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「社会における“障がい”の変遷」を内面化したい

 放送大学、心理と教育コース、21年開設科目「障がい者・障がい児心理学」を学んでいる。
 基本的に、各章ごとに教科書をさらい、ポイントだと感じるところにマーキングする。といっても、受講前なので当然ほとんどがマーキングされる。つぎにそれをスキャンする。ここ1年でMacintoshの標準OCRは大変進化しているので、おおいに恩恵をうけているどころか、それありきの勉強手順となっている。
 以前は、スキャンした文章を適宜トリミングし、それをまずグーグルドライブにいれ、ドキュメントで開く。するとOCR化されている。そしてそのひとつひとつのOCR化されたファイルをせっせと開き、ひとつのテキストエディットファイルにコピペして、集約してまわるという写経のような時間があった。それが今は、スキャンしたものを標準のプレビューで開くだけで、概ねOCR化、コピペが出来る形式になっているという進化は、本当にもう、以前には立ち戻れないほどに便利であるという感慨がある。
 しかし当然、このプロジェクトはそれだけで終わらない、学習に向かうためにそのコピペした要点たちを、A4のコピー用紙に印刷しブックにする。ブック化は、インデザインであらかじめ組んでい使用しているものの、テキストボックスのリンクがページを跨いで果てしなく続いているところに貼り付けをすると、完了する。そうしてようやく、教科書のポイントだと思われる部分を抜粋した、概ねの要点ブックができあがった。
 はじめて、放送大学の放送授業に進むことが出来た。しかし、ここがスタートラインなのに対し、残念ながら自分のモチベーションの半分ぐらいが消えていることを痛切に感じる。なにより、ここでモチベーションが途絶え、漫然とした集中力で授業をうけていると後に残るのは、打てばよく響く授業前と何ら変わらない頭脳である。こうしたことではいかん、もっと十分に内面化する手立てを考えなければ、ということで、アウトプットし、学んだことをもう一度体系的に俯瞰したい。しかしこれが続くとは思えない。はたまたしかし、やらない悪よりやってすぐやめる悪を選ぶ道に、万に一つ体系化されるかもしれないという希望があるのである。

 ※以下、教科書の抜粋の要約の抜粋し。「障がい者・障がい児心理学」の編著者は古賀精治さんで、この章の著者は藤野陽生さん。内面化のためにざくっと勢いでまとめているため、誤解している内容も含む。

1・社会における「障がい」の変遷

 まず、障がいとはなにか。
 社会の中には、本当にさまざまな人がいる。普段わたしたちはそうした多様な人をカテゴライズするが、隣人をぱっと見渡しても、そうしたカテゴライズがいかに無意味であるかがわかる。生まれ持ったもの、その後の環境で獲得したものの組み合わせから来る、心理的、精神的なものを想像するだけでもそれらが多様であることが想像できるし、環世界という枠組みをもっている生命体としての個々人を想像してみても、やはりそれをどう捉えるか、どう反応しているかは、ダニやウニのように単純ではない気がする。それが、「健常者・障がい者」という2ラベルでの仕分けとなれば、尚更だろう。しかも、「常に健やかなる者」というレッテルを改めて眺めると、うんざりする。市井を何もわかっていない賢者の物言いだ。
 さて、「人間は二種類に分けられる」という文言は、シティボーイズのコント上でおなじみであったほど突飛なギャグであるのに、こうして未だ、「健常者・障がい者」というレッテルが存在しているのは、なんだか妙な思いもする。ちなみに、シティボーイズ風に言うと、人間は「小銭入れを持っているものと、持っていないもの」に分けられるし、「立っていると力を出している人と、出していない人」に分けられていたりした。
 では、障がいとはなにか。
 定義上では「物事の正常な進行や活動の妨げになるもの」とあり、さらに「個人的な要因や社会的環境によって、心や身体上の機能が十分に働かず、活動に制限がある」といった個人の置かれた状況が表現されている。ここで、「正常」や「十分に機能している」というのは、いわゆる「健康」とされる状態で、世界保健機関WHOでは、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」と規定されているという(WHO・1946)。なんという厳しい規定だろう、と驚く。果たして「正常」や「十分に機能」が、誰が判定し誰がそう認定しているのか、という疑問もさることながら、「すべてが満たされた状態にあること」という規定に、ほとんどすべての人類がそこに到達できそうにも無いという戦きがある。ここにも、市井から離れた賢者の存在がチラつく。
 こうした「満たされていない」あるいは、「妨げられている」状態が、「障がい」や「病気」なのだというのなら、もはやそれは現代においては「健常」であるのではないか、という思いが噴出しないでもない。とにかく、障がいとはそうしたような何かしらの「状態」を含んでいるものだと規定されているし、事実多くの人が、そう理解している。

2.障がいに関わる世界の動向

国際的な動向

デンマークでは、1959年知的障がい者法が制定。これは、バンク=ミケルセンの提案に端を発した「ノーマライゼーション」が牽引した流れであるという。「知的障がい者の生活を可能な限り通常の生活状態に近づける様にすること」と規定された。この思想はスウェーデンのニーリエらがさらに発展させ、「ノーマライゼーション」の対象は知的障がい者の枠を超え、社会の中でのイメージや理解に大きな影響をもたらした。
1975年には国連「障がい者の権利宣言」を採択、「基本的人権」「尊重」「差別からの保護」などの内容を再確認する。さらに国連は1981年「国際障がい者年」と位置づけ、1983年から1992年までの10年間「障がい者の10年」に定め、「障がい者に関する世界行動計画」が策定された。これによって日本も本格的に運動が導入され、それは世界同時的に波及していった。
 この10年が開けて1994年「サマランカ宣言」。特別支援の必要な子どもを含め、すべての子どもを包括する様な教育システムの改善が図られた。これによってインクルーシブ教育の原則を取り入れる必要性の土台が敷かれた。この宣言もまた、日本国内では特別支援教育の推進の契機となる。

日本における動向

 デンマークに先駆け、1949年「身体障がい者福祉法」が敷かれる。当然第二次世界大戦の余波を受けたものだろうと考えられる。そして後1950年「精神衛生法」1960年「知的障がい者福祉法」1970年「心身障がい者対策基本法」によって示されたものが主要なものになっていく。この基本法のなかでは「長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受ける者」が「心身障がい者」であると理解することが出来る。
 その後少し時間がたち1993年「心身障がい者基本法」が改正、名称も「障がい者基本法」に変更された。心身以外にヒトに何があるのか、という根本的な議論がされたのかもしれない。2011年にはさらに「障がい者基本法」が改正、その第二条のなかには「発達障がいを含む」ことや、特に大きな改正は、単に障がいによって日常生活や社会生活に制限を受けるというだけでなく、「社会的障壁障がい」によっても生活や社会活動が制限される、一切の事物、制度、慣行、観念そのものも包括された事である。これによって、障がいが単に個人の特性による者だけではなく、社会の状況によっても影響されると言う観点が含められた。こうした流れで考えると、考えると、しかし「障がい」というものはやはり個人のものだという認識が広く、社会的障壁への認識はまだまだ浅いと言えるし、年数で見てみるととても最近まで、状況は動いていなかったのだ、と痛感させられる。

近年の障がいを巡る動向

 しかし、2006年国連で採択された「障がい者の権利に関する条約」(障がい者権利条約)は世界に大きな影響をもたらした。国によっては依然障がい者の人権が侵害されることが容認されるという状況が続いていたからであり、そうした問題のために法的拘束力のある条約の必要性が認識された上で、制定されたからだ。条約を批准した国は、それぞれの国において理念の実現のための施策を実施していくことが盛り込まれた。こうした流れは、2006年以前で言うと優生保護法の問題からつながっているし、2006年以降で言うと、合理的配慮の浸透の流れにも繋がっていくポイントであると感じる。

3 WHOによる障がい理解の枠組み

 まず、「障がいによる生活への影響にもいくつかの側面があることが認識されるように」なったのが1980年代だという書き出しがおそろしい。やはり道徳的な世界は未開であると言わざるを得ない、という気にもなる。(当然それ以前から分類はあったのだろうが。)1980年、WHOは「国際障がい分類ICIDH」を発表。「機能障害」「能力障害」「社会的不利」という三つの次元に捉えるモデルである。疾患や障がいによってに「機能障がい」が生じ、そのような活動的まひによって「能力障がい」がうまれる、そしてその結果として社会参加がかなわないなど「社会的不利」が生じるというモデルである。これらに沿って考えることで、個別対応的な次元で捉えていくことが出来る一方、ICIDHの捉え方では「障がい=機能障がい、能力障がい、社会的不利」であるというネガティブなイメージ付けにもつながり、誤解を生むという指摘も多かった。何を持って社会的不利か、というポイントを、誰がいつ成すのか、そこに当事者との十分なコミュニケーションはあるのか、という最初の疑問は、ここでも起き上がる。つまり「障がいをもちながらも社会的に活躍している人たち」を十分に表現できていないし、そうなることが前提のとらえかたでなければ、当然だめである。
 そうした流れをうけて、2001年にはICIDHは国際的な議論を経てICFに改訂される。構成する概念は「社会的不利」のようなネガティブなものではなく中立的な用語によって拡張された。ICFでは個人の障がいだけではなく、環境の要因や個人因子も含めて考えていくことが重要だと改訂されている。つまり、たとえば下肢に麻痺がある人を考えたとき、「環境を改善」することで「社会参加」がしやすくなり、それが「意欲」につながり「機能改善」に影響する、といったように、ポジティブな捉え方に加えて、一方向の要素間移動では無い有機性がうまれているように感じる。今日では、支援の理解のための基本的枠組みとして用いられている。なにごとも、マイナス面に着目しないでプラス面に着目した方がよい、ということが、ここ数十年の流れを見てもわかる。モンティパイソンのブライトサイドオブライフはリリースが1979年。ICIDHはこの曲を今一度しっかり聴いてからリリースしたらまた違った方策になっていたかもしれない。

4 障害のある人への心理的支援

 精神的心理的苦痛、人生の苦悩に向かっていくために心理的支援が必要である。心理社会的課題の理解は、社会との関わり抜きにしては考えられない。そのために家族、地域、それらを取り巻く社会、時代背景といった観点も重要である。ICFに代表されるように、社旗後の関係や環境から逆算していく観点は非常に重要だと感じる。性格や特性、家族背景、地域や社会との関係などから多角的に理解し、支援しあっていく…と記述すると、大変あたりまえの、人、みなに言えることだなあ、と思うのであった。

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