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モーツァルト、宮沢賢治、小林秀雄

ここ最近、モーツァルトばかり聴いている。

『クラリネット五重奏曲』

あるいは『フルート協奏曲』『フルートとハープのための協奏曲』など
あまり色々と聴きまわりはしない。このへんを延々とループしている。

幸せなのだ。
聴いている時間だけが幸福なのである。

もちろん今も聞いている。

モーツァルトの音楽は楽ちんだ。
何も考えさせなくする。それでいて軽やかで、美しい。能天気な美神なのである。

私は、自分がクラシック音楽を聴ける耳を持つなどと、微塵も思ってなかったので驚いている。
こうなれば、趣味の幅は出来るだけ広げたい。
で、ベートーヴェンを聞いてみた。
ダメだった。その他、色々聞いてみたがハマらなかった。

ベートーヴェンも、チャイコフスキーやシューベルトにしたって、聞いてみると、どこか伝えようとするものを感じるのである。音楽に情や念が篭っているというか、なんというか。主張というか思想というか。
要は私には圧が強すぎたのである。
その点、モーツァルトには何もない(ように思える)

そこに救いを見出しているのであろう。

夜寝る時にかける。
スマホを枕元に置いて、音楽を求めてそちらを向いて寝る。
モーツァルトの音楽はまるで、何もすることのない日に、お金は十分あって、空腹でもなく、暑くも寒くもなく、心地よい風の吹いている草原で、何も考えずに寝転んでいるような心地にさせる。

が、寝返りを打ったら最後、現実という暗黒が襲う。禍々しいまでの黒い光を放って現実が。
部屋の奥から、イザナキを追ったあの古事記の亡者たちが、手を伸ばして私を襲うのである。

だからモーツァルト。
ベートーヴェンもチャイコフスキーも聞けない。
とにかく、何も考えたくないのである。幸せになりたいだけなのだ。

と、涼しい草原で目をつむりながら、私はある作家を思い出した。


小林秀雄。
たしか、彼もモーツァルトに関して書いていた。

私が小林秀雄を読んだのは高校の頃である。

当時の感触はあまりいいものではなかった。
最初こそ、(当時の私にとって難しすぎるその文章が)知的に思えて、憧れたのであったが、そのうちだんだん反感をもつようになった。

彼の文章を落ち着いて読むと、大したこと言ってないのに気がついたのである。
大したことは言ってない。なのに大したこと言ってる風格だけを出してるから好かなかったのだ。

いま改めて彼を読み直した。
あの頃はこれを小難しい文章、飲み込みずらい複雑さと異様感のある壮大な思想書のように思っていたが、それなりの難しい本を読み慣れたからだろうか、意外や意外、とても易しいものとして読めた。
言葉が障害物なく、まっすぐ入ってきた。

どこを拾い読みしても心地よい。

先に「モーツァルト以外聞けない」とは書いたが、できることならより多くの音楽家の曲を楽しめたくもある。
こんな文章に行き当たった。

浪漫派音楽が独創と新奇とを追うのに疲れ、その野心的な意図が要求する形式の複雑さや感受性の濫用に堪え兼ねて、自壊作用を起こすようになると、純粋な旋律や単純な形式を懐かしむようになる。恐らく現代の音楽家の間には、バッハに還れとか、モオツァルトに還れという様な説も行われているであろう。

『モオツァルト・無常ということ』小林秀雄 新潮文庫

そしてその復古主義の音楽家として、ストラヴィンスキーの名があがっていた。

彼がモーツァルトに還ったものであるなら、もしかすると好きになれるやも知れぬ。

そんな期待を胸に睡眠前、電気の消した部屋で、明るすぎるスマホに目を細めて、ストラヴィンスキーを選んでみた。


モーツァルトとの違いは一目瞭然だった。
一耳瞭然か。
彼の音楽には、楽譜が視えるのである。
比べてみると、いかにモーツァルトが自然であったかが分かった。

「自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない」
モーツァルトはそう父に手紙で伝えていたらしい。

小鳥の鳴き声や風の音からも作曲の着想を得ていた彼は、生きて感じる自然をそのまま音楽に写し取ることができたのだろう。

対して、音楽を聴いてきた人の音楽というものもあろう。モーツァルトに還る、バッハに還るを目的にする時、モーツァルトやバッハを聞いていなければならない。聞いた音楽に着想を得て、音楽を作る。ここに自然はないのである。ストラヴィンスキーの楽譜感はここにあるのだろう。


さて、話は少し変わって、私はまたある作家を思い出す。

……そうだ。

日本にも自然を描ける作家がいるのである。


宮沢賢治。
彼は自然をそのまま文章に移すことができた。感情をそのまま鉛筆にのせることができた。彼の文章は自然である。

例えば三島由紀夫が文章で知ったことを文章で書いてるのとは違う。太宰のように本好きが書いた本とは違う。

自然そのものを文章にできる作家。これは稀な才能であろう。


そしてふと小林秀雄の素朴感に思考が帰ってきた。

あの頃は難解に思ったもの。いまでは純粋な味にすら思えるもの。
けれど決して退屈ではない彼の文章。素朴でありながら、そこに確かな感触がある。生の声を聞くような読み心地あるのである。

蓋し、小林秀雄は、思考の自然を文章にしているのではないか。

ドゥルーズやらラカンやら、柄谷行人や筒井康隆など(人物選びに意味はない、挙げればいくらでも挙がる、なんなら現代のほぼ全員)のように思考を思考してるのではない。文章で得た思考を、文章で思考してるのではない。用語を得て、用語の関係で思考してるのではない。
自然な思考そのままを表現しえているように思えた。


モーツァルト、宮沢賢治そして小林秀雄。
私は彼らに憧れる。
この憧れはリスペクトであり、それを超えた尊崇ですらある。自分にはできないからである。自然のままに自然を表現すること。
自分にはできない、か。
できればそうありたいという本音もあるのだが。

にゃー