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意味の意味【意を味わう】

幕末の名著「言志四録」に学ぶ
東洋の生き方学 No.39

言志録 佐藤一斎著 第三十九条

【原文】
人の賢否は、初めて見る時に於て之を相するに、多く謬らず。
【訳文】
人の堅なるか否かの判断は、
初めて相対したときに直覚したその印象が、
凡そ間違ってはいない。

言志録 第三十九条『意を味わう』

人は何かと意味を知りたがる。

出会いの意味。別れの意味。
言葉の意味。行為の意味。

挙げ出したらキリがない。

凡そ、この"意味"の考察は、
過去の事象に対して行われる。

なぜ意味を知りたがるのだろうか?

それも、今という唯一無二のこの瞬間を使って、
なぜ過去の事象の意味を知りたがるのだろう。

私も、何かと意味を知りたがる人間だった。

すぐ調べ、すぐ考え、すぐ尋ね、
とにかく、すぐ"納得"させたかった。

また、何かと意味を求めた。

しかし、今は意味の"意味"が分かり、
意味を知りたがる癖はなくなっていった。
それが良いかどうかは分からないが、
意味はどうでも良くなっていった。

意味とは何か?

この字を解体したい。

"意"と"味"から成り立つ。

つまり、意味とは
"意を味わう"という"意味"なのではないか。

目の前に料理がある。

何処どこの食材を使っているから美味い。
何時間煮込んだから美味い。

逆に、安い食材を使っているから不味い。
手間暇かかっていないから不味い。

私としては、そういう考察が一番不味い。

美味いものは美味い。
不味いものは不味い。

これで良いではないか。

条件を食べているのではない。
料理を食べているのだ。

意味とは、意を味わうこと。

何か偉大なる存在の"意"をただ味わう。

美味いときもあれば、不味いときもある。
しかし、味わう。

味わうべきは過去ではなく、
"今ここで""今ここ"である。

今ここで、今ここを味わってみてほしい。

美味かろうが、不味かろうが、
ぼんやりと有り難みを感ずるだろう。

それが意味というものではないか。

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#読書 #哲学 #人生観 #人間学
#東洋思想 #生き方 #メンタル


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