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「若者の読書離れ」ではなく、「大人が読まなくなった」だけ

書店が閉店するニュースを見る度、「紙の本は売れなくなった」「本を読む人が減った」「若者の読書離れ」と、槍玉に挙がる。

ちょっと待った。

書店の閉店と「本を読む若者が減った」を結びつけるのはまだ早い。

「本を読む若者が減った」のではなく、「大人が本を読まなくなった」だけなのだ。電車に乗ってるとよくわかる。みんなスマホ見ている。


昔は数少ないエンタメの一つとして読書があって、本を読むことは数少ない選択肢の一つだったのだ。(※ここでいう"読書”はジャンルを問わない。あくまで"本を読む”という行為としてみる)

「先週のジャンプ読んだ?」

「進撃の巨人の新刊もうすぐだな!」

とか、友人とこういう会話をよくしていたものだった。まだスマホのない時代だったからかもしれない数少ない娯楽だった。

ここ数十年前は「みんなと同じであること」が求められた。

クラス替えがある度に「mixiやってるなら俺とマイミクにならない???」とか「前略やってる?」とか、やってない僕にとってはどーでもよかった。流行り物にはとにかく乗っからないと周りの友人についていけなかった。野球に無関心な僕は昨日のジャイアンツ戦がどうとか、観てない僕はその輪に入れないでいた。

その中で僕は高校生のとき、イングランド・プレミアリーグのトッテナム・ホットスパーというサッカーチームが好きだった。当時、マンチェスターユナイテッドでクリスティアーノ・ロナウドが大活躍していた時代にだ。僕は、万年プレミアリーグ中位にいたトッテナム・ホットスパーが強豪に勝つ、いわゆるジャイアントキリングが魅力的なところもあり、好きなチームだった。(僕自身サッカーはやってないけど、高校生のとき、やたら海外サッカーが好きだった)

ここでお分かりのように、今も昔もメジャーを好む者、マイナーを好む者とわかれるのは至極当然のことである。しかし、マイナーが好きであると公言すると「変わり者」として扱われる。これは「協調性」と「同調性」の履き違えを意味している。

この頃(少なくとも僕の人生経験からして、数十年前は)からすでに、読書は数少ない娯楽の中でも少数派として扱われる。そうするとどういうことが起きるかというと、「文学少年」だの「文学少女」、「本読んでいて偉いね」と揶揄される。


ここで僕の読書のこだわりについて話しておこう。漫画は絶対に電子。漫画なんて買い集めていたらとてもじゃないけど部屋が埋まる。何より、気になった作品がその場で買えるのが大きい。書店で気になる漫画を見つけても、その場で電子で買ってしまうほど。

小説などの単行本や文庫は紙で買う。ここには「ページをめくる快感」と「紙の重みを感じる」、「読んだページ数が目に見えてわかる」点において、紙の本がよかったりする。

読書に魅力を感じるかといえば、大いにある。本の世界観が楽しめたり、知識が身につけられたり、語彙力が増える。これらのことが味わえるのは読書だけでなかろうか。オーディオブックとかYouTubeの朗読版を聴くのも大いに結構だが、それはかなり本の内容に能動的でないと追いつけないので僕は未だに手が出ない。


時には電子、時には紙の本で読書する僕だが、ここで言えることは、電子書籍の台頭で「読書」という行為が表面化しづらくなっている。紙の本が売れなくなっている事実はあるにせよ、それを「若者の読書離れ」という論旨にもっていくのは少々強引な論理である。

大前提に「読む人は読む」ということを忘れないでほしい。

書店が閉店になるニュースをみると、読書好きの僕には胸が痛むのだが、それと同時にエンタメやコンテンツの多様化で読書をしなくなった人がいるのも事実なのである。読書する・しないを揶揄したいわけでも批判したいわけでもない。つまるところ、「読書離れ」というのは、本を読む・読まないの選択の余地ができ、様々なカルチャーやエンタメに触れることができる現代ならではの現象なのだということを。

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