあるリズムがあることがわかった。父は若い頃、マラソンの選手だった。その時の二部呼吸に似ている。父は今、走っているのだ。父は、生きようとしているのだ。しばらくして動きが止まった。僕は手を握る。すると必ず強い力で握り返してきた。これが親子の無言の会話だ。セイントもまた握る。しかし、父の目は開かない。開けられないのだろうか。

「明けましておめでとう。父さん、新しい年だよ」

「スウ、ハァ、スウ、ハァ」

 父の目が開いた。

「おめでとう。父さん、カレンダーが見えるかい。新しい年のカレンダーだよ」

 カイラカがベッドを起こした。メガネをはめさせ、入れ歯をはめた。久しぶりに身体を起こす。

「大丈夫かい?」

「スウ、ハァ。スウ、ハァ・・」

 言葉が出ない。だが、私は父が元気になりつつあると感じていた。

 父が死ぬわけがない、絶対に絶対に死なない、そう信じていた。

「早く良くなって病院を出よう」

「スウ、ハァ・・」

 カイラカと私の前で父が突然両手をクロスさせた。何の合図なのだろう?何を言いたいのだろう?笑顔はない。真剣な表情でバツをくり返していた。もう駄目だと合図しているのだろうか?それとも、もう話が出来ないと伝えているのか?それから父はまた深い眠りに入ってしまった。

 次の日、カイラカの子どもたち三人と僕の子どもたち三人と家族全員が集まることができた。父の誕生日以来の事だった。孫たちが一人ずつ手を握る。あの時と同じように力強く、手が痛くなるほどの力で孫たちの手を放そうとしない。

 そして、あの時と同じように天井に目を向け、両手をあげて何かに触れようとしていた。それが何か誰にもわからない。そして、何かを終始語りかけていた。

 

 そして十日目の夜、いつものように私は父に逢いに行った。しかし、父の意識はない。手を握った。力もない。合図もない。私は話しかけた。だが何の返答らしきものもない。父の胸に耳を当てると、ゴボッ、ゴボッという妙な音が聞こえる。まるで水のようだ。ブク、ブク、ゴボッ、ゴボッ・・。この恐ろしい音はなんだ?

「父さん、父さん、聞こえるかい?」

「ブク、ブク、ブク・・」

「私は叫んだ。父さん、家に帰ろう。僕たちの家に、こんな所じゃあ死んでしまう。早く家に戻ろう・・」

「ブク、ブク・・」

「フウ・・」

「フウ・・」

 もうあの二部呼吸はない。

 父からは何の反応もなかった。

 だが心臓の音は静かに、ゆっくりと動いていた・・。

 

 その晩、私は一晩じゅう眠れなかった。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 〈遠く離れた父と母〉

 

 遠く離れた父と母。

 

 いつの頃からか、わたしはあなたの親になりました。

 いつの頃からか、あなたはわたしの子どものように、

 いつの頃からか、わたしはあなたの年になりました。

 

 遠く離れた父と母。

 

 あなたは、わたしの父や母だったけれど、

 あなたが、わたしにしてくれたように、

 わたしが、あなたを抱きしめる時が来てしまいました。

 

 あなたが、わたしの子どもの頃にしてくれたように。

 そっと、囁きましょう。

 そっと、語りましょう。

 そっとお話してみましょう。

 

 遠く離れた父と母。

 

 いつの頃からか、わたしはあなたの親になりました。

 いつの頃からか、あなたはわたしの子どものように、

 いつの頃からか、わたしはあなたの年になりました。

 

 わたしの中のあなたは、わたしよりも若く、

 大きく、強く、逞しく。

 わたしの中のあなたは、わたしよりも永遠に優しさを残したままで、

 わたしの心の中にいつまでも、いつまでも息づいています。

 あなたが、わたしの子どもの頃にしてくれたように、

 わたしは、わたしの子どもたちにしています。

 

 そっと、囁いています。

 そっと、語りかけています。

 そっと、お話をしています。

 

 あなたが親だった時のことを。

 いつまでも愛し続けてくれたことを。

 

 遠く離れた父と母。

 

 遠く離れた父と母は、遠く離れた祖母のもとへ。

 

 そっと、囁くでしょう。

 そっと語りかけているでしょう。

 そっとお話をしているでしょう。

 

 時の流れを超えて、いつまでも待ってるあなた。

 時の流れを超えて、遠くから光で導くあなた。

 

 遠く離れた父と母。

 

 光の先にはしあわせの扉があるという。

 

 しあわせの扉の先にも光があり、

 その光の中に愛する人たちがあなたを待っている…

 

 遠く離れた父と母。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

その十五 扉の向こう側

 

「イリヤ爺さん」

「何だい?」

「教えてほしいのです。父は私たちに何を伝えたかったのだろう?あなたなら今までの体験から何かわかるのではないですか。教えてほしいのです・・」

「何がわからないのじゃ?」

「父は最後に何を言いたかったのだろう?何もしてあげれなかった私には後悔しかない。後悔だらけなんだ。私は、もう一度父に逢いたい、父と話しがしたい。そして謝りたいのです」

 

 私は今まで人前では泣かなかった。父の葬儀の時だって涙を堪えることができた。だが、イリヤの前では心から泣けた。彼なら私の気持ちを汲んでくれると思ったからだ。

 あの時の父は何を伝えたかったのだろう?

 何を言いたかったのだろう?

 生きることを諦めていたのだろうか?

 私たち息子のことをどう思っていたのだろう?

 あの時、何を感じ、何を見つめていたのだろう?

 あの手をクロスさせた合図はなんだったのだろう?

 最後の言葉は何だったのだろう?

 父さんは、父さんは本当に死んでしまったのだろうか?

 

「教えてほしい、イリヤ・・」

 どうしてなのか、イリヤも泣いていた・・。

 

 

 辺りは暗くなり、寒くなってきた。公園にはもう誰もいない。イリヤと私と風の音だけ。

 二人はベンチの上にあるわずかな明かりに照らされていた。

「ヘルヴィ・・。これからわしの言うことを信じることができるかな?」

「・・」

「わしは、あの扉の向こう側から君に逢いに来たんだ」

 回りには扉などなかった。

 しかし、イリヤはその場所を指さす。

 父の最後の時のように、天井に向かって何かを指さしていたように。

 もしかすると、私には見えない扉が、イリヤにははっきりと見えているのだろうか?

「扉の向こうって、どこ?」

「あの沈む夕陽の向こう側にあるのじゃ」

「・・・」

「ヘルヴィ。君のお父さんは死んでなんかいないよ。いつも君のそばにいる。そっと見守り続けている。君の目の前にいる」

「えっ、目の前?誰もいないですよ・・。それよりもイリヤ、寒くないかい?」

 真っ暗になった空から雪が降り出していた。

 私とイリヤは寒さも感じずに、しばらくその雪に見とれていた。

 

「では、ヘルヴィ。君のお父さんが何を言いたかったのかを教えよう。君の父バルカラヤ・ラーデは死んでなんかいない。あの夕陽の向こう側にいるのじゃ。そして、今、君の前におるんじゃ・・」

「・・」

 私の前にはイリヤしかいない。

「イリヤ、あなたが私のお父さんなのですか?」

「・・・」

「あなたが私の父さん・・父さんだったの・・」

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 誰が風を見たでしょう

 

僕もあなたも見やしない

 

けれど木の葉をふるわせて

 

風は通りぬけていく

 

誰が風を見たでしょう

 

あなたも僕も見やしない

 

けれど樹木が頭を下げて

 

風は通りすぎていく  
                 
〈風〉クリスティナ・ロセッティ 西條八十 訳

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

 

 

その十六 与えられた最後の十一日間


 

 彼はこう言った。

 ヘルヴィ、カイラカ、わしの息子たちよ。。わしの声は出なくなってしまった。話しておきたいこと、伝えておきたいことは山ほどあった。もうわしの時間があまりないことも分かっていた。だが、最後の最後まで生きる希望は捨てていなかったよ。

 わしはお前たちと共に在る・・。

 

 あの病室の中で、話すことができず、歩けぬわしができること。それは考えることと、わずかでも身体を揺り動かすことだった。わしはまだまだ扉の向こう側などには行く気はなかった。

 わしは九十四年生きた。わしの人生のすべてをかけて、息子たちを支えたいと願っていた。身体が動かなくとも、話ができなくとも、息はできる。考えることもできる。わしはそれだけで充分だった。後はいつでも、この世を去ればいい。扉の向こう側の世界にただ行けばいい。

 だが、何よりも、何よりも残される息子たちを悲しませたくない。それだけがわしの最後の願いだった。医者や看護師はわしの意識がなくなったと言った。だが、わしには聞こえていた。もう命が持たないということを。だがわしは、それから十一日間も生きた。その時間は、その与えられた時間は、わしにとっては長い長い時間だった。

 時間というのは人が勝手に決めたものじゃ。

 医師、看護師、息子たちが毎日わしに付き添ってくれたこともすべてわかっていた。

 お前たちにどうしたら良いか、ただ、それだけを考え続けた十一日間だった。

 

 わしが伝えたかったこと、それはこのフィンランドの大地を愛してほしいこと。ここにしっかりと根を下ろしてほしいこと。家族は決して離れてはいけない。親子はいつまでもそばで暮らしてほしい。わしのように離ればなれの人生を繰り返さないでほしい。

 もう、戦争はいけない。戦争はすべてを引き裂いてしまうから。

 お前たちがいつかこの世を離れたとしても、扉の向こう側の世界で、もう一度わしの家族になってほしい。わしの自慢の子どもたちとして。お前たちはとても素晴らしい息子たちだった。六十歳なんてまだまだ若い。

 それに、わしは死んでなんかいない。

 

「ヘルヴィ・・わしはお前の父じゃ」

「えっ、イリヤ。あなたが父さんだって?」

「わしが伝えたかったこと。最後の十一日間で話したかったこと。それはわしの人生のすべてだった。イリヤの話はすべて、お前の知らないわしの人生だ。

 わしが三十五歳の時に、お前は祝福されて生まれてきた。わしの人生で最高の幸せの時だった。わしは嬉しくて、嬉しくて、この世を去った父や母にも報告した。

 涙は悲しい時に出るだけのものじゃあない。嬉しくて、幸せでも涙が溢れることを知った。だが、お前は小さい時から病気を繰り返していた。何度も何度も命を落としかけた。そのたびに、わしと母さんは神に祈った。『生きてほしい、生き続けてほしい。わしの命を捧げてもいい。だから生かしてほしい』と。

 子どもは親より先に死んではならない。子どもは親の死にざまを見届けるものだ。だからわしは祈り続けた・・。お前たちは、わしたち夫婦の希望だった。生きる希望だった。わしの父や母のように、お前たちを悲しませたくなかった。

 だから、一日でも長く生きて、生き抜いて、お前たち兄弟を支える、支え続けることが、わしの人生だった。だから、最後の最後まで諦めなかった。お前たちにもそうしてほしい。生きていてほしい。人は生きているだけでも幸せなことだ。病気であろうが、どんな不幸が押し寄せようが、生きているだけでいい。わしの家族や戦友たちはみな生きたかったはずだ・・。もっと、もっと、子どもたちのそばに居たかったはずだ・・」

 

 深々と雪が積もっていた。私たちの周りは、あたたかな光に包まれているようで寒さなど感じなくなっていた。

「父さん、私はとても寂しいのですよ・・」

「ヘルヴィ、そう悲しむことはない。今までがそうだったように、わしはずうっとそばにいる。寂しいのはわしだって同じだ。去る者も悲しいのだ。わしは今、自分の力で歩けるし、行きたい所にどこへでも行ける。これは素晴らしいことだよ」

「・・父さん、父さんはあの時、何を伝えようとしていたの?何を伝えたかったの?私にはわからない。苦しかったかい?父さん・・」

「わしの伝えたかったことのすべては、イリヤが話してくれた。お前に伝えたかったわしのすべてだ。わしの九十四年間の人生のすべてが語られている。わしの父や母は幼い頃に死んだ。わしの友人、戦友たちも、兄妹もすべて死んだ。わしは生き残りの老兵じゃ。家族は離ればなれになってはいけない。力を合わせ支え合って生きていかねばならない。何よりも人は死なない、死んでなんかいない、そう伝え残したかった。現にわしは生きている。このようにお前と会話ができている。この事は特別なことではない。誰にでもできる簡単なことさ」

「・・・」

「なあ、ヘルヴィ。わしはお前たちに感謝している。とても愛している。わしの人生は考えられないほど幸せだった。だから死んでいった仲間たちの分も生きようと考えた。残念ながら、歩けなくなり、言葉も話せなくなったが・・。だが、人間は考える事ができる。たとえ身体が動かなくとも想像することができる。扉の向こう側にいる者たちとだって自由に話ができる。それを教えたかった。わしは意識を失っていたようだが、お前たちの考えていることも、思いも、すべてわかっていた。だから、わしは十一日間生きた。生きられた。最後にお前たちと接することができた。わしは、父や母、兄妹、友人たちの世界から呼ばれていた。だが、十一日間だけ、ここに居させてもらうように頼んだ」

「父さん、父さん。苦しくなかったかい・・」

「そりゃ、苦しいかったよ。もう治療など要らない。すべての管を外してほしいと思った。だから、『もう、いいよ、ありがとう』というのが、わしの合図バッテンだった」

「もっと、もっと生きてほしかったよ・・」

「わしだって同じじゃ。もっと、もっと、お前たちを支えたかった。だが、わしの身体の電池が切れてしまった。残された電池を大切に使った十一日間だった」

「・・」

「時間なんて人間が勝手に決めたものじゃ。一日が二十四時間だけなんておかしかった。わしの最後の一日は三〇日分、いや一年分の長さにも思えた。だから、一日が三〇日分ならば、十一日間は三三〇日分以上の長さだ。その間、わしは九十四年間の人生のすべてを鮮明に想い出していた。信じられないだろうが、たっぷりと時間が与えられていたんだよ」

「・・」

「お前たちはずうっと、わしの手を握り続けてくれたね。覚えているよ、嬉しかった。あれで少しばかり充電ができたようだ」

「・・私たちはそれでも寂しい」

「わしも寂しい。去っていく者はみな寂しいのだよ。だがなあ、わしからは話しかけるのがむずかしいが、お前たちから話しかけてくれれば、すぐに応えられるのさ。これは誰にでもできる。心の中で語りかけるだけでいいんだ。お墓の前でも、写真の前でも、車の中からでも、外でも部屋の中でも、いつでもどの場所からでも、わしに話しかけてくれさえすれば、すぐに応えることができる。便利なことだよ」

「父さん、ありがとう。私も父さんの世界に行きたい。次も私の父親でいてほしい。もう一度、あなたの子どもになって親孝行がしたい。今まで出来なかったことをしたい・・」

「わしも同じだよ。お前たちに出来なかったことをしてやりたい」

「・・」

「わしがお前たちに最後に伝えたかったこと、それはいつもそばにいるということだ。だから、安心して語りかけてほしい。わしはいつでも応える。そして、大切な人を亡くして悲しんでいる人々にこのことを伝えてくれ。人は死なない、死んでなんかいない、いつも大切な人たちのそばに必ずいるということを・・。そして、必ず応えている。わしは死んでいった戦友たちの巡礼の旅でそれを知った。だから、寂しがらなくてもいいんだよ」

 

「父さん、父さん。イリヤは私の父さんバルカラヤ・ラーデだったのですね・・」

「・・・」

「父さん、逢いたかったよ・・ありがとう。私は父さんに何もお礼が言えなかった。私がこうして生きているのは父さん、あなたのお蔭です。私はあなたを愛していました。今も愛しています。我儘を言って困らせたり、喧嘩して悲しませたり、いっぱい嫌な思いをさせて、たくさん辛い思いばかりさせて、苦しい思いを与えて、ほんとうにごめんなさい・・」

 

 父が最後に伝えたかったこと。

 それは、

 (ありがとう)

 (すまない)

 (愛している)

 (幸せだった)

 (また逢おう)

 だった。

 私も同じセリフを伝えた。

 (ありがとう)

 (ごめんなさい)

 (愛している)

 (いつか必ず、あなたに逢いに行きます)

 

 

 ふり返るとイリヤがいない。いや、私の父がいない。周りはいつの間にか雪が積もり、私以外もう公園には誰もいない。深い静寂の中で、かすかな風が降る雪を踊らさせていた。空を見上げると、まるで吸い込まれそうな大きな雪の花びらが舞い続け、吐く息が煙草の煙のように天に上る。

「イリヤ、イリヤ爺さん。父さん、父さん・・」

 私は声に出してみた。だが応えはない。

 

 遠くでブオン、ブオン、キュゥー、キュルル、とエンジン音が聞こえた。

 なかなかエンジンがかからないようだったが、やがてブオン、ブオンと猛々しいエンジン音となり、その音は雪の中に消えていった。あれは、オンボロ車のアフェドラの音だろう。

 どうやら、イリヤはまた長い旅にでかけるようだ。

 

 

 雪景色はこんなにも美しいものだったのだろうか。

 私はイリヤが去った後もしばらくその場所にいた。

 

 父に、私はこの世を去る時まで話し続けるだろう。

 この人生の一瞬、一瞬を噛みしめながら、与えられた人生を父のように生きたい。

 子どもたちのために生き続けたい。支え続けたい。父のように、いつまでも人を愛し続けたい。

 

 (また逢おう・・)

 

 

 今日は私の六一才の誕生日だった・・父からの素晴らしい贈り物が、またひとつ届いた。

©NPО japan copyright association Hiroaki



 ─希望─

 

アフェドラ。

わたしの名まえです。

お父さんが付けてくれました。

アフェドラは花の名まえ。

希望という意味があるそうです。

 

わたしは、お父さんが人生に失望した時期に生まれた子ども。

もう、死んでしまおうと思ったときに生まれてきた。

 

お父さんがいつか言っていました。

小さなわたしを連れて公園にいったとき、ブランコに乗ったり、すべり台をすべったり、ときどきお父さんに手をふりはしゃぐわたしを見て、お父さんは涙がこぼれてしかたがなかった、と。

 

それまでのお父さんは、仕事が忙しすぎて、わたしと公園にいけませんでした。

 

わたしは覚えていませんが、ふたりで初めていった公園。

だれもいない夕焼けの公園。

お父さんとわたし。

それだけ。

 

お父さんは、涙のむこうに、まばゆい光りを見たのだそうです。

 

 

わたしはアフェドラ。

お父さんの希望です。

 

わたしは風にゆれる野の花のように生きたいと思っています。

 

風はわたしに強く吹いてもかまわない。

どんな風も、風はわたしを折ったりしないから。

身をまかせていれば、風はわたしを望むところへ連れて行ってくれます。

ちいさな種のわたしは空を飛んで、そっと地面に降ります。

 

そこがわたしの世界。

 

わたしは、地面のぬくもりを感じます。

わたしは、安心してぐっすり眠ります。

身体がくすぐったくなると、目覚めます。

 

わたしの周りには、いつも風が吹いています。

わたしの真上には、いつもお日さまがあります。

 

お日さまが呼びます。

「こっちへ、おいで」

力を入れなくても、背伸びをしなくても、お日さまがわたしをのばしてくれます。

わたしは、全身で光りを感じます。

光りは、わたしが望まなくても抱きしめてくれます。

 

お父さんのように。

 

お父さんは、わたしに何かを望みません。

特別なことができなくてもいいのだそうです。

できないことが、いっぱいあってもいいのだそうです。

 

「じゅうぶんなんだ」

ある日、お父さんはそう言いました。

 

お父さんには、苦しいことがいっぱいありました。

いっぱい悲しいことがありました。

でも、いま、お父さんは幸せです。

もう、ふたりで公園にはいかないけれど、

ちいさな事務所で、机をならべて一緒に仕事をしています。

お父さんのとなりの席は、いつもわたしがいる場所です。

 

事務所の窓の向こうには、いろんな景色がひろがっています。

風も、地面も、お日さまも、

雨も、雪も、霜も、露も、

雲も、星も、月も、銀河も、

虫も、葉っぱも、鳥も、

ぜんぶ、そこにあります。

 

みんな仲良く、手をつないでいます。

そこが、わたしの世界です。

わたしの世界には、すべてがあります。

すべてが、わたしの友だちです。

すべてが自然で、ありのままです。

 

みんな、そのままのわたしが好きだといってくれます。

そのままのわたしは、どこにいてもいいのだそうです。

そのままのわたしは、どこへでもいけるのだそうです。

 

大好きな、あなたと、

大好きな、この世界で、

「しあわせ」をつなげていればいいの。

ただ、それだけでいいの。

あなたも、わたしも。

 

わたしはアフェドラ。

 

お父さんの希望です。

©NPО japan copyright association Hiroaki

 

                

〈わたしは幸せなのだから〉

 

ねえ、あなた わたしが死んでも

悲しい歌は、歌わないで

 

眠るわたしの傍に 

大好きな薔薇の花も、糸杉も、植えないで

自然の若草が雨と露に濡れるままにしてほしい。

 

わたしのことを忘れてもいいし、忘れなくてもいい。

わたしはあなたの影さえも見ることはできず、

雨さえも感じることはありません。

夜泣き鳥の悲痛な声も歌声も聴くことはありません。

 

明けることも暮れることもなく、黄昏の中で夢を見て、

あなたを想い出すかもしれないし、忘れてしまうかもしれません。

 

だから、

ねえ、あなた わたしが死んでも

悲しい歌は、歌わないで

 

わたしは幸せなのだから

〈songより〉 クリスティナ・ロセッティ作 創訳 coucou

 


FEN

 

 

 私の名はイリヤ・ヘイネン。

私が開けた扉の向こう側は、とても素晴らしい世界だった。

 

去りゆく者たちからの伝言配達人となった私の役目は、

大切な人を失って悲しむ人たちに、

大切な人はいつもあなたの側にいて、

あなたからの語りかけを待っていることを伝えることだ。

 

決して悲しむ必要はない、

決して寂しがる必要はない。

あなたが望めば必ず逢える、

必ず応えてくれるのだ。

 

私はオンボロ車アフェドラとともに巡礼の旅を続けている。

そう、アフェドラという希望とともに・・。

©NPО japan copyright association Hiroaki

Production / copyright©NPО japan copyright coucou associationphotograph©NPО japan copyright association Hiroaki
Character design©NPО japan copyright association Hikaru

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