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生活にとっての幸せ、人生にとっての幸せ

今日もまた本の話をしてしまう。
毎度変化も、芸も、工夫もない手前味噌な話題作りである。
次くらいはもう少し飛躍した事件なり思索なりを語ってみたいと、いつも考えるのだが。

さて、わたしは人生が好きである。
なぜなら、理解できないからだ。

なぜ私が平安時代でも空飛ぶ車の未来でもなく、令和の時代を生きているのか。
なぜアメリカでも月でもなく、日本に生まれたのか。
なぜ目が見えてるのかとか、くしゃみをするのかとか、わさびが食べられないのかとか。

巨大な問題から些細な問題まで。

人生に意味はない。わたしはこの主張に賛同する。高校の頃はまったニーチェと、高校を卒業してはまった仏教思想とが根底にあるのだろう。生の本来的無意味を説く彼らに影響を受けた。

意味がないと知ると、価値がないと思わされる。
無意味を言い渡され、こんな風にニヒリズムを抱えてしまうこともあるだろう。
ただ、無価値とは思わない。
これまたニーチェの受け売りだが、自分で価値を立てれば良いのである。

ほとんどの場合わたしは楽観主義で、適当で、ハッピーである。
たしかに意味がないことは、価値の基盤がないことに直結する。が、基盤がないので無価値と言い渡すこともまたできない。

自分で勝手に、それに価値があると決めればいいし、なんならその基盤だってこっちで拵えてやればいいのだ。

こういう考え方になって以来、わたしは何か青年的な鬱とか、底なし沼的な思い悩みの全てから解放された気分になった。
いわゆる勇者の剣を手に入れた気分である。
これ一本さえあれば、どんな悩みもおたちまち裁ってしまう。

そして、この国に永久の平和が訪れる。神殿に勇者の剣を奉納して。

しかし、ようやく能天気に生きるようになったわたしの楽園も、無敵でなかった。
不思議なことである。
楽観主義という楽園を完成させ、思想や哲学という城壁まで築き上げたというのに、ある日目が覚めると傍に絶望が立ってわたしを見降ろしている。

「久しぶり」

「おい、おい、お前よ。どうやって入ってきたんだ」

しかししょうがない。

どうしても夜は来てしまうみたいに、絶望もまた、呼ばれた顔をしてやってくるのである。


幸福な時にいくら克服したように思えても、すべての武器を消失させ、すべての壁を霧と消して訪れるのが絶望である。
この不可解。

しかしだからといってわたしは絶望を厭うているわけではないのである。なにも敵視しているわけではない。人生が価値なのと同じく、絶望も価値なのだ。
はてさて、どのような価値を、わたしは絶望に与えるのだろうか。




ある本を開く。最初に見るのはたいてい本文ではない。
目次、緒文、プロローグそして序文である。


今現在、わたしの知る中での「ベストオブ序文」は小説『マノン・レスコー』のアベ・プレヴォによるものである。

わたしにとって、本は開き始めが最高潮まである。

このときのワクワク感というのは、ランニング後のアクエリの一口目か、真冬の風呂に浸かった瞬間と比べうる至高の瞬間とも比する。日常の苦痛に耐えて耐えて、そして突然訪れる快楽なのだ。
わたしは本を、最初のページのこの複雑な旨味の余熱で読み進めている気さえする。

だから序文が好きだ。

「作者の序文」と題されたここで、まずこの小説の主人公デ・グリューについての説明がなされる。

私は一人の無謀な青年を描かねばならない。彼はみずから進んで終局の悲運へ急ぐために幸福であることを拒む。最も優秀な人物になれる才質はことごとく身に備えているにも拘らず、彼は運命と自然のもたらすすべての利益よりは、むしろ求めて暗黒と漂浪の生活をえらぶ。彼は自己の災厄を予知しながら、それを避けようとしない。

『マノン・レスコー』アベ・プレヴォ 岩波文庫 P6

「彼はみずから進んで終局の悲運へ急ぐために幸福であることを拒む」
この一文にこの小説の前提が完全に説明されている。

「彼は運命と自然のもたらすすべての利益よりは、むしろ求めて暗黒と漂浪の生活をえらぶ」——「矛盾した性格」とも作者自身言い表すこの性質は、わたしの好みの中心であり、また関心事の柱である。

続いてプレヴォは道徳について考察する。
なぜ実践において人は善とは異なることをするのに、思想においては善であろうとするのか。
人々は喜んで、一人の時、あるいは友人と、「美徳のもつ魅力や、友情の好ましさや、幸福に至るための手段や、我々をその目的から遠ざけようとする自然的な意思の弱さや、その意志の弱さを救うべき方法」について語り、語り終えると次の瞬間には転落し、それとは別ないかにも「凡人の水準」ともいえる域に落ちる。

この理由は、

道徳の掟はことごとく漠然とした一般的原則にすぎないから、それを人間の習癖や行為の個々に対して特殊的に適用することは至難である

同上 P7

からである。

ここに至るまで3頁。
わずか3頁をこんなにゆっくり読んだのは珍しい経験である。それくらい噛み締めながら読んだ。紙がしわくちゃにならんばかりに、両手で掴み、数秒おきに物思いにふけて。

「道徳」は共感されるものである。
共感されて初めて道徳としての効力を得るのである。
これは言語やエンタメ作品や、あるいは挨拶やお金に似ている。

かたや状況や感情の結果である「行為」は共感不可能である。

「おいしい」という単語が共感可能な最大約数である裏側に、そのラーメンの味の感じ方は個人の内側だけにあり、言葉で表現しきれない素粒子レベルの複雑さを隠している。

「文学」なる共感とは離れた世界を描こうとするものは、それだけに触れ合う部分があるとまるで自分のことが描かれているかのように錯覚する。共感不可能を裏手に取った文化である。

「お金」は共感の上に成り立っているが、自分の宝物である一冊の本や、ぬいぐるみ、思い出の一枚の写真の価値は共感されない。
すべてがこういう特殊なものの構築の末に現れる行為という現実は、だから道徳とは矛盾するのだ。

この個人による微妙なずれは、なぜ生じるのだろうか。

そんなことを考えて次のページを読み進める。

我々の心の傾きを合理的に決定してくれそうなものは、経験もしくは実例しかないのである。ところで、経験というものは、世のあらゆる人々に自由には与えられない特典である。

同 P8

その通りだ。
どこで生まれ、どのように生きてきたか。
何と出会い、どんな影響を受けたか。
これによって、人と人は常にずれてゆくのだ。

プレヴォちゃん、今度飲みに行こうよ。
400の歳の差を超えて話し合いたい。


現在、主人公デ・グリュは警察に捕まっている。
恋人マノンとの生活に金銭的限界が来て、彼はマノンの兄の作戦「金持ち爺さんの相手をマノンにさせ、金だけ払わせる」に乗ったのだ。結果それがバレた。

この小説、本当の語るべき対象は主人公の性格より、圧倒的にマノン・レスコーなるヒロインなのである。

主人公が非情な運命に翻弄されて辛い日々を辿る物語は多いが、これはそうではない。全てがマノンなる恐ろしい女によってそれはもたらされる。非常な運命をひとつ挙げるとすれば、マノンに出会ったことである。

尼僧にするために親が連れてきたところを見つけて一目惚れし、駆け落ちしたはいいが、マノンはグリューの金が底を尽きたと気づくと、別の男と遊ぶ。それを指摘されると、「私だってこんなことはしたくなかった。あなたとずっと一緒にいたかったけど、お金がなくて辛かったから」と泣く。「私は不貞な女。死ぬつもりです」とこの調子である。

グリューは一度も疑わない。心に疑念が浮かんでも、そんな自分を責める。
恋しているからである。実際、彼のマノンを思う気持ちが一たび描写されると、読者もその魔の渦に巻き込まれるように、恋心を思い出す。

二人は新たな生活を模索する。安全を考えパリからは離れたほうがいいと提案するが、マノンは「それだけは嫌だ」という。パリだけが人生の楽しみであり、パリでお金を使うことが自分の幸福だからだ。グリューは折れてパリに近い田舎に家を借りる。馬車代余分にかかるが、自分に使う金を切り詰めてどうにか二年は持つだろうと考えるのだ。

再び金がなるなると「あなただけを愛している」と口にしながら、離れるマノン。

彼女に捧げるものとしてはかわらぬ心と真実しか自分に残らないであろうような場合には、彼女が誰か新しいB…の如き者のために私を棄て去ることにはなんの疑いもなかった

P68

ここまで自分で分かっておきながら、何も言わないで耐えるデ・グリュー。

また彼女がいなくなり、再会した際、彼は初めて彼女に対し、自分の意見を言う。
すると、マノンは泣き始めるのだ。

どうして泣くのだと私は訊いた。
「よくおわかりじゃありませんか、と彼女はいった。——せっかく会えたのに陰気な情けなさそうな顔ばかりして、一体どうしろとおっしゃるの。
(中略)
——おきき、マノン、(中略)思いもかけぬ君の逃亡に僕がどんなに気を揉んだか、僕と寝床を別にして寝たあとで、一言の慰めもなしに僕を捨てた残酷さはどうだ。そんなことを今僕はちっとも言いはしない。君の美しい姿をみればそんなことはもうすっかり忘れてしまう。

P80

もうだめだ。
こうして、一生懸命相手を責めないようにして自分の気持ちを不器用に伝えても、

「もう私を責めるのは無用にしてください」
と言われてしまう。「あなたに嫌な気持ちになってほしくないから黙って出ていった」らしい。


物語の展開は次々に起こるが、変わらないのは主人公のマノンに対する気持ちだけである。

そしてそのせいで、彼の人生は全て失敗し、ことごとく苦難が降りかかる。


わたしはこれを読みながら、デ・グリューを少し羨ましいと思った。
それだけ愛せる相手を見つけたのである。
知り合う友人からも、先生からも、親からも、彼は見放される。それは二択で常にマノンを選ぶからである。そして孤独と現実的な問題に悩むのだ。

これだけの愛は幸福なのではなかろうか。
あるいは、これだけの難問と向き合える人生というのは幸福だろう。

確かに、生活は苦しい。が逆に、生活に一つの苦しみもおぼえず終える人生が幸福といえるだろうか。
大きな間違いは、人生にとっては喜びなのではないかと、疑ってしまう。

ここにおいて、喜びが生活に苦痛をつくり、苦痛が人生に喜びを与えているのだ。


主人公デ・グリューは、やればいいだけのことができない人間、諦めればいいだけのことを諦められない人間である。
これは人生の幸福のために貪欲な人の姿である。そしてそこには生活の無限の苦しみがともなう。


わたしはそう考えるし、マノンを愛したことは生活においては不幸であるが、人生にとっては無限に幸福なこととも思う。絶望に価値があるとは、このことである。

デ・グリューは、この物語を終える時、どのような結論を持つだろうか。
わたしと似ているだろうか。それとも全然別な世界を見るのだろうか。

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