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【ざっくり中国史㉕】満州事変と日中戦争

日本による満州の占領策略と「国民党」と「共産党」の争いが同時進行していく中、満州の方で怪しげな動きが見られます。

日本軍が、満州の柳条湖のほとりで日本が経営していた南満州鉄道を自ら爆破し、それを中国軍のしわざとして軍事行動を開始し、満州を占領します。

これが満州事変です。中国では事件が起きた日付から「九一八事変」とも呼ばれています。

その後、満州国を日本の属国という形で建国しました。

その満州国のトップに任命したのが

清の最後の皇帝だった溥儀です。日本政府は満州占領を正当化する目的で、名目上、溥儀を執政という地位に置いたのです。しかし、この満州国というのは国際的に国家として認められておらず、いわゆる傀儡(かいらい)国家となっていたのです。

しかし、日本の軍事行動により建国した満州国の是非をめぐって、国際連盟の間で協議を重ねた結果、リットン調査団を派遣し、事件を調査させます。

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リットン調査団の調査を経て、日本による満州国の建国は認めないとし、日本を国際連盟から脱退させます。

一方時期を同じくして、中国国内では「国民党」と「共産党」の争いにも新たな動きが見られます。

「国民党」は満州事変の対応よりも、「共産党」を打倒することを優先し、「共産党」の本拠地を包囲します。本拠地を追い出される形となった「共産党」は、「国民党」からの攻撃を受けながらも、辛くも新たな本拠地を確保しました。

このように「国民党」と「共産党」が激しく戦闘を繰り返す中、突如、また協力関係を結びます。これが第二次国共合作といいますが別に覚えなくていいです。

どうしてこんなことが起きたかというと、張学良という人が関係します。

この張学良という人は、前回の記事で説明した、張作霖の息子です。


張学良は西安という地に滞在中、彼を訪ねてやってきた蒋介石を襲撃し、「共産党」のリーダー、周恩来も呼び寄せて、「今すぐ、「国民党」と「共産党」で手を組み、日本を打倒しなければならない!」と強く訴えかけたのです。

これが西安という地で起きたので、西安事件ともいわれます。お互いいがみ合っていた「国民党」と「共産党」が張学良の半ば強引な物言いにより、再び協力関係を結ぶこととなります。

張学良からすれば、父が日本軍に殺され、故郷である満州が日本によって建国されてしまっているのですから、張学良は国内よりも日本を打倒する方が最優先と考えたのです。

話はちょっと遡りますが(【ざっくり中国史㉒】参照)、義和団による北清事変のあと、日本軍が北京に駐在していました。

その日本軍が盧溝橋で現地の軍と衝突します。これが盧溝橋事件であり、日中戦争の火ぶたが切って落とされたのです。

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ここから、日本と中国の全面戦争へと発展していくのです。

アメリカの支援を受けていた中国の粘り強い戦いに、次第に戦争は泥沼化・長期化していきます。

日本ではアメリカに宣戦布告し太平洋戦争へ。世界的には第二次世界大戦が勃発し、世界各国で総力戦が繰り広げられていました。

次回の記事で最後になります。終戦後の中国をみていきたいと思います。




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