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メンタルモデルを知る旅#1-私が持って生まれてきた最大級の美しい願い

ミヨシダイスケさんのメンタルモデルの個人セッションを受けてみた体験、気づきを文字にしておきたいと思います。

メンタルモデルのワークを通じて気づく、一人ひとりが生まれて持ってくる本来の願いは、ひとつひとつ、その人自身のとてもユニークなものだそうなのです。私のこちらのメモも、一義的には自分のために書きます。

一方で、ミヨシダイスケさんのnote記事や、グループワーク等を通じて、他の方の旅路を見せていただいたことが、個人的にはとても恵みだったので、このテーマが気になっている人にも届いたらよいかな、と思っています。

メンタルモデルって何だろう、と気になったのはこちらのnoteがきっかけ。


はじめに

メンタルモデルに向き合ってみたかったという動機も大きいけれど、実は、ミヨシダイスケさんの考えや世界観にもっと触れてみたかったという気持ちもあったので、セッションを受ける機会・時間そのものがとても嬉しかった。

特に心に刺さっていたのが、ダイスケさんの「#あなたの美しいところ」を本に集めるプロジェクトに紹介されていた詩人ルーミーの言葉。

"The beauty you see in me is a reflection of you."  Rumi  

あなたが私の中にある美しさを見つけることができているんだったら、その美しさはあなたの中にもありますよ。という言葉が、すごく心に響いた。

ダイスケさんのプロジェクトを紹介する記事の中で「それでも人間は、美しいんだ」という希望の確証のために、この本を創って、世界中に旅立たせているということが書かれていた。

「それでも人間は、美しいんだ」という言葉を、そのまますっと受け入れることができない(だって、自分のことすら美しいどころか好きと思えないのに)という自分と、何かどこかでその信念に共鳴しているような自分がいた。

このメンタルモデルの個人セッションを受けて、ずっと感じていたのは、ダイスケさんは本当に「人間ひとりひとりの命が持って生まれてきた使命の美しさ、命を生きる美しさ・喜び」を心から信じているし、自身でも体感しているし、そして、いろんな方々の命の美しさに触れたり見たりしてきた方なんだな、ということでした。

私は、治したいところがあるから医者に行くような、たぶんそんな感覚に近い動機で、セッションを申し込んでいたと思います。だけど、ダイスケさんからは、悪いところを良くするというスタンスは感じられなくて、それよりも「一人ひとりの人間が持って生まれてきた使命といのちそのものの美しさ」が誰にでもある(=私にもある)ので、その一人ひとり唯一無二のいのちの美しさを見ること・旅路そのものを伴走すること、が心からの喜びだし、楽しい、と感じているんだなと心底伝わってきた感じがありました。その楽しんでもらっている感じ、は、自分のことが嫌いになりすぎてしまっていた自分にとって、とても有難く感じました。

私がこう感じただけですが、でも、書き残しておきたいと思いました。

私の困りごとはどうして起きている?

ここから、セッションの中身の振り返り。

まず、どうしてこのセッションを受けようと思ったのか、自分が日常生活で一番困っていて、自分で何とかしなきゃと行き詰っていることは何かを話すことから始まりました。

私はメモ魔で、テープレコーダーのように逐語録してしまう癖があるのですが、ダイスケさんは大切なことだけ抽出して文字にしてくれました。

それがこちら。この「体験」と「行動」の部分を取り出しました。

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そう、私は自分が望んできた場所・仕事のはずなのに、

①目の前の仕事に集中できなくて
②やり遂げられず(もしくは異様に時間がかかり)
③そんな状態を誰にも相談できず
④自己嫌悪に陥っている状態

がもう数か月も続いていることに、とても焦っていました。
最近は、焦りを通り越して自暴自棄にもなりかけていました。

そう。私は困っている。自分の行動に困り果てて、直したいと思って、このセッションに申し込んでいる。というのが大前提。

そこに、ダイスケさんはこんなと問いかけをしてくれました。

・その自分で嫌だと思っている目の前の体験は、それよりも悪い「あること」が起きてしまうよりはマシ、だとおもって自分で選択している。
・仕事をやり遂げられない自分が心底嫌だと思っている私は、なにかを避けたくて「わざと仕事をやり切らないようにしている」。仕事をやり遂げないことによる美味しいメリットがあるから。
・どんな事態を避けたいと思っているからなんだろう?

ええー、そんな。こんなに苦しんでいるのに、それよりも大きい痛みを回避するという美味しいメリットを無意識に選んでいる?いや、自分では全然わからない。なんだろう。。

・何か、やる気を失わせている原因がある。
・内発的な動機、情熱が沸くものだったら、やる気が自然とでるはずだし、内発的な動機でないと、持続可能じゃない。
・私は今、どんな仕事の決め方、やり方をしている?

仕事の決め方、と言えるか分からないけれど、複数のタスクがあって、やり切れないと思うときは「やらなきゃまずい」と思うものからやっている。
それが重要だったり、緊急だったり、やらないと自分が恐れを感じるものからやっている。「責任」「恐れ」の気持ちからやっている。

・責任を果たす、成果を出さないと、自分はダメだ、って思うんだね。
・なんでだと思う?自分が子どもになったつもりで「だって…」で、理由を続けてみて。心の奥の、本音が聞きやすくなるから。

こうして少しずつ、「行動」の奥に隠れている「信念」に近づいていく。

◇なんで、責任を果たさないといけないの?
だって、責任を果たさないと見捨てられてしまうから

◇見捨てられてしまうとどうなるの?
クビになる。この組織に戻ってこれない。見切られる。

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その過程で、自分が1年前くらいにふとしたきっかけで聞くことができた、自分のインナーチャイルドの声を思い出した。

心の奥の小さな私は、お母さんに「生まれてきてしまって、ごめんなさい」と思っている。

私は、お母さんに愛してもらった、大切にしてもらった感覚を持っている。だから物心ついたころから、お母さんのことが大好きだった。幼稚園に行くとき毎朝、今生の別れを拒否するかのように、全身で泣いたことも覚えている。

そのくらい大好きなお母さんは、生まれ育った家庭の境遇も恵まれていなかったけれど、嫁いだ家庭はもっと理不尽な思いが続くお家だった。

私は最初に生まれた子どもだったから、幼い頃から、お母さんが理不尽な思いをしているのを間近でずっと見ていた。それで、もし私が生まれてこなかったら、お母さんはこんな家をしがらみなく捨てて、他にいい人を見つけて、自分の幸せをもっと追求できたのではないかって、何度も思っていた。

。。。でも、待って。この「生まれてきてしまってごめんなさい」という声と、私の今の困りごとってつながってるの?

自力ではそれ以上進めない私に、ダイスケさんは助け船を出してくれた。

一回、死んでみた

・今の状態のまま死んだら、私はどう感じるだろう?
・周りの人は、私の葬式で私のことをなんて語ると思うだろう?

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◇いま死んだら、人生を終えた私は、こう思うだろうな。
・つかれた。休みたい。
・つまらなかったな。
・忙しそうにしていたけど、雑事にばかり追われて人生終わっちゃったな。
(なんでそんな言葉が出ちゃうかというと、頼みごとを断れない、断らないことが多いから)

◇そんな私を囲む友人は、こう言うかもしれない。
・「いい人」だったけど、仕事はできない人だったね。
・人あたりよさそうに見えていたけど、本当にどう感じているのか分かりにくい人だったよね。結局、どんな人だったんだろう。
・(一見、やりたいことを実現しているように見えているので、実際にはそうじゃないのに)やりたいことをやって生きていたよね。(という友人も、もしかしたら一定数いそうな気がした。でも言われて嬉しいとは思わない)

◇・・・そんな人生、幸せ?
・いや、幸せじゃないなぁ。

本当は、死に際にどんなことを思いたい?
・あー、楽しかった。
・自分が本当にやりたいことに人生を使えた。
・(終わらない仕事で、大切な家族や友人と過ごせない毎日が繰り返されるのではなくて)大切な人を大切にできた。
・自分が好きな人たち、共鳴する人たちと一緒に、自分の命を生きられた。

・ここまでのところで、今何を感じていますか?

と、度々ダイスケさんは聞いてくれた。
私が自分の感じていることを言葉にした後、ダイスケさんが感じたことも教えてくれた。

コーチング的なサービスのように捉えると、教科書的には、コーチが感じたことをあまり積極的に言葉にしてしまうと、結論をリードしてしまうような感じになって、推奨じゃないのかもしれない。

だけど、ダイスケさんが思ったことを言葉にしてくれたことは、自分だけでは言葉にできなかった部分にも光があたり、私にとってはとても有難かった。

・生まれてこなきゃよかった、と思っている時点で、マイナスをゼロにしようと思っているような「罪ほろぼし」のように生きているところがあるのかもしれない。
つぐなうことが前提の自己卑下からスタートしている。自己肯定感も低いから「下手(したて)」になる。頼みごとを断らないのもこういうタイプの人が多い。

「罪ほろぼし」という言葉は、自分では出てこなかったのに、心からそうだと思った。心に響いたせいか、頭で同意するより先に、涙が出てきた。

母の自由を奪ってしまった私は、自分が受けた教育を、母と似た境遇の人を救うために使い、自分の人生を他の人に役立つよう使い切って死ななくては、と思っていたし、今でも思っている。

ここで揺らいでしまう。
ずっと一人で気になっていたけど、蓋をしていたことに。
自分が今、携わっている仕事のテーマは、母への想いを含む原体験が原動力となっていることもあって、特定の社会の不条理を目の前にすると自分ごとのように憤りを覚えるし、その怒りのようなエネルギーが、自分の仕事の情熱のようになっている。
今のところ、そのテーマを仕事にすること自体を変えようと考えたことは無かったのだけれど、でも、もしかしたら私はこの原体験に縛られすぎているんだろうか。変えなくてはいけないんだろうか。
所属する組織や取り組むテーマそのものを。

そんな不安を拭ってくれたのは、ダイスケさんの以下の言葉たち。

人間が満たされながら生きられるかどうかは、取り組む仕事の中身によるのではない。そのテーマや内容や所属先なんかは、何でもいい。無理に変える必要もない。
・私がいる職場(組織)や仕事内容自体には、何も問題が無い。自分の「起点」だけが問題、と捉えてみて。何を自分の行動のソース・起点・動機としているのかが大事。今の職場にいても「起点」は変えられる。

ここまで聞いて、自分の中でこんがらがっていた部分がほどけて、すごくほっとした。そうか人生で取り組むテーマや所属する職場を変えるかどうか、じゃなくて、自分の「起点」を変えることに向き合えばいいんだ。

その上で「恐れ」「痛み」を見つめていく。

・今、肉体が「恐れ」を感じていて、その「恐れ」を回避することが起点となってしまっているから、心からやりたいことと思えないし、楽しくない。楽しくない感じ、はその起点から発生している。
その恐れの中には、人から必要とされるかどうか、が含まれているから、頼みごとが断れないし、頼まれごとばかりしているから、自分の本当にやりたいと思っていることができていない(仕事のテーマではなく、タスクベースで、取り組み方・内容として)。
・人のリクエストに応えた方が(人から必要とされて)良い、と思っているから、本当にやりたいと思うことを、やらなくていい仕組みが出来上がってしまっている。
・それを続けてしまうと、どうなると思う?

使い捨てられる。自分が疲れて、消耗してしまう。

・実は、私が一生懸命がんばっている「相手の期待に応えること」と、痛みから無意識に求めている「人から必要とされること」は、実際のところ、同義なのか、同義でないのか、本当のところは誰にも分からないんだよね。どっちともいえる。正解が無い。
・その正解が無いことを事実と信じ込んでしまっていて、それが行動を裏付ける信念となってしまっている

ダイスケさんの言っていること、頭ではわかる。
でも・・「だって」・・・相手の期待に応えなかったら、責任を果たさなかったら、会社だったら実際問題、クビになる。

・今いる場所で、切られたら、切られたで仕方ない。ベストを尽くして、クビになったら、それを受け入れるだけ。
・その今いる会社でクビになるかどうか、と、人間として必要かどうかは別問題。人間の存在の必要性が揺らがないという意味では、クビになってもいい。それはそれで、学び、としてプレゼンテーションできる可能性があるから。

「クビになってもいい」という言葉に、なぜか、ほっとした気持ちになる。


「行動」や「信念」より先に存在していた「痛み」

・本当は「責任や役割を果たさないと」という動機よりも、「生まれてこなければよかった」「自分がいない方がよかった」と感じた方が時系列的には先なんだよね。その気持ちを払拭したいから、今の行動を選んでいる。
・いらない子なのに存在してしまっているから、役割を果たせば居てもいい、よかった、と言ってもらいたい気持ちがある。

「役割を果たせば居てもいい、よかった、と言ってもらいたい気持ちがある」という言葉に、相槌を打つよりも先に、涙が出てきたから、そうなんだな、と気づいた。

ここから「痛み」の奥の「本来の願い」に向き合う。
一人では見えない光に気づかせてもらう。

・その「痛み」は「本当は、こうあるはずなのに無い」というショックから生まれている。「こうあるはずなのに無い」という気持ちがあるということは、「本当は世界にはこれがあるべき」と何か信じているということ。
・「本来の願い」の分類や類型はあるけれども、一人ひとりが、何を信じている子として生まれてきているのか、生まれて持ってくる本来の願いは、ひとつひとつ、その人自身のとてもユニークなもの。
私が「痛み」として表現した「生まれてきてごめんなさい」も個性であり世界観。最大級のスケールのやつ。聞いた瞬間に「すごく美しい」と思った。
・「生まれてきてごめんなさい」という「痛み」を裏返すと、本当は「生まれてきてよかった」と、まず自分がそう思いたいということ。
・そして、その「本来の願い」は自分だけに向けられているものではなく、自分を含む誰もがそう生きられるようにあるべき、と信じている自分の世界観を表している。
自分を含む誰もが生まれた意味を持っていて、生まれた意味を全うできるような世界を体現したいということ。この世界にいる人間といのちの全てが存在する意味があると信じて生まれてきたということ。

言葉にしてもらった「体現したい世界観」はとてもしっくりきて、すとんと心に落ちて、思わず「そうそうそうそう」とめちゃタメ語で相槌を打った。

あと、毎日消えたいと思うくらい思い詰めていたので、「生まれてこなければよかった」という痛み(と共にある、本来の願い)を「最大級のスケール」で「すごく美しい」と全肯定してもらえたことに、とてつもない安心感があった。

ダイスケさんとは携わっていた業界が少し重なっていて、ダイスケさんの思ったこと、感じたことをさらに続けてくれた。

・(マザーテレサに感銘を受けたことが、私が今の仕事に就いているきっかけになっていることに対し)私がマザーテレサに感銘を受けたのは、彼女が実施する社会課題解決手法やソリューションとしての美しさ・精巧さに共感したのではなく、この世界にいる人間といのちの全てが存在する意味があることを行動で示し続けたその「在り方」に共鳴したのではないか。

原点回帰。

自分の職業選択のきっかけがマザーテレサである、という話は、質問される度に、自分がテンプレのように答えていたことなのだけれど、当時マザーテレサに受けた衝撃(共鳴)と同じような感覚を今も持ち続けていることに気づいて、とても驚いた。

実際に仕事として目指していた分野に携わるようになって10年経っていて、でも心の体調をやられてしまいやすく、自分のことが好きになれず、苦しんでいた。マザーテレサの何に共鳴していたかなんて、ずっと忘れてしまっていたと思う。

少しずつ、自分の混乱が整理されていく。

・仕事のテーマをマザーテレサに近いものにしたのに、それだけだとなぜか苦しかった。それがなんでだか、ずっと分からなかった。

・なんでか?所属先や仕事内容が問題だったのではなく自分自身の「在り方」が満たされていなくて、自分自身が体現したい世界観とかけ離れているからだ。

・自分の心が願っているのは、自分を含む、この世界の人間といのち全てに、存在する意味があり、それぞれが生まれた意味を全うできるような世界を体現したいということ。

・でもでも。自分が携わる業界柄、こんなことは周りも自分もかなり自明のこととしてコンセプトを言葉にしているんだけど、ミッションが自分の感覚や感情を上滑りしていくようなところもあった。

・なんで上滑りしていたのか?自分自身が生まれてきてよかったと、自己承認できていないから。私が自己承認をして「生まれてきてよかった」と心から思う、自分自身を放つ生き方ができれば、周りも、生まれてきてよかったかも、と安心できる。のかもしれない。

私は「生まれてきてよかった」と思いたい。そう思っている自分をこの世界にもたらしたい。

このエネルギーがふつふつと湧いてくる、この感じを覚えておく。

宿題の備忘録

うまくとりくめなかったものもあるけれど、セッションの後にとりくんだらいいんじゃない?とダイスケさんに提案してもらったことをまとめておく。

1)日常の自分のアクションを観察してパターンに気づく。
「恐れ」を回避したい気持ち、そこから出てしまう「行動」、「またこの感覚だ」「またこの感じが起きちゃってるな」というポイントに気づくこと。「また不本意な行動を繰り返してしまっている」みたいに自分を責めなくていい。自覚ができたら、塗り替えられるチャンスだから。こんなにチャンスがあるんだと、それを解決しようとしなくていいから、マインドフルに自覚してみる。
2)幼いころの「痛み」と関係している母に「痛み」を打ち明けてみる。
できたら「生まれてきてごめんなさい」と感じている痛みを、母に話してみる。おすすめは「ただ聞いてくれるだけでいいんだけどさ」という枕詞。助言とかジャッジはいらないよ、自分は責めるつもりはないよ、という意味で

セッション後も「痛みを回避するための不本意な行動」を簡単には克服できておらず(ダイスケさん的には「痛みの克服」じゃなくて「痛みの存在の受容」を勧めてくれる気がしますが)、試行錯誤している毎日です。

「痛みへの恐れ」に囚われてしまいやすい自分の備忘録のために書きました。

もしこのテーマを必要としているかも、という方に届いたら、それはそれで、とても嬉しいです。