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【読書メモ】松本清張「或る『小倉日記』伝」

 松本清張が直木賞ではなく芥川賞を受賞していたことを知った時は驚いた。文学をジャンルで区切るのはナンセンスだが、『砂の器』や『ゼロの焦点』といった推理小説の分野で著名な作家、という前情報があったからだ。

 しかし、芥川賞受賞作の「或る『小倉日記』伝」を読み、これはまぎれもなく「にんげん」を描いた作品だ、と感じ入った。



 「或る『小倉日記』伝」の主人公、田上耕作は生まれつき身体に障碍を抱えながら、森鴎外が小倉滞在中に記しその後散逸していた「小倉日記」の内容を、関係者を直接訪ね明らかにしていく探究活動に生涯をかけ没頭していく。

 耕作が森鴎外、とりわけ失われた「小倉日記」に強く惹かれたきっかけは、幼い頃親切にしてくれたおじいさんの職業――「でんびんや」の思い出が偶然読んだ森鴎外の文章を通じよみがえり、その創作の裏側にある日記に「自分と同じ血が通うような憧憬」を感じたからだと物語には記されている。


 正規の研究者ではなく、ハンディキャップを抱えながらも献身的な母親や数少ない友人に支えられて在野での探究活動を進めていく耕作。森鴎外の親族に認められるなど着実に探究は進展していくが、第二次大戦下の苦しい暮らしのため病が重くなり、貧窮の中この世を去る。その後、失われたとされていた「小倉日記」が東京で発見される。「田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、幸か不幸か分らない。」という締めの一文が重い。

 誰かに求められてのことではなく、内発的な動機から行われる在野での探究は、時に愉しく、時に厳しい。実在した耕作の精力的な活動を踏まえつつも、松本清張は耕作の煩悶と苦悩を精緻に描き出していく。

 そんなことを調べて何になる――彼がふと吐いたこの言葉は耕作の心の深部に突刺さって残った。実際、こんなことに意義があるのだろうか、空しいことに自分だけが気負い立っているのではないか、と疑われてきた。すると、不意に自分の努力が全くつまらなくみえ、急につき落されるような気持になった。(中略)このような絶望感は、以後ときどき突然に起って、耕作が髪の毛をむしる程苦しめた。――松本清張「或る『小倉日記』伝」

 耕作にとっての「小倉日記」が、私にとっての「戦後日本オランウータン史」や「戦後日本チンパンジー列伝」、あるいは消滅した動物園跡地を巡った「『新訳 動物園が消える日』のための取材ノート」と重なった。文献を渉猟し日本各地を飛び回る中で、こんなことをして一体何になるのだ、と自問する日もゼロではなかった。書籍費や宿泊費、交通費として決して少なくないコストもかけている。誰かに請われてのことではないので、もちろんすべて自費だ。道楽ではないのか、浪費ではないのかと。

 しかし、やるしかない、という確信めいた思いに突き動かされてしまったのだ。私にとっての世界と関係を切り結ぶための道が、オランウータンやチンパンジーのファミリーヒストリーだったり、廃動物園の訪問だったというだけだ。他の誰かにとってその道は野球やバスケットボールといった競技かも知れないし、釣りや登山といったアクティビティ、あるいは耕作と同じ文学史探究かも知れない。そんな「道」など持たない、という人もいる。しかし、ある種の人間にとって、生計を立てるための稼業という意味ではないライフワークは、飛び切り大切なものなのだ。

 耕作の探究が戦争に阻まれたように、疫病禍によって大規模な移動や公共図書館の利用が制限され、私自身の探究活動も大幅に規模を縮小することとなった。しかし、探究に対する熱まで失われたわけではない。耕作が厳しい条件下で様々な事実を明らかにしていったように、そしてそれが生きる道になっていったように、ほんのわずかでも今関心をもっている話題についてまとめ上げ、光を当てられたらいいなと思う。

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