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エッセイ 幸多からんことを・・・
きょう女房とボウリングに行ってきました。右側のレーンがずらっと空いていました。団体の予約が入っているとのこと。投げ出してしばらくすると、入口の方から、「キーッ」というような声が聞こえました。子どもたちでも来たのかなと思って、通路の方に目をやると、車椅子の行列が、私たちのレーンを通り越して、右側のレーンに向かっていました。先ほどの声は、その中の一人が発したもののようでした。車椅子の数は10台ぐらいだったでしょうか。母親らしき女性が1台ずつ押していました。乗っているのは10歳前後の子どもが多かったようです。中には白髪まじりの髪の女性もいました。明らかに体だけでなく、知的障害のある人たちでした。施設のイベントとして、ボウリングを楽しみに来たのでしょう。先ほどの「キーッ」という声は、喜びの表現だったのかもしれません。
ボウリングをするといっても、普通にボールを投げることはできません。幼児用の、小さい滑り台のような道具を使ってボールを転がすのです。それでもつかの間のレジャーを楽しんでいる様子が遠くからでもわかりました。
しかし、今は楽しくても、この先、5年後、10年後はどうなるかわかりません。親御さんが元気なうちはいいでしょうが、親御さんがやがて年をとって面倒を見られなくなった時にはどうなるのでしょう。施設が全部面倒を見てくれるのでしょうか。
私は自分の文学のテーマを「摩擦」と考えてきました。自分自身のことを中心に、家族との摩擦、学校との摩擦、友人との摩擦、会社との摩擦、時代との摩擦・・・。それらの摩擦の原因を考え、解決法を見つけるということを自分の文学のテーマとしてやってきました。そしてその最大にして、最も重要な摩擦として戦争を考えてきました。そして戦争ほど大規模でないにしても、人を死に至らしめるような摩擦、例えばいじめとか、犯罪とかにも高い関心を抱いてきました。
ところが、知的、あるいは身体上の障害、病気については、意識的に目をそらしてきました。なぜなら、それらの摩擦は努力しても解決法の見つからない摩擦であることが多いと考えたからです。努力して解決できない問題は、私の手には負えない、と初めからテーマからはずしていたのです。それは私が当事者でないからです。障害者でなければ、その家族でもない。そういう気楽な立場だから、見て見ぬふりができたのです。私はそのことをとても恥ずかしく思います。
私にできることと言えば、もしできるならば、彼らが読んで元気がでるような物語を書くことぐらいでしょうか。書く資格と才能があればですが、それも怪しいものです。
今の私には祈ることしかできません。彼らに幸多からんことを・・・。
タイトル画像は、こういう本も読まなければと思って、高校の時に買ったものの、1文字も読まずに、いや読めずに、本棚の奥に仕舞い込んでいた水上勉の『くるま椅子の歌』(中公文庫)です。
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