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ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」

ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

俗に言う「無知の知」です。
無知の知という言い方は誤解を招くので「不知の自覚」と言うべきである、という意見もありますが、私は別にどっちでもいいだろうと思います。

無知の知とは、一体どういうことでしょうか。
ソクラテスは、更にこう続けます。

「諸君よ、おそらく、神だけがほんとうの知者なのかもしれないのです。そして、人間の知恵というものは、まるで価値のないものだと、神は言おうとしているのかもしれないのです。」

確かな知恵を持っているのは神々だけであり、人間の有する僅かな知恵なんぞは、神々の知恵に比べたらまるで無価値なものである。

にもかかわらず、多くの人たち、世間から知者と呼ばれている人たちは「自分は知っている」と思っている。
自分は知っている、と勝手に思う分には、誰に迷惑をかけているわけでもなし、別に個々人の自由でいいんじゃないの、と思ってしまいますが、ソクラテスはそうは思いませんでした。

何故ならば、「自分は知っている」と思った瞬間から、その人は探究することを止めるからです。
探究とは、知らない人が、知るために努力することです。
つまり、既にもう知っているのであれば、探求する必要がないのです。

しかし、その人が「自分は知っている」と思っていることは、実はとんでもない勘違いなのです。
本当は全く何も分かっていないのです。
分かっていないのに、それを自覚せず、「自分は知っている」と勘違いしたまま、探求することを止めてしまうのです。

人の精神は、己が無知であることを自覚し、無知を克服するために探究し続けることによってのみ、磨かれていくのです。
だからソクラテスは、アテナイ中の知者たちに対話を仕掛けて、彼らが無知であることを自覚させようとしたのです。

ソクラテスにとって、アテナイの知者たちに片っ端から対話を仕掛けることは、そうすることによって全アテナイ人の精神を磨くための善意だったはずなのです。
しかし残念ながら、ソクラテスの善意は、そのような知者たちの無知を暴いて辱めを与えることでもあり、ただ反感を買うだけでした。
そうして最後は、あらぬ罪を着せられて処刑されてしまうのです。

ソクラテスの処刑から二千年以上の時が経ちました。
二十一世紀の現代を生きる私たちは、相も変わらず無知のままです。
そして、無知であることを自覚せず、自分は知っていると思い込み、探求することを怠って、お金儲けにいそしむ日々を過ごしております。

天国のソクラテスは、さぞ嘆かわしく想っていることでしょう。

自己の内的探求を通じて、その成果を少しずつ発信することにより世界の調和に貢献したいと思っております。応援よろしくお願いいたします。