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「視覚聴覚の障がいについての概説」を内面化したい。

 30年以上そうなので、普段は忘れているが、右耳の聴力が極端に無い。

 滲出性中耳炎様の症状で以前は定期的に耳鼻科に通っていたが、今はある種諦めというか、まあ大丈夫だろう、という心持ちにあって、寛解と言って良いのか、とにかく自己納得的寛解のような感じである。聞こえは、右耳だけだと、子のデカいくしゃみがかろうじて聞こえるぐらいで、これはこれで非常に便利な活用法もある。寝るときに、左耳を枕に向けて横になると、ほぼ無音になり寝入りが良いし、制作作業中など右耳だけにAirPodsをつけラジオなどを聴いていると、左から入る外音と右で鳴る内音のバランスがちょうどよい。こうして普段は気にしないで生きているが、コロナ禍でマスク姿になったときは、少しだけ意識に登ってきた。気づいていなかったことだが、だいぶ、文脈にあわせた表情などを推し量ることで会話を推察していて、なんとなく聞こえない部分があっても適当にやり過ごすというバフを多用していた。マスクはそうしたサポート系のバフを無効化する。これは困ったぞ、とは幸いならず、まあ適当に相づちを入れて、ヘラヘラしてれば合格点でしょう。という具合で今に至る。じっさい手話(日本手話)に関連しての言及内で新村(2008)が、「非手指動作と呼ばれる顔の表情やあごの動き等が文法的機能を持つ」と述べていて、まさにそれ。という感覚だ。ここで新村は、手話を「固有の音楽と文法を備えた言語である」とも言っている(らしい。教科書から抜粋)。

 当然自分も、いつ左耳になにかあるか分からない。福祉にいろいろと携わるようになり、さまざまな当事者さんと出会う機会も増え、どこかで手話を学びたいと考えてもいる。手話は、空間の充填属性や距離性を超え意思を伝える。それが重力子のようで魅力がある。最近、理論的にしか分かっていない重力相互作用に関係する重力子と一部の性質が共通する「キラル重力子モード」の合成に成功したというニュースがあったが、こうした「分数量子ホール液体」に関わる研究がもつ未来性と、手話の持つ量子力学的な意図相互作用は、どこか似ていると言えなくも無くも無い感じである。とにかくこう言った新しい分野の名称は、いつ出会っても格好いい。

 そんなこんなで、視聴覚の障がいへの理解と支援に関する基礎知識と、現在の制度などはしっかりと内面化したい。自分自身が聴力に特性があり、視力についても、金子眼鏡で作ったメガネを愛用しているというのに、近視、乱視についても全然理解していない。よくそれでなんとかなってきたよね、と思う。しかしこの他人任せの感覚が、「強固で強い従来の社会」から「柔らかい社会」へと移行する段階では重要であり、その柔らかさが持つ「曖昧さ」が、テキスタイル的である。障壁が障がいを実体化させる。障がいは個人が所持しているものではなく、社会の硬さと強さが固備してきたパターンと作用することで実体化する規律である。そうしたものを、テキスタイル的なものを通して曖昧にしていくとよいのに、と思う。
 そんな柔軟な思考を持ちながら、メガネをアイウェアという言うのはピンと来ていない。どうもメガネは、着用や身体を覆うもの、というイメージよりも、目の前に「置いている」または耳に「掛けている」という表現がしっくりくるから、「ウェア」のもつ「着用」という概念との結びつきが弱い気がしてくすぐったい。そもそもメガネを「掛ける」という表現も、目よりも耳が主体となっていて、よく考えると気持ち悪い。目のための道具なら耳に(またはこれは耳では無く鼻かもしれないが)「掛ける」ではなくて、目に「据える」のような表現のほうが良かったのではないか。この場合「朝起きたらまずメガネを据えました」「風呂に入るときも、メガネは据えています」のように使う。(※追記:ゴーグルなど目とその周囲全体を覆うタイプの物を忘れていた。これらは「着用」という感じがあるので、許してやっても良い。)

 まず「視覚障がい」の定義を学ぶ。
 学校教育での視覚のポイントは、①視力障害 ②視野障害 ③暗順応障害 の三つ。①は屈折や調整の障害で視力が低下している状態、つまり、近視や遠視、乱視など。②は視野狭窄、暗点、半盲の三種類の状態、③は明るさの変化に対する特性、夜盲など。さらに、心理学的観点から、見ることに対しての記憶の有無を基準にした(A)先天盲、(B)後天盲、と分類される。
 自分は裸眼でおそらく0.5ぐらいの視力のため、盲、または弱視の想像が出来ていない。そうした部分での共有のために、ダイアログインザダークがあるし(ちなみにダイアログインサイレンスもある)、ある種のパラスポーツやブラインドダンスなど、誰でも楽しめるようにルール設定されている活動も多くある。
 視覚障がい児の発達に関して、五十嵐は4つの影響をあげている(1991)。外界への興味や関心、愛着行動などに影響する「行動の制限」概念形成や知識の偏りに影響する「視覚的情報入手の制限」見て会得することに起因する「視覚的模倣の困難」これがもっとも大事なのだが、「視覚障がい児に対する周囲の態度」、の四つの影響である。特に④「視覚障がい児に対する周囲の態度」は、すべての発育者-養育者関係に重要な示唆だ。視覚障がいで言えば、養育者が人目を気にすること無く弱視の子がじっくり見る行為(「目で触る」と言われる)を「保障」してあげたい。これが発育者の自己概念の形成にどれほども役に立つ。しかし、それがなかなか難しいのも、よく分かる。これは障がいあるなしに関わらず、たとえばシルクスクリーンのワークショップなどをやった際には必ず悶々とするポイントで、とにかく親は子を待てないものである。これを決めてあれをやって、と傍らにいて世話を焼くうちに、子はうんざりした感じで従うか無視するか、反発してやりたいことをやるか、となる。「この子がまだ色を選んでる途中でしょうが!」といった気概を求めることはなかなか難しい。とにかく、④についての心構えは、とくにこの4つの発達影響の中でも重要かつなかなか実践できないポイントだ。視力についての話題に戻ると、「目で触る」意外にも、目を押す、眼前で手を振る、頭を振る、身体を揺するといった行動は「反復性の行動-ブラインディズム」であると言われ、刺激不足を補うための自己刺激行為と考えられているそうだ。こういう行動を見守って、刺激を大いに感じて貰うことがやはり、望ましいのではないかと思う。

 支援の中では触覚の活用が重要だとある。中でも手指による触知覚は役割が大きい。指先で、二つの離れた点を二点として知覚できる最小距離=触覚二点弁別閾は2mm程度だという。手指を能動的に動かすことによって成立する能動的触知覚は、受動的触知覚よりも優れた触察であることもわかっているので、能動的蝕知覚に基づく系統的な触察の指導が重要となる。点字の触察はほんとうに想像が出来ないほど精緻であり、すごい。触って察することの出来るテキスタイルの開発も行いたいが、まずこの「触知」について知るとともに、ある程度この感覚を使える様にしたい。点字、つまり点が1-6個、縦3点、横2列の組み合わせによる識字や、「環境認知と歩行運動=オリエンテーションアンドモビリティ」と呼ばれる歩行技術も、高度に獲得されたテクニックのいくつかである。うちにはいくつかの点字の本や、絵本のぐりとぐらの絵に、UVプリントかなにかで立体的かつ透明なインクで触れる絵の処理がされた本などがいくつかあるが、やはりプロダクトとして一つ上のクオリティがある。スクリーンプリントの世界でも、普通の平滑なプリントインクよりも発砲バインダーやラバー、クラッキング性をもった触感をともなったインクのほうが価値がある。

 次は聴覚について。
文部科学省(2013年当時)によると聴覚障がいとは、「身の回りの音や話し言葉が聞こえにくかったり、ほとんど聞こえていなかったりする状態」をいう。
 右耳のみ難聴の自分の場合、「ほとんど聞こえていない」という基準では当然無いが、「聞こえにくかったり」には該当する。しかし、それで聴覚障がい者なのかというと、あまり当事者意識がなく、生活している。もちろん、主観的な「聞こえにくさ」ですべて決定というわけではなく、オージオグラムを用いた7周波数や5周波数などを定め、気導聴力骨導聴力を測定したりもするらしい。この結果によって、「日本学校保健会(2004)」や「日本聴覚医学会難聴対策委員会(2014)」などが程度区分をもうけている(らしい、よくわかっていないので追勉したい)のだが、統一した基準は無く、国や機関、法律等によって異なるらしい。じゃあ、主観的な「聞こえにくさ」でもいいんじゃない、という気もする。
 気導聴力と骨導聴力の違いは、「伝音性難聴」「感音性難聴」「混合性難聴」の区分に関係する。伝音性は音を震わせる機能を持つ部位が、感音性は振動を電気信号に変換して聴覚中枢に伝える部位に、それぞれ障害がある。自分はおそらく中耳の損傷?なので、伝音性かなあと思っている。事実、イヤホンの音はそれなりに大きい音にすると聞こえている。

 聴覚障がいについての、言語発達や認知発達についてはどうだろうか。
 これらについては、先天性と後天性との場合でも違うし、後天性の場合の発症年齢によっても大きく異なるだろう。補聴器具や手話の獲得の有無、なにより、発育者と養育者の関係、周囲環境などの複合的な要素によって決まる。これは、聴覚障がいにおける言語発達や認知発達に限ったことでは無く、全人類共通だろうことなので、ああだこうだと少ない知識での結果を持ち出さない方が良い気がする。本によっては、「聴覚障がい児は健常児とは異なる経験をし、、、」などと触れているが、そんなのは誰でも一緒だから、主語をまとめる必要はないのでは、と、今は思っているが、それもケースバイケースなので自分をあいまいに保っておきたい気持ちである。しかし、なにかそうした障がいによって疎外感を押しつけられている場面が多いことは容易に想像できる。そうした側面では、しっかりとした理解を持っておきたい。ちなみに未だ「障がい」という言葉って使っていいの?という気持ちが整理できていないが、「その人の中に障がいがある」という観点ではなく、そうした社会的な障壁があるがゆえに「社会に内在する障がい性に気づいている(または無自覚に晒されている)」のだという視点を持つと考えると、ちょっと自分の中で納得もいく(それでも障がい者という呼び方はすこしコンセプトからずれている気がする)。

 他の特性分類でもこれは共通することだが、やはり重要なのは、当事者も含めた全員の理解、また、文化的側面をすくい取る解像度をあげ、それを知り、尊重することであることが確認された。いまは「アイウェア」がなんだか知的でおしゃれだよね、という感じで裾野が広がっているように、AirPodsなどの外音取り込み機能などの影響で伝音性難聴への対応の受け取られかたが変わっていっていると思うし、触察に関するプロダクトの開発や、手話というものの文化的価値がより発展していけば、「アイウェア」のようになっていくだろう。しかしそれでも、やはりメガネをウェア扱いすることには納得が出来ず、次の時代へは到達できなそうな気がするが、子の世代が、そうしたおじさんを躊躇無く前時代へ閉じ込め、気兼ねなく邁進する世の中を望んでいるというところで、終わりである。

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