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三酔人経綸問答 (中江 兆民)

紳士君と豪傑君

 中江兆民(1847~1901)は、明治期の自由民権思想家・評論家で、ルソーの社会契約論・人民主権論などを紹介、東洋のルソーと呼ばれました。

 タイトルにある「経綸」とは、注によると「たかい理想や識見に立脚して天下国家の政治をおこなうこと」との意味だそうです。
 本書は、今でいう政治評論家?である南海先生のもとを、洋学紳士氏豪傑氏が尋ね、お酒を酌み交わしながら天下国家を論じあうという設定です。

 洋学紳士氏は、いわゆる進歩派です。国防に対しては非武装の立場です。

(p14より引用) 小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。

 また、社会制度としては「自由」と「平等」を重んじます。

(p39より引用) 政治的進化の理法をおしすすめて考えると、自由というもの一つだけでは、まだ制度が完全にできあがったとはいえないので、そのうえ平等が得られて、はじめて大成することができるのです。

 洋学紳士氏は、自由と平等の確立の程度に応じて、政治制度も3つの段階で進化してゆくと主張します。政治的進化の理法の第一歩が「君主宰相専制」、第二歩が「立憲政治」です。

(p40より引用) 王室が全国民のうえにいかめしく立ち、代々世襲制・・・というわけで、平等の大義がまだ完全ではないから、イギリス人のうちでも進んだ思想をもち、理想主義の連中のなかには、もう一歩進んで、自由の原理のほかにさらに平等の原理をも合せもつことによって、民主制を採用したい、と熱望するものがすこぶる多い。

ということで、第三歩がゴールである「民主制」ということになります。
 洋学紳士氏は、世界中を、「国」という分けすらなくした「一個の大きな完全体」に仕上げるものとして「民主制」を礼讃します。ここにおいて、民主制は、非軍備・非抵抗主義につながるのです。
 同じ人民なのだから、相争うべきではないとの考えです。

 さて、守旧派である豪傑氏の反論が始まります。

(p60より引用) 哲学思想が人の心を盲にするといっても、こんなにまでひどかろうとは。紳士君がこの数時間しゃべりまくって、世界の形勢を論じ、政治の歴史を述べられたが、ぎりぎり決着の奥の手といえば、国中の人民がみな手をこまねいて、いっせいに敵の弾丸にたおれるというだけのこと。なんというお手軽な話です。有名な進化の神のご霊験というのは、要するにこんなことだったのですか。さいわいにして私は、ほかのおおくの人々が、この神のお慈悲にはけっして頼らないのを知っています。

 豪傑氏の説は、ヨーロッパ諸国が軍事競争に専心しているときを捉えて、日本もアジア・アフリカへ進出して列強と並び立つ大国となるべきとの考えです。

そして南海先生

 洋学紳士氏と豪傑氏、「新しずき」と「昔なつかし」の両説が揃ったところで、南海先生はこう語り始めます。

(p93より引用) 紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字では発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。・・・どちらも現在の役にたつはずのものではありません。

 洋学紳士氏の理想論に対しては、こう言います。

(p97より引用) 紳士君は、もっぱら民主制度を主張されるが、どうもまだ、政治の本質というものをよくつかんでいない点があるように思われます。政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。

 社会制度の段階的進歩は、民度の高まりに合わせなくてはかえって混乱を招くとの主張です。実際に民主制を導入する前に、まずは大衆に民主思想を芽生えさせるのが先だと説きます。

 南海先生曰く、「思想は原因で、事業は結果」です。南海先生は進化の理法を「思想と事業の往還運動」と捉えています。

(p100より引用) 世界各国の事跡は、世界各国の思想の結果です。・・・思想が事業を生み、事業がまた思想を生み、このようにして、変転してやまないこと、これが、とりもなおさず、進化の神の進路です。

 また、南海先生は、自らの外交・防衛についての考え方をこう顕かにしています。

(p108より引用) 外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係をふかめ、万やむを得ないばあいになっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の肩の荷を軽くしてやるよう尽力すること、これです。

 本書は、現代文訳と原文、そして巻末に桑原武夫氏による「解説」という構成です。
 その「解説」において「三酔人」の性格付けがされています。

(p261より引用) スマートな風采で、言語明晰な哲学者である洋学紳士は、西洋近代思想を理想主義的に代表する。かすりの和服を着た壮士風の論客は豪傑君とよばれ、膨張主義的国権主義を代表する。進歩はけっして一直線ではなく、まがりくねり、進むとみれば退き、退くとみれば進むとする南海先生は、理想をもちながら、その実現においては、時と場所の限定を自覚して慎重でなければならないとする現実主義を代表する。

 南海先生が自らの姿勢を表した言葉です。

(p109より引用) いやしくも国家百年の大計を論ずるようなばあいには、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか。

 現代文訳の部分だけなら100ページ程度の本ですが、桑原氏の評価は極めて高いものがあります。

(p263より引用) 現在の日本は、平和、自由、防衛、進歩・保守、民権・国権などあらゆる重要問題において、なお『三酔人経綸問答』の示した枠内にあるといって過言ではない。・・・本書は政治思想においてのみでなく、ひろく明治の文明を代表する最高の作品ということができるであろう。

 巻末の「解説」が書かれたのは1965年ですが、本書で述べられた兆民の主張は、当時でも十分通用するものだというのです。
 何のことはない、2009年の現代でもまだまだ通用するようです。

(本稿は2009年投稿の再録です)


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