自分が死ぬか推しが死ぬか

とあるネットのアンケートにふと目が止まった。
それは「推しが死ぬか自分が死ぬかならどっちを選ぶか」みたいな話。
他愛もないけど何か考えてしまうようなそんな話。

結論から言うと自分は自分が死ぬ方を選ぶ。
勿論コメントには「自分が死んだら推しを推せなくなる」「所詮他人だし、乗り換える事も出来るが自分は一人しかいない」というコメントが目立っていた。自分が見たときはほぼ半々だけど自分が死ぬ方が嫌だと言う人が多かった。
推しが死ぬ方が嫌だという人には何故か批判が集まっていた。

推しの定義って何なのかがいまいちよく分かっていない、軽く推せばもうそれは推しなのか、人生を捧げると言い切って初めて推しになるのか。

私は趣味もあるし推しも存在するがキャラクターが好きなのであってリアルの人間を推した事は産まれてから一度もない。
たまにあるのがスパチャ批判とか、私もした事はないが自分の出来る範囲でやってるなら他人がどうこう言う筋合い無いのではないだろうか?と思う。仮にそれで破産しようがその人の人生だ、むしろ推しのためにそこまで出来たのが嬉しいという人もいるかもしれない。
二次元ならコラボカフェで料理を頼んだり、祭壇を作ったり、絵を描いたり…など色々ある。三次元でもライブやグッズ、ファンクラブ等沢山の要素があるだろう。
それら全てを含めて尊いと思う、何か人間って良いなって、充実してるなって思う。
私は人生がつまらないと思って未遂をした時に初めて推しに出会った。その時はもう何か泣いた。
それで良いんじゃないか?推しって人生を彩る者そのものなのではないか?生きている証拠なのではないだろうか。
例え他人が「ただの絵」だとか「よくいるアイドル」とか言ってても自分からしたら「その人しか勝たん!」なのだ、他人の言葉を気にしてたらきりが無いだろう。それで意見を変えるなんて以ての外である。

そして私ははっきり言うが自分が好きだ、嫌いではない。だからこそ自分が死ぬ方を選ぶ。
矛盾しているかもしれないが推しが死ぬのは見たくない、それで自分の人生に彩りが無くなるのが嫌という何とも自分勝手な言い分である。自分と推しを天秤にかけたら圧倒的に推しでしかない。
推しには生きていて欲しい、何年何十年経っても笑ってほしい。
自分が死んでも推しを最期まで推せたというだけで人生勝組だろう、証拠はあらゆる場所にある。

勿論どっちの意見も正しいからどっちが良いとか悪いは無い。そりゃ生きてる方が色々な推しに会えるかもしれないし金を使って貢ぐ事も可能だ。
しかし片方の意見を自分の匙加減で判断して非難するのは絶対に間違っている気がしてならなかった。
私は別に自分の命を粗末にしてるわけではなく、推しの存在が自分が生きる上で最も重要というだけの話だ。
みんなはどっちなのか非常に気になる所だけど今日は思い付きで書いただけなのでここで終わりにする。

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