見出し画像

【園館等訪問ルポ:番外編】「複製技術時代」の動物園動物?――ヤマザキマザック美術館「木彫りどうぶつ美術館 はしもとみおの世界」(2017〜2018)



  「バーチャル技術や高画質の映像ドキュメンタリーがあるのだから、動物園は不要だ」そんな主張を、たまに見かけることがあります。


    現代の姿の動物園は、源流を辿れば西洋近代の産物です。近代以後――ポストモダンの信奉者の目には、「本物の」動物を見せる動物園も、ヴァルター・ベンヤミンがいう「アウラ」を喪失した、古い時代の象徴のように映っているのかも知れません。 野生下の姿を焼き付け複写した「バーチャルの」動物の方が制約の中で生きる動物園動物よりも「自然」なのだという意見は、一面的には「正しい」主張のように見えます。

    しかし、この意見は生命の重要な特質を見逃している、と感じます。それは、「個体」は映像のように無制限に複製されず、固有の同一性と有限性を持っている、という特質です。




    愛知県名古屋市新栄町。東山動植物園から電車で一本のヤマザキマザック美術館で、三重県在住の木彫作家、はしもとみおさんの個展が開かれていました。

    はしもとさんは飼い犬たちのほか、日本の動物園で暮らす実在の動物たちの姿をモチーフに数多くの木彫刻を制作しています。






    

    この木彫刻のモチーフは、「東山動植物園のマンジュウロウ」です。決して、一般名詞の「マンドリル」ではありません。はしもとさんの生み出す動物彫刻は、みな「名前のある動物」がモデルです。


   「名付け」は、ある個体に同種の他個体と異なる特質を認め、代替不可能な固有性を見出す行為です。 木塊から実存と手触りのある像を彫り出すはしもとさんの創作も、存在の固有性に向かっていました。

   たとえば3Dプリンターを使えば彫像を「複製」すること自体はできるかも知れません。しかし、木塊にいのちの姿を見出す創作のプロセスは、その時々、一回きりの営為です。ひとつのいのちが生きられる時間の一回性と、響きあっているように感じられます。



    

    アール・ヌーヴォー式の豪華な家具に囲まれて座るオランウータンの像。「多摩動物公園のキューさん」をモデルにしています。成熟し自信を得たオランウータンのオスはフランジと呼ばれる頬の襞が伸張し、その形はひとりひとり異なります。

     丸く正円を描くように広がったフランジは、紛れもなくキューさんの特徴です。何より、どっしりとした質感は、映像や画像だけでは完全にイメージできません。木彫りのキューさんは、はしもとさんが出会った日の彼の姿を、具象を伴って再現していました。


   いのちには、ゆらぎや微細な差異があります。現代の動物園で「個体」に着目する観覧方法が広がっているのも、ひとつひとつのいのちの代替不可能性に実感を持って出会える場として、園の在り方が見直されている証左ではないでしょうか。





「『なつく』ってどういうこと?」
「ずいぶんわすれられてしまってることだ」キツネは言った。「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ……」
「絆を結ぶ?」
「そうとも」とキツネ。「きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変わりもない。でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらはお互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみにとって、世界で一匹だけのキツネになる……」
――サン=テグジュペリ『星の王子さま』


    名前を付ける。懐ける。「今、ここ」に共に身体を置く。一期一会の縁を切り結ぶ。「非-時間/場所的なイメージ」ではなく、確かに同じ時空間を生きているいのちに向けて、心は動きます。



    実際に会い名を知る個体がモデルになった木彫刻群と向き合って、彼らの姿を通じ私が見ていたものは、ひとつひとつの種よりももっと大きな「いのち」の概念なのかも知れない、と気付かされました。



この記事が参加している募集

イベントレポ