シリーズ「将来なんの役に立つの?」問題を解決しよう(6)
『大人ならクソガキの愚問を一言でねじ伏せられる説』
を検証中の本シリーズ
また新たな気づきがありました。ので。
だらだらと続けます。
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今回は数学のプロはどういうことを言っているのか、というものを観察していこうと思います。
最近はyoutubeに授業や勉強法の動画がくさるほどupされており「教育系youtuber」なる人もたくさん現れてきております。
数学授業で人気のおじさん、鈴木貫太郎さんの本が1月に出まして(youtube動画が出版されるってそういう時代)
その本『中学の知識でオイラーの公式がわかる』のあとがきにこうあります。
(以下引用)
おわりに
私は塾講師時代に、生徒たちから「数学って何の役に立つんですか?」と幾度となく聞かれました。私がその都度返してきた答えは、「何の役にも立たないよ」でした。それは紛れもなく事実だからです。
このように書くと身も蓋もなく感じられますが、その質問をしてくる生徒の本意は、「二次方程式が解けないと仕事に支障が生じるんですか?」「関数がわからないと就職できないんですか?」です。要するに、数学を勉強したら金になるのか、できなければ露頭に迷うのかということが聞きたいのです。
なので、それについては、「ピアノや野球と同じで、プロでそれを生業としている人なら腕が良ければ金が稼げるし、下手になったら苦しくなるが、その他の仕事をしている人がピアノや野球が下手だからといってクビにならないのと同じで、数学を全く必要としない仕事はいくらでもあり、そういった職に就くなら数学ができなくても何の支障もないよ、その意味では数学は役に立たないよ」と答えてきたまでです。
では、プロでない人がピアノを上手に弾けることには価値がないのでしょうか。私はピアノが全く弾けませんが、ピアノが上手に弾けたらいいなと妄想することはしょっちゅうあります。もちろん上手に弾いて金儲けしようなんて気持ちはさらさらなく、単にピアノが弾けたら人生が少し豊かになると思うからです。一方、運動は野球以外に好きなものがあるので、野球がうまくなりたいと願うことはありません。
私の例で恐縮ですが、数学もここでのピアノや野球と同じような位置付けでいいと思います。好きならやる、嫌いならやらない。そして、好きなことが上手くできたら人生が少し豊かになったと思える。それだけのことです。
(引用おわり)
「役に立たないよ系」のお手本のような回答ですね。
自分も全く同意でして、何もつまらないと思いながらイヤイヤやることないじゃん。と思うわけですが、
悲しいかな、中学生ぐらいまでは強制的に「数学」という授業があり、テストもあり「イヤならやんなくていいよ」とはならないところが頭の痛いところでありますね。そこに問題がある気もします。
たとえば、中2ぐらいの数学をすらすら解ける大人が日本にどのぐらいの割合でいるのか。それを考えてみると、中学数学ってのは強制的にやらせないほうがいいようにも思えてきます。
中2や中3の数学が生きていくのに必須だとは到底思えない。
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さて、つぎに、数学物理のyoutuberヨビノリたくみ先生のnote「科学の眼鏡で世界を見れば」より。
(以下引用)
教育の現場にいると必ず聞かれることがある。それは
「なぜ勉強するのか?」
という質問だ。自分は決まってこう答えるようにしている。
「人生を豊かにするためだよ」
知識や教養は何気ない日常を輝かしいものに変える魔法のスパイスなのだ。身の回りの何気ない現象からも人一倍何かを感じ取れるようになる。しかもその効果は一生ものだ。勉強すればするほど蓄積されていく。
(引用おわり)
この記事、非常に共感した。
私は中学高校と、数学英語は大嫌いで、国語と理科が好きだったんだけど、
理科の勉強が好きな理由の一つが、まさに
「学ぶほどに世界の見え方が変わる」
ということだった。
はじめて元素記号の授業があった日の夜、いつもどおり湯船につかりながら、
「この風呂場に何種類ぐらい元素があるだろう?」
「この湯の中に1個ぐらい"モリブデン"がいるんじゃないだろうか?」
「この壁に何個か"イッテルビウム"が隠れているかも?」
などと、一人でわくわくしていた。
ただの入浴があんなに夢心地だったのをいまも覚えている。
この、世界の見え方が変わる、という経験は、何も特定の勉強に限らず、
人によっては成功や失敗の体験だったり、
友達の何気ないアドバイスであったり、
誰かの死や引っ越しであったり、
いろんなトリガーがあるんだと思う。
でも、たぶん、人が本能的に新しい何かを知ろうとするのは、
それが自分の生活に、なんらかのプラス効果を生むことを知っているからなんじゃないかな。
ここでも、やはり「強制的に学びを押し付けられる」とその感動にいたるドアが閉じてしまう気もする。
さてさて。
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んで、最後に、最近読了報告をいたしました「宇宙と宇宙をつなぐ数学」の中から、
著者の加藤文元さんが「なぜ数学を学ぶのか」という疑問に答えている部分を抜いてみます。
(以下引用)
そして、それは「数学は役に立つのか」という、よく耳にする疑問に直結しています。この手の疑問に対して、これまでにも「数学は今すぐには役に立たなくても、ずっと先の未来にはきっと役に立つのだ」とか「役に立つ・立たないという問題を超えたところに、数学の真の価値があるのだ」とか、いろいろな回答がなされてきました。
私自身はというと、これらの一般的な回答に、もちろんある程度は賛成できますが、同時に、現在の科学や技術の状況を踏まえると、ちょっとした違和感を感じてもいます。そんな私の回答を簡潔に述べると、次のようになると思います。
これほど価値観が多様化し、数学の「使われ方」も多様化してしまった現代にあっては、もはやどんな数学でも、それが「役に立つ」のは当たり前だとしか言いようがないし、それを疑うのはもはや無意味になってきている。
(引用おわり)
にゃるほど。
役に立つのは当たり前だとしか言いようがない。
実にすぱっと言い切っておられて。
言われてみればそうなんだろな、という気がする。
ふと、『国家の品格』という本の中で、著者が自分で発見した定理を紹介しながら「これは確かに正しい定理なんだけど、この発見は数学の世界にとっては何の価値もない」みたく自虐的に言ってたのを思い出した。
時代は移ろい、役に立たない数学など存在しない時代になった、ということなんでしょうか。
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で、今回の気づきというのは。
「役に立つ」ってのが
「その個人にとって」役に立つ
のか
「社会や人類にとって」役に立つ
のか
という視点の使い分けは大事やなあと、改めて感じました。
今回紹介した
「何の役に立つの?」
に対する回答にもふたつの立ち位置がある。
貫太郎さん、たくみさんの
「人生が豊かになるよ」
という返答の方は、
「あなたにとって」
どう役に立つのか
という視点に立っていて
加藤さんの
「役に立たないわけがない」
という返答の方は、
「世界や人類にとって」
どう役立つか
という視点に立っている。
ここを混同すると
例えばスマホには高度な数学が使われていますけど
ガキ「なんで数学なんか勉強しなあかんの?」
親「別に勉強せんでええよ、そのかわりスマホ没収な」
ガキ「は?なんでやねん」
親「数学なかったらこのスマホ作られへんからな」
ガキ「・・・・(どういうことやねん。。。)」
みたいな問答が生まれてしまいます。
数学のおかげでスマホが動くのは、
「世界や人類にとっての役立ち方」
ということですね。
それが、利用する個人の喜びとリンクしているため、親はうまくごまかしているわけですね。
で、子どもの方はそういう、
「人類の技術進歩に学問がどう役立つか」
ではなく
「ワイがそれを学ぶことで、ワイの人生になんのメリットがおまんねん」
と、あくまでパーソナルな問いを発しているのですね。
ですから、答える大人としては
「あなたがそれを学ぶと、あなたの人生に輝かしい成果がもたらされるのです!!!」
ということをわからせないといけない。
だんだんカルト宗教化していきそうですね。
[2020.02.14 facebookから]
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