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「上から目線」の時代 (冷泉 彰彦)

 タイトルに惹かれて手に取った本です。
 「上から目線」という言葉をキーに、円滑なコミュニケーションをとる方法について論考が進みます。

 著者の冷泉彰彦氏は、「上から目線」が問題視されるようになった背景には、「空気の消滅」を伴うコミュニケーション不全があると指摘しています。具体的なメカニズムはこうです。

(p147より引用) 「何らかのコンフリクトが発生」→「話しあいの前提となる価値観が共有できない」→「にもかかわらず一方が他方をヒエラルキーの力で押し切ろうとする」→「押し切られた側に見下されたという被害感が発生」

 ポイントは、「話しあいの前提となる価値観が共有できない」という部分です。著者がいう「空気」には、「価値観の暗黙的共有の場」といった意味づけがされているようです。

 ともあれ、日常生活の場でのこういったコミュニケーション不全は、たとえば、「初対面の人との対話」のぎこちなさに現れます。

(p65より引用) 現在の社会において初対面の人と話ができなくなったのは、社会が悪くなったり自分の話術が下手になったからではない。・・・要するに以前には「初対面同士の雑談」にもテンプレートがあり、人々はそれに乗っかっていけば自然にそこには「関係の空気」が生まれたので、その空気の中で会話をスムーズに進めていただけなのだ。現代の日本ではそのテンプレートが失われたことで、空気も生まれにくくなっているのである。

 そういう「関係の空気」がない中で、個々人の「価値観」を無防備に持ち込むと、そこに「目線の応酬」(上から目線の交錯)が起こるというのです。

 著者は、「関係の空気」の中で交わされる会話には、お決まりのパターン、すなわち「テンプレート」が存在していたと考えています。この「テンプレート」は、1980年代以降、様々なシーンでの顧客対応のマニュアル化の流れの中で「全能化」「硬直化」してきました。

(p142より引用) ここではムリなテンプレートの発達が、人間味のある柔軟な会話を阻害し、いったんそこに利害の対立が持ち込まれたときにはコミュニケーションの弾力性が失われてしまうという構造がある。

 さて、本書を読んでの感想ですが、著者が紹介している事象(コミュニケーション不全)の解説については、首肯できるところが大いにありました。しかしながら、それを改善するための対策については、正直なところ腹に落ちませんでしたね。
 たとえば、こういうコメント。

(p247より引用) あくまで、相手との関係において、日本語の自然なフレームである「上下関係」を作り出すことが大事であり、その上で具体的な問題解決のための生産性のある会話へと進むことがもっと大事なのである。

 著者の主張の基本的な方向性が、どうも従来型で小手先の形式的対応を勧めているように読めてしまうのです。「日本語の型」にこだわり過ぎるあまり、人間関係における精神性・社会性の分析が不十分な感は否めません。
 また、「上下関係」のもとでのコミュニケーションを推奨しているようですが、それは果たして目指すべき姿なのか大いに疑問です。いかにも“前近代的”な考え方でしょう。

 私としては、著者の提言は今後の日本社会の進むべき方向を熟慮した上での根本的対策にまで踏み込んでいないという印象を抱いてしまいました。少々残念です。



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