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歳をとると不思議に思うことがなくなる話。あと悩みがあれば、ハム太郎やちいかわに憑依すれば万事解決。

手を伸ばせばすぐにでも届きそうな青空が広がる。新鮮な早春の風が頬をなでる。身を切るような寒さを乗り越え、日本晴れの中に立っていると足取りが軽くなる。まるで飛んでいくかのように。「晴れ着」や「晴れ舞台」、「晴れ姿」と言うときの“晴れ“とは「心が浮いている様子」を意味するそうだ。民俗学の「ハレ」や「ケ」の概念からきているらしい。晴れの日に足取りが軽くなるのはあながち間違ってないのかもしれない。気が滅入りそうな寒さに悶々としていたので、上着なしで出かけられることに狂喜乱舞している。そう、心が浮いているのだ。

僕といえば最近何に心を浮つかせているだろう。YouTubeで好きな動画を観てるとき?本を読んでるとき?アマプラで好きなアニメや映画、バラエティーを観てるとき?狩野英孝の天体観測のクセスゴを観て笑っているとき?

どれも「家にいると暇だから」やっている。どれもしっくりこない。自分の中で余暇を楽しんでいるだけだが、暗い森の中を、出口も見えずにただただ歩いているだけである。「現代人は忙しい」とは誰のことを指しているのか。僕はこのようにめちゃめちゃ暇を持て余している。

そんな折に、アマプラで『内村さまぁ~ず』というバラエティー番組を観ていたときのこと。僕がずっと大好きで観ている番組だ。その中で、#333「このチャンスに話芸を充実させたいどぶろっくとその先輩達!!」という回を観ていた時のことである。

「お笑い第7世代の芸人が自分たちより勝っている所は?」と振られた際にさまぁ~ず大竹が何気なく発した言葉にハッとした。

(ネタ思いつくの)早いでしょうね。経験が浅いから何でも不思議に思える。俺ら何にもネタにならない。
『内村さまぁ〜ず』#333より

めちゃめちゃ示唆に富んでていい話だと思うのである。不思議なもの・ことは歳をとるとなくなってくるという教えである。僕が中学生のころ、「どうして女の子と一緒にいるとドキドキするのか」とか「バレンタインデーにチョコを渡すのはなぜだろう」、「ファミレスに入ったとき、店員さんに呼ばれるまで順番待ちしなければいけないシステム」とか、若かりし頃に出くわす不思議なことはたくさんあったはずだ。そういった出来事をメモしておけば、創作のネタとして活かせたかもしれないのにもったいないことをしたなぁと思う。歳をとると日常的にどんな些細なことでも「不思議じゃなくなる」から、その点、若い人は発想が豊かで良いなと思う。歳をとってどうなるかというと、昔話しかしなくなる。

山田鐘人『葬送のフリーレン』めちゃ面白いという漫画がある。『週刊少年サンデー』で連載されている。この漫画もクリエイティビィティに富んでいて良い作品だ。

ファンタジー漫画であるが、分かりやすい敵を倒すファンタジーではない。異世界転生モノが流行った影響がある中、少しそんな王道から外れていて画期的である。それは「冒険を終えた勇者たちのその後」を描いているという点にある。

魔王を倒した勇者一行の魔法使い・フリーレン。彼女はエルフで長生き。勇者・ヒンメルの死に何故自分が悲しんだのかわからず、人を“知る”旅に出る。フェルン、シュタルクと“魂の眠る地(オレオール)”今は魔王城がある場所を目指す。
 悠久の時を生きる魔法使いたちの、本格“後日譚(アフター)”ファンタジー!!
少年サンデー公式サイト WEBサンデーより

上記のストーリー解説にあるとおり、魔王を倒して世界に平和が訪れたところから始まる後日譚こそが『葬送のフリーレン』である。

『葬送フリーレン』第1話「冒険の終わり」より
『葬送フリーレン』第1話「冒険の終わり」より

旅を終えた主人公一行が解散してそれぞれの人生を歩むことになるが、フリーレンと、人間やドワーフである仲間との時間間隔が大きく異なる。フリーレンは「たまには顔をみせる」と魔法収集の旅に出かけるが、パーティーと再会したのは、解散してから50年経った後である。

『葬送フリーレン』第1話「冒険の終わり」より

人間は長生きすれど、いずれ死は訪れる。昔、旅を共にした勇者が亡くなったとき、もっと”関わっておけばよかった”と、今の自分を悔やむのである。

『葬送フリーレン』第1話「冒険の終わり」より

かつて「友だち」と呼んでいたクラスメイト。いつしか、知り合いへと変わる。そして他人へと変わる。季節が変わる毎に、彼らの記憶から”自分”が消されてしまう。そしてお互い”死”を迎える。”死”を悟った老人は今の生活に刺激をなくし、昔の良かった思い出を振り返りたくなる。

この漫画からわかることは”昔話をするときはイキってはいけないこと”である。主人公であるフリーレンは、見た目は少女だが、長命なエルフ族の生まれということもあって、1000年以上の歳月を生き続けている。普通の人間とは生きてる時間軸が違うだけあって、昔を懐かしんだり振り返ったりせず今を生きることに徹している。まぁ、いろいろのたまったがめちゃめちゃ面白い漫画だった。

創作活動をするクリエイターに若い人が多い。最近ハマっている『映像研には手を出すな!』の作者・大童澄瞳氏も現在28歳(もうすぐで29歳になる)と知って驚く。まだまだ若い。あんな若い人がクリエイティビィティに富んだ創作ができるなんて。

ここで様々な創作、芸能活動における若い人を調べてみた

  • 綿矢りさ『インストール』で芥川賞受賞(当時19歳)

  • M-1グランプリ最年少優勝記録、霜降り明星・粗品(当時25歳)

  • 梶井基次郎『檸檬』を発表(当時24歳)

ここでいえるのは若い人ほど創作活動を頑張ったほうがいい。自分はというと、幼少期~青年期のなかで何か不思議なことがあったらメモする習慣をつけておけばよかったと後悔する。そして休日に僕がやっていることは、どれも創作を孕んでいないということである。特に今、国から「引きこもれ」と言われているので仕方なく引きこもっている。本当は外に出かけたい。外に出かけるわけでもなく、友人にも会えていないのである。そうすると何が起こるかと言うと、「創作に活かせるネタがない」のである。年齢はただの数字でしかなく、創作だって本来、年齢制限などないのだからやりたいときにやればいいのである。しかし、歳をとって日常的に新鮮で刺激的な体験が少なくなった今、ネタにできるような創作や発想が出てこないのである。

そんな創作活動をするにあたって、今の僕にあるのはこのnoteの執筆である。昨年から始めたnoteだったが、有り体に言えば最初は全然楽しくなかった。「なんのために書いているのか」わからなかったし、それを模索するために1ヶ月の間、毎日投稿していた時期もあったが、「結局なにを書きたいんだ自分」となったわけである。毎日投稿してわかったことは「毎日投稿をするのが目的になって、いい加減な文章になってしまう」ということである。その中で、良質な文章を頻繁に投稿されているnoterさんが多い(noterで合ってる?)ので、単に僕の未熟さの問題である。

そんな折に始めようと思ったのが、連載モノのマガジンである。連載をもった作家さんみたいなことをやってみたくなった。そんな思いで始めたのが「noruniruの頭の中」である。少しずつだが、このマガジンを認知しているnoteのフォロワー様やTwitterのフォロワー様が増えてきて一時の歓楽を味わっている。有り体にいえば、読書感想文や何かの評論、アカデミックな記事を書くより、エッセイを書いている方が一番楽しい。「書くネタがおもいつかないぃぃぃ泣」なんて思う(厳密に言えば、ネタがあってもうまく文章にならないだけ)わけだが、ネタは待っててもやってこない。日々、日常的に見聞したことを単語レベルでメモにしておく。そして、それを継ぎ接ぎしていく。過去のメモを見返してみると、「あぁ、こんなことで悩んでいたのか」とか「こんなことに不思議に思っていたのか自分」となるわけである。

僕のEvernoteのメモ。こうして不思議なメモが溜まっていき、「なんでこんなことメモしているんだ?」となる。
いつネタにするかわからないけどとりあえずメモしている。「好きなお笑い芸人は誰?」ときかれたときに「ダイアン」と答える人は、お笑いマニアであるに違いない。(持論)

そう、『メモの魔力』であり、The Magic of Memosである。(僕は読んだことはない)

何事にも日常を過ごす中で、些細な出来事に出くわしたら定期的にメモをしておくといい。(というススメ)

このメモの中からいつか記事にしたいと思っているものがたくさんあるので、出来上がったら投稿するつもりでいる。(つもり)

この4月、新社会人になる人も多いだろう。この時期に「新生活にやっといたほうがいいこと」とか「1人暮らしをする人におすすめの家電」とかを紹介する記事をよく見かけるが、その執筆者も過去の経験に則しただけのことで、僕が知りたいのは「若い人の実際の声」である。歳をとって若い人との交流が少なくなってきた私生活において、自分が危惧するのは「若い人の感覚に追いつけなくなるのが怖い」ということ。最近の流行とかそういうのではなくて、若い人の感性。である。だからフォロワー様ともっと交流を増やしたいと決心するnoruniruである。

人間、悩む生き物だ。会社勤めしていれば「もっと自由に生きたい」と悩むし、フリーランスは「将来の保証がない」と悩むし、定年退職後は「生き甲斐がない」と悩む。まぁまぁ、悩んでもしかたない。今を生きることに徹すればいい。就活の面接やキャリア診断で「3年後はどうなりたいですか?」と言われたら「3年後は猫になりたいです。ニャー」と言えばいいし、それぐらい適当に生きていればいいのだ。

追伸
「適当に生きていればいいのだ。」って、なんていう締めくくりなんでしょう。今まで「歳をとると不思議に思うことがない」と悩みをのたまっておきながら、「適当に生きていればいいのだ。」という無責任な発言はないでしょう。でもそれでいいのだ。人間、ハム太郎やちいかわに憑依すれば、こんな悩みなんて「ごめんなのだ…ぶたないでほしいのだ」と、すぐ被害者ヅラするハム太郎で万事解決だし、「なんとかなれーッ!!」と言えば、どんなアホらしい悩みでもこうしておればよいのだ。




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