私の事
私は仙台市のローカルDJとして1992年より活動を始めました。
この原稿を書いているのが2016年4月ですからざっと23年も前になります。
因みに生まれは1972年ですので43歳のおっさんです。
元々は単なるレコードコレクターで、80年代は日本のニューウェーブや明瞭期であったハウスミュージックを集めていました。
生まれも育ちも根っからの東北ですから、当時こんなものを周りで聞いているのは私くらいなもので、ちょっとした変人扱いです。
それが90年代に入ると、更に人口が少なくなるテクノに趣味が傾倒していきます。
その頃 DJ と言えば ディスコDJ の事を差し、ヒップホップやユーロビートなどでサーファーやギャル、ヤンエグ達が日々ナンパの為にキングアンドクイーンやマハラジャに集まるようなイメージでした。
私は爆音でダンスミュージックを聞ける唯一の場所と言う事でディスコにかよっていましたが、真っ黒に日焼けした長髪のサーファーが奇声を上げながら海外の売春婦のような格好をしたボディコンのOLを追いかけまわし、何かの拍子に大金を手にしたヒョロヒョロのヤンエグ(今でいうIT成金的な扱い)がVIPルームに黒髪清楚系OLを連れ込むのを横目に、「なーんか違う。なーんか違う。」と心の中で呟きながら、ディスコの経費で毎日入荷してくる新譜の盤面を覗いていました。
その陰でひっそりと「クラブ」と呼ばれる一晩同じジャンルをプレイする小箱が出現し始めたのがこの頃です。
仙台では、ディスコでかけられないようなマニアックなレコードをせいぜい2~30人で黙々と聞いて踊るような、変人集団の様な認識で、華やかなディスコの連中とは区別されていました。
今でいう EDM(ウルトラジャパンでかかるような曲です)シーンとクラブの関係が近いとお思います。
クラブDJというとリア充の象徴のように現在は扱われていますが、当時クラブDJと言ったら、変な服装で変な音楽を聞きながら変な踊りをしている音楽オタク(少なくとも仙台では)の事でした。
幸い仙台には、ハウスやテクノで他のクラブと一線を画した、危険で怪しくてハイセンスなカルチャーを発信しているシャパニと言う小箱があり、そこに通う私も単なる地方の音楽オタクから、アンダーグラウンドクラバーとして、変な自信をつけていきました。
はじめは一人で通っていたその怪しい「クラブ」も、仲間が出来、膨大な量のレコードコレクションが認知されると平日のパーティーのオープニングなどでプレイするようになりました。
時は流れ、レギュラーDJとして決まった一晩プレイをすることができるようになったのは1995年頃でした。
その頃私は、テクノの中でもさらにマニアックな「ミニマルテクノ」と言うジャンルに思いっきり傾倒していました。
ミニマルテクノとは、スティーブライヒに代表されるような繰り返し音楽をテクノの機材で再構築した音楽です。
元々芸術の分野で「ミニマルミュージック」と言うものがあり、たくさんの音のループが微妙にずれたり入れ替わりながら高速で繰り返されていくと、恍惚としたトランス状態になっていくという、本当にわけのわからないものにハマっていったのです。
これは、今までエクスタシーを感じるのに異性とSEXしたり、手や器具を使ったりしていたのを止めて、ノーハンドでイケる方法を見つけて切り替えたくらいの変態行為でした。
なにせ、ボーカル(異性)も、メロディー(手や器具)も、ほとんどなく、ノイズ(想像)や単純な音の繰り返し(のぼり棒や床の摩擦?)が延々と12インチレコードの片面いっぱいに入っているのですから、そんなものに1200円くらいのお金を払って毎月50枚以上購入していたわけです。
1200円×50枚×12か月 = 720000円
偶然遊びに来た友人が100人中100人が聞いて黙り込んでしまうモノに私は狂ったようにお金を注ぎ込んで行きました。
そして、私のレギュラーイベントに来るとそんな変態的なレコードが朝まで爆音で掛かっているのです。
正直興味の無い人にとってはイベントの始まりと中間と終り頃に5分づつ入場して、「あれ?まだ曲同じのかかってる?」と思うようなものだったでしょう。
しかし、時代とは不思議なもので、その頃、来たのです。
ついに私の時代が!!
日本のバブルが弾け、華やかだったディスコが次々と閉店し、クラブカルチャーがファッション雑誌を席巻します。
そして、テクノがミニマルが あの大都会 TOKYO で流行りだしたのです!!
その時まで東北の片田舎仙台でレコード屋がたくさんある TOKYO を私は妬んでいました。
何かと言うと TOKYO をディスっていました。
でもその時は違いました。
「I LOVE TOKYO ! 流行の発信をありがとうございます! ねつ造でもなんでもかまいませんからもっとミニマルをオシャレでハイセンスだと言い続けてください!」
そう心から思いました。
そして、私のイベントには数百人と言うニワカ、いえ、クールクラヴァーが押し寄せたのです。
それからはパーティーを打てばどっかんどっかんと、クラブでライターを付けようとしても酸欠で火がつかないというくらいの超満員の日々が続いたのです。
その時、それから5年後に起こることを私は知らないまま、有頂天になっていきました。
続く
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