リフレーミングでお互い気持ちよく前に進みたい

はじめに

 僕はアパレル会社で働いている。22歳で大学を卒業後、ずっとこの会社に勤めている。かれこれ7年ほど経つ。2019年の春頃、会社と自分のタイミングが噛み合ったこともあって、運よく早めに店長の職をもらった。
 弊社に限らず、アパレル会社は離職率が高く、程度の差はあれどおおよそどこも人材不足だ。結構みんな助け合いながら、応援をもらって、なんとかやりくりしている。それが功を奏して、自分の店舗スタッフだけでなく他の店舗のスタッフと交流することも多い。

深夜のLINE

 ある日の夜、仕事が終わり帰宅、運営している店舗の今月の目標達成がかなり濃厚になったこともありいつもより少し濃いめのハイボールを飲んでいた。
銘柄なんだったかな、なんかラベルにフクロウが書いてあるやつ。関係ないけどお酒の味に対する表現って面白いですよね。また書きたい。
 午前0時前、何周したかわからない漫画「ここは今から倫理です」のn周目を読みながら飲んでいたところに、仲のいい友人からLINEが届いた。

相談

 友人は僕と同じ会社に勤めている。少し前までは僕の店舗に応援に来てもらうことも多く、よく一緒に仕事をしながら、お互いの職場の話も、プライベートでの話もしていた。
 そのLINEがくる前日も焼肉に行って公私問わず様々な話をしていたから、連絡が来ること自体はなんとも思わなかったが、そこで受けた相談が僕にとって重要な気がしたので、記事にしたいと思った。

相談の内容はこういうものだった。
1.「自分が変えた売り場を、変えた翌日、自分がいない中で上司に変えられた」
2.「組み違いに気をつけて」と自分の社歴や経験からするとあまりにも低いレベルでの注意喚起を上司にされた。
3.上のふたつのタイミングが重なって、上司から信頼されていないのかも?と感じた

友人の反応はその上司と同じ立場にある僕からしても真っ当なものだった。

社会的関係性と信頼

 友人はその上司のことを尊敬し、信頼している。
だからこそ、「信頼されていないかも」と感じたモヤモヤも大きかったのだろう。
信頼のエントロピーといったところか。
 ただ、書いた通り僕は上司と同じ立場だ。その気持ちがわかる反面、上司と僕が同じ状況に置かれた時、同じ選択肢を取る可能性は上司と同じだけある。取るべき責任、積んできた経験、持っている技量が相手と違う状況の中で、
「同じだけ信頼し、されている関係」は作ることが果たしてできるのだろうか。
 「できるのだろうか」なんて偉そうに問うてみたが、多分違う。「難しくてもその関係が作りたくて、そのためにどうすればいいかを考えたかった」から文字にすることで反芻し、答えを見つけたいということなんだろう。

 上司部下の間で信頼関係があるというのは仮にパフォーマンスだったとしてもそれだけでモチベーションが上がる。
店長になる前、僕は店長不在の店舗を運営していて、そこではいわゆる「統括」的な立場との店舗運営だった。
僕は決して仕事ができる訳ではなかったが、それでも客観的に見てその上司とは信頼関係がそれなりにあったように今となっては思う。
というのも、あんまり褒められなかったからだ。
 「認知的斉合性」という心理学用語がある。これは「自分に能力がない」と思っている人は、相手から褒められることより「ここができていない」と言われる方が「私のことをわかってくれている!」と感じる現象のことだそうだ。この言葉を知ったときエウレーカ!だった。
あまり褒められず、どちらかというと指摘の方が多かったのは「店長にしてくれ!」と常々言っていたからかもしれないし、「コイツは何言っても辞めない」と思われていたからかもしれない。

後者な気がする…。
実際辞めてないし、異動後もいまだにその上司には何かあったとき教えを乞う。
術中だ…。

 「信頼」は「安心」とは似て非なるものだ。伊藤亜紗ほか14名共著「わたしの身体はままならない」の中で彼女はこう綴る。

「安心」という感情は、状況をコントロールできているという想定によって生まれる。これに対し「信頼」は、コントロールできない状況においてこそ必要になる。相手が自分の思いとは違う行動をし、それによって自分が不利益を被る可能性があるとき、つまり「社会的不確実性」があるような状況でこそ、信頼が意味を持つのだ。

わたしの身体はままならない p .151

また、続けてこのように述べている。

信頼は社会的不確実性が存在しているのにも関わらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性ゆえに、相手が自分に対して酷い行為は取らないだろうと考えることです。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味します。

わたしの身体はままならない p .152

 この解釈を踏まえると、不利益≒失敗・ミスが想定される状況下でも相手の行動を抑制しないことを信頼と呼べそうだ。
これを上司部下の関係性の中で成立させることは可能だろうか。

例えば、部下の立場の人間が売り場を変え上司の立場の人間が「うまくいくかわからない」中、一週間試してみる。

例えば、起こる可能性が一般的に見て容易に想像できるケアレスミスの起こる可能性が最も高まったタイミングで「振り返り」「チェック」を相手に完全に託してみる。

それは必ずしも上司として「正しい選択」ではないのかもしれないが、この選択肢を選ぶことは僕にとって、とても大切な"eu zen"(ギリシャ語で「よく生きる事」の意)であり、”アレテー”(徳)だ。


リフレーミング

 元々は家庭療法の用語で、ある枠組みで捉えられている物事を枠組みを外して、違う枠組みで見る事を「リフレーミング」と呼ぶ。縮小再生産だが一言で表すと「見方を変える」だ。

 今回この相談をしてもらった時、上司の友人に対しての「安心」を「信頼」にパラダイムシフトさせる絶好のタイミングだと思った。
上司は自分の経験や自信から、「社会的不確実性」を排除し安心を手に入れた。
しかし、それが「信頼されていないのかも」という不信感を生み、結果的に排除したはずの「社会的不確実性」を増大させている(成長を止めている)。

 「滞留というニュアンスも含め維持する事」よりは「更新、改善のニュアンスも含め変化している事」が大切だと解釈すれば売り場を変えた次の日に変えられたことも捉え方が少し楽観視できるようになる。

 今までの経験上、組み違いはどのレベルの人でも起こりうると考えれば相手の社歴やレベルに関わらず注意喚起する理由もうなずける。


おわりに

 

 主従関係はわからないし、割と入れ替わりやすいのかもしれないが、
「リフレーミング」で見方を変えることによって、「相手のことも自分のことも嫌いにならずに前に進みたい」。

 僕は同じ状況になった時に採用しているメソッドがある。名を「山里メソッド」と呼ぶ。
南海キャンディーズの山ちゃんのメソッドだ。
「下から関節 山里です」と音頭に乗せて踊っているオードリーの若様を思い出す人も多いだろうアレだ。
忘れている方、知らない方はHuluで「たりないふたり」と検索して全部見てきて欲しい。
簡単に説明すると、「真似しろと言ったって、こんな大技見せつけられたら、小生のような小市民には絶望しか待っていませんよ〜」と拗ねるふりして相手の「いやいや僕なんて」を引き出す方法だ。
流石だ。「天才はここにいた」の著者は一味違う。本編に全く出てこない若様に帯を書かせる男なだけはある。

 「いやいや僕なんて」ではないにしても、このメソッドは相手のノウハウや思考、行動の背景を割と高い解像度で聞き出すことができる。そしてこれは相手にとっては「ちょうどいい感じに褒められる」し、コントっぽさがあるやりとりになることで「ショックを受けている自分」とも距離を取ることができる。Win-Winだ。

 相手のことも自分のことも嫌いにならずに前に進むことができれば、相手の価値も自分の価値も低めずに前進できる。なかなかに悪くない方法だ。

 出川哲郎さんやますだおかだの岡田さんが言っていた。
「スベってからの一言が大事」
スベらないようにするではないのだ。
 ネガティブはポジティブの生き方はできない。
できるのはネガティブでもいい感じに生きる方法で生きることだ。

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