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命の価値

ペットとして実家で飼育していたカニが亡くなった。6年ほど生きていた。

亡くなったカニの写真。脱皮殻も思い出に残してある。

カニは私が学生時代に見つけ連れ帰った。
種類はベンケイガ二。
最初は課題研究で標本にする目的で採集したのだが、家では既に猫や魚を飼育していたこともあり、生きたまま連れて帰ると愛着が湧いてしまうものだ。
まさか私が社会人になって、実家を出ても生き続けることになるとは思わなかった。

持ってきた直後の写真、身体が赤いのが特徴だ。

このベンケイガ二はとてもありふれた種類のカニで、海岸沿いならどこでも見られるだろう。
決して珍しかったり、特別に多くの人が飼育しているわけでもない。
しかし私はとても悲しかった。それは6年も飼育していたから?カニが好きだったから?どれも違う。私は、このカニを家族や友人と同じ命だと思っていたから。つまり、「人と等しい命」としてして育てていたからである。

ペットは人間と等しい命なのか

ペットとして飼育する生き物を家族として捉える人は少なくない。
これは「ペットの家族化」とも呼ばれ、一人暮らしの寂しさや、仕事や生活における日々のストレスなどを癒してくれる目的がある。
特に犬や猫はそのような考えがとても多い。
引っ越す際も「ペットを飼育できるかどうか」を最重要ポイントとして探したり、亡くなった際人間と同じようにお墓を建てる人もいる。
まるで自分の子供のように、そして私達人間と同じ様に、共に生活し生きていくのだ。

純粋にペットとして生き物を「飼育」する場合、勿論犬猫もそうだが、虫や観賞魚はあまり家族として捉える人は少ない。
小学校などで命の大切さや命について考える授業の一環として、昆虫やメダカを飼育したり、夏休みに公園で昆虫を採りケースに入れて飼育し、亡くなったら庭に埋葬といった経験をした人もいるだろう。

虫や魚でも犬猫でも生き物の命を扱っている点はどちらも同じ、違う点はその生き物に対する価値観の違いである。
ペットとして人気の高い犬猫でも、興味がない人にとっては虫と同じでありふれたただの生き物である。
等しい命になるかどうかは、その生き物やそれを見る人によって全く違うものになる。
先ほどカニを人間と等しい命と書いたが、それは飼育していくにつれて出てきた感情であり、飼育以前は特に興味もなかった。

命の価値の決まり方

では何故その様な感情になっていったのか。私の場合、それは違和感を常に感じていたから。
家という一つの空間に、異種の生命体が一緒にいる。普段の生活の中で違う部分が確実に存在している。
そのような違和感が愛着に変わっていく。自分がその命に対しての価値が決まる時は、その違和感が変わる瞬間だと考えている。

違和感が変わる時、無意識のうちにその生命に対して自分の中での価値のラインが動く。命の重さが決まるのだ。
そのラインが私達人間(または自分自身)と同じ所に届くかどうか、で等しい命になるかどうかが分かれていく。

例えば通勤中に近所で段ボールに入った生後間もない猫が捨てられていたとする。
その猫はそれを見た多くの人の「違和感」になる。その違和感に対して、自分と比較して同じ命やそれ以上と瞬時にラインが設定された人は、通勤中でも立ち止まり、猫の保護を優先するだろう。
命としては可哀想と思いつつも、あくまで全く知らない猫として自分達よりは下でラインが設定された時は、警察に通報など何らかの対応をし、通勤を再開させるだろう。
そしてラインがかなり低く設定され、その命がただの違和感だけで止まってしまった場合は、何もなかったかのようにスルーするだろう。
そもそも猫が好きかどうかもあるし、天候によっても違う結果になっていたかもしれない。

この価値のラインは猫だけのことではない。一番多く決められているのは人間に対してである。

ニュースでは残念ながら多くの事故や事件で死傷者や被害者、容疑者の情報が絶え間なく流れている。
ニュースに流れる名前の多くは赤の他人。自分や身内と直接的な繋がりがない限り、聞き流してしまうことがほとんど。
しかしそのニュースを見た時のライン次第で、その事故や事件の感じ方が変わっていく。

狭い道を運転する車が子供を撥ね、子供が亡くなったとの報道があったとする。多くの人は子供が可哀想と思い、その子供のラインは事故を起こした運転手よりも高く設定される。
しかし中には、そんな所を歩かせる方が悪いと運転手が子供よりも高くラインの設定がされた人もいる。

これらのライン決めの様子はSNSを見るとはっきりと分かる。
動画投稿サイトやニュースアプリなどでは一つのニュースごとに動画や記事が投稿されており、そのコメント欄でも垣間見ることができる。

更に流れたニュースの内容が、近所やよく知っている場所なだけで他よりもラインが高くなりやすくなる。
同じ状況や場面でも、皆が同じ考えや価値になることはまずないのだ。

命は違うからこそ

命については昔からずっと議論されてきた。ペットの購買や牛やタコ
などの食肉、自殺と安楽死など未だに絶え間なく浮かび上がる問題に、様々な意見が寄せられる。
平等という意見が多い時もあれば、権利や立場で個人を周りと比較する時もある。

命は違う。そして、同じになることは永遠にないであろう。しかし不平等というわけではない。
魚や虫などの生物も、違う種類の生物と互いに協力し合い「共存」できる者もいる。
ペットでも、自分とは違う生き物と解っているからそれぞれの捉え方ができる。
私達人間も、様々な価値のラインが決められる中、同じ考えを集めたり、相手のラインに寄せたりして「平等」に近付けることはできる。

同じ様にではなく、相手とは違うからこそ、どうあればよいかを問うべきではないだろうか。


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