日本の弓術 (オイゲン・ヘリゲル)
著者のオイゲン・へリゲル氏は、1924年東北帝国大学の哲学及びギリシャ・ラテン古典語の講師として来日しました。
5年間の滞日中に阿波研造氏に就いて研鑽を重ねた弓道会得の体験を、ドイツに帰国後講演で紹介しました。本書はその講演録です。
また、本書には、ヘリゲル氏が弓道を学んだ際の通訳をつとめた小町谷操三氏の跋文も併せて収録されています。
その二つの著述をあわせ読むと、合理的・論理的西洋思想の持ち主であるヘリゲル氏が、弓術の修業を通して東洋的精神の理解に至る道程が非常に興味深く浮かんできます。
まずは、へリゲル氏の講演から、「理解における言葉の役割の相違」についての記述です。
(p18より引用) 日本人は、自分の語る事をヨーロッパ人としてはすべて言葉を手がかりに理解するほか道がないのだということに、少しも気がつかない。ところが日本人にとっては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには決して語られも考えられもせず、結局はただ経験したことのある人間によって経験されうるだけである。
もうひとつ、合理的思考が阻まれた「無心」に至る道についてです。
(p36より引用) 「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」-こういって先生は私を戒めた。それに対して私が「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起るのか、私には分からないのですから」と答えると、先生は途方にくれて、答える術を知らなかった。
他方、小町谷氏が小文にて紹介しているヘリゲル氏の困惑です。
ヘリゲル氏が弓を習い始めた当初の様子です。
(p81より引用) 先生は力射を戒めた。弓を引くには全身の力を捨てよ、ただ精神力をもって引けと教えた。へリゲル君は、ここで大きな暗礁に乗り上げてしまった。彼は、弓は弾力を利用して矢を的に当てるものではないか。それには全身の力を用いなければならないはずだ。それなのに、全身の力を捨てたなら、骨なしになってしまうではないか。そんなことは考えられないことだと言った。
さらに修養の段階が進み、実際に「的」を前にしたときの彼の悩みです。
(p89より引用) 的前の射をやる時には、先生は的に当てようとしてはいけない。また当てようと放してもいけない、とかならず注意した。・・・これもヘリゲル君にははなはだ不可解なことであった。へリゲル君には、弓は的を射るものである。的が目的物である。射るからには、その目的物に当てることを考えなければならない。弓は意識的に射るものであるはずだ。当てようと思わない射、当てようとしない離れ、すなわち意識的でない射があるなぞということは、嘘だとしか思えなかったのである。
ヘリゲル氏は、全く混乱します。
(p90より引用) 彼は私に、日本人の考え方は、西洋人とおそろしく反対だと言い出した。ヨーロッパ的な考え方をしていたのでは、ことごとくが不可解である。日本人の思想を理解するためには、まったく逆の方から考えなければ駄目だと言った。
どうしても阿波師範の戒めが理解できず、ヘリゲル氏は師範に自身の窮状を訴えたこともあったようです。
(p40より引用) 私は、自分にとって精神的にはとうてい達し得ないと思われることは技巧的に解決するほか道がないと思うということを、つぶさに申し述べて、先生にはっきりと分かっていただき、それでようやく先生も私の窮状を理解し、謝辞を聞き入れて下さった。
それでも、こういった様々な文化面でのハードルを乗り越え5年間の修練を経たヘリゲル氏は、「弓術本来の精神」の理解に至ります。彼は、ドイツでの講演で次のように話したのでした。
(p12より引用) 射手の自分自身との対決は、あらゆる外部に向けられた対決-例えば敵との対決の、実質上の真の根底である。外部に向けられた対決がなくなって以来、弓術の本質は初めてそのもっとも深い根底にまで還元され、その意義も明らかになって来たのである。
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