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【怪談屋08】黒い蝶

※音声配信など、朗読に限り使用自由です。

魂は上りて神となり、魄は下りて鬼となる。
そして、百の物語が紡がれし夜、何かが起こる。
私の体験を記したものや、知り合いになった人から聞いたこと、あるいは創作など。

Tさんが、高校2年生のときの話だ。
祖父の通夜で、Tさんは母親の実家に来ていた。
祖父はある漁師町の網元で、大きな家に住んでいた。表座敷は特に大きく、通夜振る舞いのときに親戚一同が集まっても、まったく狭く感じないほどだった。
表座敷と仏間はふだん襖で仕切られていたが、通夜のときはそれが開いていた。Tさんは親戚たちが故人の話をしている中、視野の端にひらひらと漂う黒い影を捉えた。
祖父の遺体が寝かされている仏間に、黒い蝶が舞っていた。近付いてみると、十匹はいる。布団の脇では祖母が線香を焚いていた。
Tさんは表座敷を振り返り、親戚達の様子をちらと見た。
「あの人が魚を選別する間、船乗り猫たちがべったりだ。新鮮な魚をねだりに来てよ」
「ああ、ほんとに穏やかな顔だね。今にもむっくり起きあがりそうだ」
「よせよせ」
仏間の方を見る者もいたが、蝶に気付く様子はない。あれ、とTさんは首をかしげた。
(見えていない?)
Tさんはよく知りもしない親戚に声を掛ける気にはならず、仏間の祖母を見た。祖母も瞑目したまま念仏のような言葉を呟いていて、話し掛けられたものではなかった。母親でも呼ぼうか、と考えていると、幸い、その前にTさんの様子を見掛けた叔母が近くまで来ていた。
「どうかした?」
叔母に問われ、Tさんは仏間の蝶を指差す。
「黒い蝶がいる」
Tさんの言葉に、叔母はそうね、と頷いた。
叔母さんは自称霊感体質だ。そしてそれは、祖母から譲り受けた体質だという。その影響か、Tさんも少なからず不思議なものを見ることがある。
この時に見えた蝶も、どうやらTさんと叔母にしか見えていなかった。
叔母は布団の脇で祈るように目を閉じている祖母に声を掛けた。
「お母さん」
億劫そうに祖母が目を開ける。叔母は部屋を舞っている蝶を指差して示した。
「この子にも見えるみたい」
祖母は黒い蝶とTさんを見比べるように首を振って、ほう、と息を吐いた。
「あんたには見えても可怪しくはないと思ったけど、そう。この子にも……」
どうやら、祖母にも見えるようだった。
三人のいる仏間、十数匹の蝶が眼前を羽ばたいているにも関わらず、不思議と音はしなかった。蝶たちは線香の煙など気にする素振りもなく、しばらくくるくると旋回するように飛び、やがてすぅっと前触れも無く消えた。

その夜に、Tさんは夢を見た。
例の仏間の暗がりに、祖父が立っている。
顔を伏せていたので表情は見えなかった。白い装束に身を包み、胸の前で組まれた手には数珠が握られていた。
灯りは無かったが、祖父の姿はうすぼんやりと光っているように見えた。足元には、数匹の猫が祖父を慕うように群がっている。
「お祖父ちゃん?」
Tさんが声をかけると、祖父は無言で顔を上げる。安らかに目を閉じたその顔は、昨夜の祖父の遺体を彷彿とさせた。
ふと祖父の前を、小さな黒い蝶が横切る。
Tさんから向かって左側、本来部屋の壁があるはずの暗がりへ、光る燐粉をまきながら、蝶は遠ざかっていく。それに導かれるように、祖父と、猫たちは歩き出した。
(行ってしまう)
Tさんがそう思った時、祖父の姿が陽炎のように揺らぎ、消えてしまった。

仏間で叔母たちと見た奇妙な光景のせいでこんな夢を見たのか。それとも夢が、あの光景の続きだったのかは分からない。後に聞いた話では、黒い蝶は魂を運ぶ、と云われているそうだ。
この体験は特に奇妙だった、とTさんは振り返る。
「自分の霊感には気付いてましたけど、ここまで言い伝えと符号する出来事もあるんですね」

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