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たとえ、飢え死にしようとも、孤高に生きるのか、という話

こんにちわ、というか腰が強く痛いときがたまにあるbioscienceです、まだ、ヘルニアは治っていません。
私はヘルニアが慢性疼痛化したので、今は働けませんが、もともとの趣味の読書をしています。ていうか、あんまり、仕事の休みの日の内容と変わってないですね。
ただの仙人なんじゃないかと思いました。
まあ、仙人にすらなれてないけど、良くて菩薩ですかね。
私はいろんなジャンルの本を読みますが、唯一、あまり小説を読みません。理由は分からないけれど、なぜか自然科学系でも人文社会科学系の専門書か実用書ばっかりです。
そもそも、読書(8割積ん読)か料理の材料、または、調味料にお金を費やしていますので、部屋が狭くなる一方で、あまり買い物を控えている最中なんですけどね。
今、たまたま、フランス文学者の鹿島茂さんのラ・フォンテーヌの寓話を紹介した本を読んでいて、「たとえ、飢え死にしようとも、孤高に生きる」という話が書いてありました。
よりよく生きたいという森田正馬の言うヒポコンドリー基調の私でなくとも、死は誰でも怖いものですが、話に出てくる犬のような宮仕えもいやだなと思いました。
でも、果たして、今、死が怖いのかという疑問というか侵入思考が私の脳裏に浮かびました。
読者の皆さんがどうかは分からないけれど、私が思ったのは
①殺伐とした仕事場で嫌味やら陰口やらが跳梁跋扈しているのがだいたいの仕事場で、そこでやりくりするためには、気に入らない同僚とも仲良くしないといけなかったり、独りだと今日の上司の機嫌の情報が入らなかったりして、手に入れている情報に差があったりして困ったりしているという想像です。
②そういう嫌味や陰口で本業の仕事に、100%精を出せない環境だったりして嫌だし、不満である。まあ、これは100%労力を注入したいという願望そのものがあまり現実に即したものでないかもしれないですね。ていうか、①、②とも私がどれも作業所で思った実感ですかね。
③これは結婚していないぼくにはあんまり想像できないけれど、うちの親が仲が悪くて、家の中でも殺伐としていたのが嫌でしたので、仕事をして帰っても、だいたい、親子喧嘩か夫婦喧嘩でストレスなのは地獄でした。
だから、こういう環境だと死にたくなるのは分かる気がします。
でも、もちろん、自死はお勧めしませんし、来世は良くて存在する確率50%ですし、ぼくはやり残したことがまだまだあるので、悔しいので死にたくないですね。
しかし、ふと希死念慮が頭を過ることはありました。
なので、選択肢が二つしかないのがまた、ジレンマですね。
生殺しでずっと生きるのも自由なんてないし、いやだが、死んだら元も子もない話ですよね。
でも、フランス人はどうやら、自由を選ぶらしいですね。
まあ、本の話をよく読んでいると空腹で死んだと確定したとして話を進めているけれど、もしかしたらほかの人(J.J.グランヴィルなので、動物のような人間ですが)が他愛の精神で助けてくれる可能性に縋り付く自分が嫌だなと思いながら、死にたくもないし、これは自分の浅薄な頭では答えは出ないなと思いました。
今日は、また、詩を思いついたので、詩を掲載します、よろしくお願いします。
BGMは今日は聴いてません、すいません。

No more conceited
酒を飲むといつもより息巻くクズの親に産まれて、
何が嬉しい?
誰が嬉しい?
酒を飲んでない時でも、それを家に持ち帰って
被害妄想であいつがああ言った、こいつがこう言ったと
狼狽したように愚痴を宣う親の息子で
何が楽しい?
誰が楽しい?
親の金と名誉があるだけなのに、自分は恵まれていると
信じ込んで、宗教だけが救いの宗教バカのアホの息子で、
誰が救われる?
何を救ってくれる?
結局、金持ちのボンボンの息子じゃダメなんだ
経験も人望もないネガティブなクズ
いつも、会社の愚痴
いつも、宗教の説教
金のない無宗教の人情のあるクズのほうが
よっぽどマシだ
そう言って他人の所為にしている俺も
クズかもしれないけれど
反面教師のアホがいるから
まだ、救いだな


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