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人間と国家―ある政治学徒の回想(上・下) (坂本 義和)

(注:本稿は2011年に初投稿したものの再録です)

原点

 大学4年のとき、本書の著者坂本義和先生の国際政治のゼミをとっていました。もう30年ほど前、ちょうど第二回国連軍縮特別総会(SSDⅡ)が開催された頃です。

 本書は、坂本先生の少年時代から現在にいたるまでの回顧録。大変興味深いエピソードが多数綴られています。

 そのなかから、まず先生が東大助教授のころのアメリカ留学時の記述です。
 シカゴ大学の国際政治学の大家モーゲンソウ教授への質問に関するくだり。当時のモーゲンソウ教授の国際政治政策は「膨張主義的な帝国主義」と「現状維持」政策の2つであるとの前提に立っていたとのことですが、ここに、坂本先生は「縮小政策」の可能性を指摘しました。

(上 p130より引用) 私の趣旨は、主権国家間であれ、帝国と植民地間であれ、「現状維持政策か、膨張拡大政策か」とう選択肢しかありえないという問題設定そのものが、国際紛争の解決を、はじめから困難・不可能にしてしまうだけでなく、戦争や軍備競争などによって双方に不利益をもたらしさえする。それに対して、緊張緩和や紛争解決のためには、当事者の少なくとも一方、できれば双方が、既得権益縮小政策という第三の選択肢をとるという、一見譲歩と受け取られるイニシアティヴをとることによって、実は現状維持政策や拡大膨張政策よりも実益を確保できる場合があるという視点を重視すべきだ、という点にありました。

 大学での坂本先生の「国際政治」の講義の中で、今でも記憶に残っているのが、「軍縮に向かうプロセス」の一例としての「キューバ危機」における米ソ首脳の行動とその背景にある思考過程に関する解説でした。
 一触即発、核戦争の危機を目前にしたケネディフルシチョフとの緊迫の交渉、フルシチョフの譲歩を契機とした第三次世界大戦開戦回避、さらには双方のミサイル撤去等、米ソ対立が沈静化に向かう流れ・・・。このコンテクストを語った坂本先生の立論の根底にあった思想を30年の時の隔たりを経て垣間見たような気がしました。

 この講義から、私は「指導者間の信頼」というある種個々人レベルの要素が、「行動(一方的イニシアティヴ)」という表象を通じて「国家間の信頼」に至る可能性があるということを知りましたし、その観点から「信頼」の普遍的な重要性を痛感したのを思い出します。

 もうひとつ、坂本先生の問題意識の根底を一貫している「平和」問題、特に「核時代」という歴史認識に関する部分。
 ヒロシマに投下された原爆による凄惨な被害写真を目にした坂本先生は、その意味づけをこう語っています。

(p166より引用) それを見た私の第一印象は、主権国家の終わりが始まったということでした。主権国家は、いざとなれば戦争をして生き残ることを目指す政策を常識としてきましたが、原爆を戦争に使うことが国家間で行われるようになれば、人間を殺しつくしてしまうことになる。それは戦争を手段として生き残るという形で、主権国家が戦争を当然の属性とする時代の終わりの始まりを意味するという強烈な実感でした。

 戦争は国家間の紛争を解決する最終手段とはなり得ない、当事者国家の破滅に至る「採り得ない選択肢」だという強固な確信です。この確信が、坂本先生のライフワークたる「平和研究」の中核となり、その活動の動因となったのです。

平和活動

 本書の下巻は、冒頭東大紛争との関わりを振り返ったあと、ライフワークとも言うべき「核軍縮・平和の問題」を中心とした坂本氏の現在に至るまでの幅広い活動を辿っています。

 まず、1960年代。坂本氏は多くの国際的な共同研究に参画しています。
 その中のひとつ「WOMP(世界秩序の構想)」に参加した際のコメントです。
 当時の政治学の方法論に関する議論は、アメリカを中心とした経験にもとづく「実証主義的なアプローチ」が主流でした。これに対し坂本氏は、世界が急速な構造的変動の過程にあることを踏まえ未来志向の新たな方法論が必要だと考えました。

(p73より引用) 経験的「事実」の意味を理解するためには、過去の歴史上の「事実」に引照して現代をとらえるだけでなく、未来の歴史を描き、未来を引照することによって現在の「事実」を見るという視座が必要である。そして未来は、われわれがそれをどう創るかにかかっているのだから、「科学的」認識だけでなく実践的な価値指向が不可欠だ。

 共有化された「価値観」にもとづき将来社会のTo-Be像を定め、それに向かうベクトルの中で、今の事実を意味づけるというアプローチです。
 「未来は自分たちが創るもの」という主体的・能動的姿勢が素晴らしいと思います。

 もうひとつ、坂本氏は、このプロジェクトに参加しての気づきとして、多元的世界における普遍的課題の再認識という点についても触れています。

(p76より引用) このプロジェクトに参加して、私が衝撃を受けたのは、私が東西対立下での課題として、「核戦争の防止と核軍縮」を、人類にとって、何よりも優先的で普遍的な課題として提起したのに対して、コタリから「核爆弾で死ぬのと、飢餓で死ぬのと、何が違うのか」と反論されたことです。

 「核」の問題は日本に「特殊」な問題意識であったという気づきは坂本氏にとっては大きな衝撃でした。

(p76より引用) 「世界」は多元的であり、優先順位は異なっても、そこに提起される問題(たとえば飢餓)は普遍性をもつのであり、排他的でない多元性という文脈の中で考えなければならない。・・・ここから私は、核兵器反対のもつ普遍的・人類的な意味に特別に敏感であること(いわゆる「核アレルギー」)こそ、戦後日本人の世界に誇るべき普遍性をもったナショナル・アイデンティティの核心にほかならないことを確信しました。

 坂本氏は、「核に対する意識」について、日本人ならではの特殊性の認識を基点に、「ナショナル・アイデンティティ」という次元での普遍的な意味づけを試みたのです。

源流

 さて、少年時代から現在に至るまでの坂本氏の半生を顧みたあと、本書下巻の後半「第15章 日本社会への訴え」の章では、坂本氏の政治的思想の底を貫く流れの源を確認することができます。

 たとえば、坂本氏の考える「理想主義」について。対立概念である「現実主義」と対比してこう説いています。

(p193より引用) 「現実主義」は、国家という抽象的な実体の視点に立つのに対して、「理想主義」は、身体を持った市民の視点で「最悪事態」を具体的にとらえるのです。原爆を高空から投下して相手国を降伏させるのを「現実主義」は排除しませんが、市民つまり被爆者の立場に立つ「理想主義」は、戦争の「現実」を、自分が焼き殺される立場で見て抗議の声をあげ、平和を追求するのです。ですから私は「ヒロシマ・リアリズム」「オキナワ・リアリズム」という言葉を使ってきました。

 “リアリズムに基づく理想主義” という考え方は独創的ですね。

 さて、現実主義者といわれる論者は、しばしば「国益」の擁護を紛争解決の目的として掲げます。坂本氏は、この「国益」の実体は何かを問います。

(p195より引用) 「現実主義者」も「理想主義者」も、国際紛争解決の手段として「外交」の重要性を認めます。しかし、前者は、「国益」という、誰の利益か曖昧にされたフィクションを目的として掲げる外交を指すのに対して、後者は、具体的な市民の利益である「民益」の擁護を目的とします。そして「民益」を定義するルールが民主主義です。

 「国益」の定義は、語る人の規定によるいわば主観的なものだとの論です。その意味では、「国益」とは、誰かの頭の中に作られたフィクションだというのです。

 これに対しては、「民主主義のルールに則って選ばれた政治家」のいう「国益」は、民意を反映したものであり恣意的ではないとの反論が聞こえそうです。
 しかし、私は、「政治家」というフィルタが介在し「国」という言葉を使った瞬間に、人間ひとり一人の顔が消えてしまうような気がします。そこに、擁護すべき客体のすり替えが起こる隙が生じるのだと思います。

 現実主義の代表的論客であった高坂正堯氏との面談後の言葉は象徴的です。

(p192より引用) 話していて、この人は「戦争の傷」を骨身にしみて経験していないという印象を禁じえませんでした。

 坂本氏にとって「理想の追求」はまさに「現実」そのものだったのです。



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