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誰も知り合いのいない所に行く。


「誰も知り合いのいない所に行きたい」と常々思う。生きているとなんとなく「あっちの方に行けば皆んないる」とか「あそこに行けば答えがあるっぽい」みたいな気分で走り出してしまうことが多々あるのだが、そういう走り方をし始めた途端に、発する言葉の全ては他者とコミュニケイトする(した気になる)ための道具でしか無くなってしまう。探求の道具であることをやめてしまう。

そもそも、「みんな」なんてどこにいるというのか。

今仮に「みんな」と呼ぶことができる「みんな」が居るとして、あるいは在るとして、それが明日も来年も、10年後も「みんな」である補償なんてないのだ。みんなと同じ方を目指して、みんなに会えると思っていたのに、そもそも「みんな」なんてどこにもいないことに気づいて絶望するんじゃないか。その日のことを思うとすごく怖い。

だからやっぱり、誰も知り合いのいない所に行きたいのだ。少なくともそこには、「誰も知り合いがいない所に行きたい」と思ってやってきた人達が集まっている。
そこにはきっと、目指す前には想像もつかなかったような世界が在るに違いない。
日常に埋没している、すぐそこにあるのに誰も気づかない、もう一つの別な世界。

言葉が他者を求めず、探求の道具であることに専念し始めた時、私たちは本当の意味で自由になれる、気がする。

優れた評論を読み、世界の見方が変わった時のような感動を、ひたすらに繰り返していたいなあって思うのだが中々難しい。
こんなことをこんな所に書いている時点で、難しいかもしれないな(あはは)

でも、そこにたどり着いた時、本当の意味で初めてこう思えるに違いないのです。

「私は、ひとりではない」ってね。

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