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【ざっくり中国史㉓】清の滅亡と中華民国の誕生

日清戦争の最中、中国大陸から遠く離れたハワイで興中会という革命組織が結成されます。これが300年近く続いた清の打倒への第一歩となるわけですが、これを結成したのが孫文です。

孫文は農家に生まれ、13歳の時にハワイに渡り、帰国後は香港で西洋医学を学んでいました。

孫文は早いうちから欧米の政治思想や科学知識を身につけます。

それまでの中国といえば、「革命」といったら「王朝交代」を意味していたのに対し、孫文は

「皇帝の時代はもう終わりや。これからは国民が政治を動かす時代にせなあかん」

そのとき孫文は、明治維新を経て徐々に近代化の波にのっていた日本に力を借り、清を打倒すべく何度も挙兵します。しかしことごとくと破れてしまいます。

そんなとき、武漢では清に対し不満を抱く革命派の人々が蜂起し、「清の言うことなんか聞いていられるか!」と清に対し、様々な地域から独立宣言します。この時起こったのが「辛亥」という干支の年に起きたのでこれを「辛亥革命」といいます。

この騒ぎを聞きつけた孫文は、そんな革命派のリーダーとなり、南京におかれた臨時政府の臨時大統領に就任し、1912年にいよいよ「中華民国」の建国を宣言しました。

清の皇帝だった宣統帝(溥儀)は当時7歳でしたが、このとき皇帝を辞します。歴代の中国王朝で最後の皇帝となっていることから、俗に「ラストエンペラー」とも呼ばれています。宣統帝(溥儀)の皇帝剥奪をもって清は滅亡し、長きにわたって行われていた皇帝による政治に終わりを告げることとなりました。

もちろん清の滅亡を嫌がっていた人がいたわけですが、その時最後まで抵抗していたのが袁世凱(えんせいがい)という人です。

宣統帝(溥儀)がまだ皇帝だったとき、幼い皇帝に代わって政治権力を握っていた人物でした。

清を倒したい孫文は袁世凱に

「宣統帝を退位させることと、国民主権の政治にしたい。その代わり、中華民国の臨時大統領を袁世凱に譲る」

と条件を出し、これを袁世凱はこれを受諾します。

元々清についていた袁世凱でしたが、孫文の出した条件を飲み、半ば裏切り行為のように宣統帝に対し、皇帝退位を迫り、宣統帝は皇帝を退位せざるをえなかったのです。

とまぁ、こういったことがありまして中華民国が建国されたわけですが、このあとの中国では、第一次世界大戦、第二次世界大戦、日中戦争の時代へと迎えるわけですが、新政府樹立を果たした中華民国のその後をみていきましょう。それはまた次回。

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