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西アフリカ一人旅① アフリカ最西端セネガルの大都市「ダカール」〜奴隷貿易の舞台となった島へ〜

小学生の頃、「バックパッカー」という存在に憧れを持っていた。
当時の僕は、世界地図や国旗図鑑を眺めながら、その国に住んでいる人々の生活や景色がどんなものか空想するのが好きな子供だった。
旅行好きの両親に連れられ中南米や東南アジアに行くことが多かったからか、「発展途上国」への思い入れが特に強かったと思う。

小学校の卒業式は、各生徒が壇上に立ち「将来の夢」を発表してから卒業証書が渡されるといったものだった。各々がサッカー選手やパティシエといった憧れの職業を発表する中、僕は「バックパッカー」が将来の夢だと答えた。今考えればバックパッカーは職業でもなんでもないのだが、それほど憧れが強かったのだろう。

11年の時が経ち、ドイツに留学している僕は西アフリカへの旅を計画していた。
陸続きの周りの国々に気軽に旅行できることがヨーロッパ留学の魅力の一つであるのだが、僕にはどうもピンと来なかった。たとえばパリに行くと、あまりのオシャレ空間に居心地の悪さを感じ、「はいはいフランス人の文明はすごいですね〜」と斜に構えて見てしまうような具合だ。

やはりせっかく旅行に行くなら日本とは全くの異文化を体験したい、現地の人々の営みのエネルギーを感じたい、ということでアフリカの国々を旅することにした。
特に、西アフリカの国々へ日本から飛んでいくのはハードルが高いが、ヨーロッパからなら割と気軽に訪れることができる。時間と体力がある今行かなかったら一生行かないだろう!と思い、2週間ほどかけて西アフリカ5カ国をリュックひとつで回る「ミニ・バックパッカー旅」を計画したのだった。
「ガチ勢」のバックパッカーなら1年かけて中国から南アフリカまで陸路で移動する、みたいな旅をするかもしれないが、旅人の間でも難所とされる西アフリカを回るだけでも、小学生時代の僕は喜んでくれるだろう。

1日目

セネガルに到着

2024年4月14日

最初の目的地セネガルの首都ダカールへは、ドイツからマドリード乗り継ぎで行くことができる。スペインのLCCであるVueling航空が運行しているので、ダカールへは手軽な値段で航空券を買うことができた。

マドリードからのダカール行きの乗客は、セネガル人と思われる黒人の方々が7割、ビジネス目的だろうスーツを来た非黒人が2割、ラフな格好をした観光客らしき人が1割という具合だ。
セネガルは多くの国に対してビザ取得を課しておらず、そういったハードルの低さにより観光客が比較的多いようだ。

マドリードから3時間ほど、午後8時ごろにダカール空港に到着!

こいつ知ってる

入国審査を問題なく済ませ、早速ATMで現金を引き出した。

セネガルの通貨はCFA(セーファ)フラン。名称は「アフリカ(A)におけるフランス(F)の植民地(コロニーC)」が起源だ。この通貨は、旧フランス植民地の国々で共通通貨として用いられており、今回のルートではセネガル・コートジボワール・トーゴ・ベナンで流通している。旧イギリス植民地であるガーナでは独自の通貨が用いられている。

10,000CFAは2500円くらい

フランスでの通貨ユーロと固定相場制をとっている(1€=656CFA)このCFAフランは、フランスによる「独立後も続く植民地支配の象徴」と批判され続けている。
問題なのは、この固定レートが非常にCFA高な水準で固定されていることだ。CFAを使用するアフリカの国々は豊富な天然資源を輸出しているが、このCFA高により価格競争力が弱まってしまう。この構造が旧植民地の経済的発展を妨げ、フランスによる経済的支配の原因となっているのだそう。

近年では、このフランスの支配から脱却しCFAフランに変わる共通通貨「ECO」の導入を目指しているが、実現にはまだ時間がかかるそうだ。

空港から市内へ

空港からダカール市内まではタクシーで40分ほどの距離。電車などはもちろん走っていないので、出費はかさむがタクシーを拾わなければいけない。一人で1台分の値段を払わないといけないのが一人旅のシブいところ。

暗くて治安も良くなさそうなのでさっさとタクシーを拾おうと思ったが、早速面倒なことが起こってしまった。僕の胸にかけたGoProを見て、2人の男に「俺をカメラで撮ってるだろ、金払え」と絡んできたのだ。
西アフリカの人たちはカメラを向けられることを極端に嫌うとは聞いてはいたものの、到着早々洗礼を受けてしまった…
結構な剣幕で詰め寄ってきたが、こちらも「撮ってない!」の一点張りでなんとか脱出。タクシーに飛び乗ったのだった。

この二人組に怒られた、ごめんなさい

タクシー代は20,000CFA(5,000円)。アフリカの物価を考えたらあまりに高いように思われるが、この値段からは下がらないらしく泣く泣く受け入れるしかない。
車のオーディオから流れるアザーン(イスラム教の説法)を聞いて、この国がイスラム教国なのを思い出した。

車窓からの景色
さっきキレられたばかりなのでビクビクしながらカメラを向けている

3泊する宿に到着。一泊20€ほど。
綺麗だしめちゃくちゃ広い!温水シャワーもしっかり出る。でも一人旅にこのスペースは必要ないな…
明日に備え、23時に就寝。「世界の果てに来てしまった…」と興奮と不安の入り混じった感情のまま、眠りにつくのだった。

2日目

奴隷貿易が行われた島へ

2024年4月15日
午前8時に起床。この日は奴隷貿易の舞台となった世界遺産ゴレ島に向かう。
タクシーで20分ほど走りフェリー乗り場に到着。乗車前に交渉したのだが4,000CFA(1,000円)取られてしまった。セネガル、タクシーの相場高いな…

フェリーの時刻表
フェリーは往復で500CFA(125円)

フェリーを待っていると、自称ガイドが話しかけてきた。8,000CFA(2000円)で3時間ほどガイドをしてくれるそうなのでお願いすることに。
フェリーに揺られること30分、ゴレ島に到着。

ゴレ島は15世紀から19世紀にかけて奴隷貿易の拠点として使われた島だ。セネガルのみならず周辺の国々から集められた何百万人という人々が、強制的に故郷から離れアメリカ大陸に送られた。
月曜日は定休日らしく中は見れなかったが、この『奴隷の家』は男性のアフリカ人たちが収容された施設だったらしい。
こうした収容施設は男女別に用意され、捕まった家族は強制的に離れ離れにさせられた。

有名な『奴隷の家』

このようにカラフルで可愛らしいゴレ島の街並みだが、全て旧宗主国が建てた建物。ガイドさんが言うには、白い建物はフランスが、赤はイギリス、オレンジはポルトガルが建てたものだそうだ。

島内のキリスト教会

サンドボトルのお土産を作って売っていた彼は日本で数年間働いていたらしく、日本語がペラペラで驚いた。都立大学駅に住んでいたらしい。

自称・ラストサムライ

ゴレ島ないのレストランでランチ。セネガル料理の魚を丸ごと揚げたやつ。
美味しい!

観光地価格で3000CFA(750円)

市内を散策

14時頃、
フェリーでゴレ島から港へ戻り、市内を散策することに。
それにしても暑すぎる!確かこの時36度くらいだったと思う。
とはいっても、今考えればセネガルは砂漠性気候で湿度が低い分、コートジボワールやガーナの地獄のような蒸し暑さに比べれば遥かにマシだ。

中心地の広場
至る所にある床屋の看板

セネガルのチェーンのスーパー、Auchanを視察。
イスラム圏では国によってアルコールの扱いが違い、サウジアラビアのように厳しく取り締まられている国もあれば、チュニジアのように認可を受けた酒屋でのみ売られている国もある。
国民の9割以上がムスリムであるセネガルはどうなのか気になっていたが、棚にはビールがずらり。どうやらセネガル人は戒律に対してはカジュアルなようだ。

『ガゼル』や『フラッグ』といったセネガル産の銘柄がある

お腹が空いたので夕飯を食べようと思ったが、レストランが全然見つからない。
すると、ホテルの近くにちょうどいい屋台があったのでそこで買って持ち帰ることにした。

感じのいいお兄さん、英語で話してくれた

チキンとフライドポテトを挟んだサンドイッチが1000CFA(250円)。
普通にうまい!!砂埃の巻き上がる道路沿いの屋台で作ってもらったので、色んなものがついているに違いないが、それもまた趣があって良い。

ヘトヘトだったので早めに就寝。
明日は少し遠出して、『湖』を見に行く。

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