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空想より科学へ ― 社会主義の発展 (フリードリッヒ・エンゲルス)

空想的社会主義

 先に読んだ「人間と国家」という本の中で、著者の坂本義和氏が影響を受けた本として紹介されていたので興味をもって読んでみました。
 社会主義関係の本はまず手にとったことはありません。もちろんエンゲルスの著作も初めてです。

 さて、本書ですが、エンゲルスが、マルクス理論を批判するデューリングへの反論として著した論文「反デューリング論」のエッセンスを労働者向けのパンフレットに取りまとめたものとのこと。エンゲルスの著作としてはとても分りやすいものらしいのですが、これが(予想どおり)なかなかの難物でした。
 私自身、社会主義思想についての基礎知識がほとんどないこともあり、到底、本書でのエンゲルスの主張が理解できたとは言い難いのですが、関心をもった部分を覚えに書き留めておきます。

 まずは、「一 空想的社会主義」の章から、エンゲルスによる空想的社会主義の議論状況の評価が垣間見られる記述です。

(p48より引用) これら空想家の考え方は19世紀の社会主義思想を久しいあいだ支配し、部分的には今もなお支配している。・・・彼ら全てにとって、社会主義とは絶対的真理、理性と正義の表現であって、それを発見しさえすれば、社会主義はそれ自身の力によって世界を征服するものである、そしてまた、絶対的真理というものは、時間や空間はもとより人間の歴史的発展とも無関係なものであるから、それがいつどこで発見されるかは単なる偶然である。さればこそ、絶対的真理や理性や正義は、各派の提唱者によってそれぞれにちがっている、・・・従ってまた絶対的真理と絶対的真理とのこの争もまた互いに排斥しあう以外に、解決法はない。

 フランス革命以降の啓蒙思想の流れを引くサン=シモン、フーリエ、ロバート・オーウェン等の思想は、理念の絶対性を重視するあまり個々独立で排他的なものでした。それ故に、先人の思索に自己の思想を重ねるという歴史の堆積による進歩が見られないとの指摘です。
 この流れから、本書の次章以降において、弁証法的史観が優位性をもって登場してきます。

 さて、本書ですが、全体では150ページ程度、そのうち本編は60ページ強です。初版はフランス語で書かれていましたが、その後、ドイツ語・英語、さらにイタリア語・ロシア語・デンマーク語・スペイン語・オランダ語・・・、もちろん日本語と、数多くの翻訳版が出ており、訳者大内兵衛氏によると、その発行部数は社会主義関係の文献としては断然一位とのことです。

 本書には、それらの各国の版から、フランス語版・ドイツ語版・英語版の序文も採録されています。中でも、英語版の序文は、30ページ強のボリュームがあり、エンゲルスの「史的唯物論」の概論の体です。
 その説明は哲学的というよりも歴史的な内容で、せめて高校時代の世界史の知識が残っていれば、もう少し理解できたのではと思います。まあ、高校生のころは、エンゲルスを読もうとは思わなかったのですが・・・。知識レベルと興味との時期のアンマッチが残念です。

科学的社会主義

 本書の第二章「ニ 弁証法的唯物論」では、まず従来の形而上学的思考と弁証法的思考を対比して論を進めます。

 エンゲルスの立論によると、形而上学的な思考においては、事物を個々独立の固定的対象ととらえ、それゆえに、対立物の矛盾は絶対的なものと考えるのだといいます。しかしながら弁証法的思考においてはそうではありません。

(p55より引用) 肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時に相互に不可分である、また、どんなに対立していても対立物は相互に滲透しあうものである。

 あらゆる事象は動きの中にあるという世界観です。その点でエンゲルスは、ヘーゲルの観念論の限界を指摘します。

(p58より引用) 彼にとっては彼の頭のなかの思想は現実の事物や過程を抽象してできる模写ではなかった、それとは反対に、事物とその発展とは、世界そのもの以前にどこかにあらかじめ存在している「理念」が模写として現われているものと考えた。

 一般に、ヘーゲルはドイツ観念論哲学の完成者として位置づけられていますが、エンゲルスはそう考えていません。

(p59より引用) ヘーゲルの体系そのものはついに巨大な流産であった。・・・自然と歴史の認識の一切を包括するところの永久に完成した体系などいうものは、そもそも弁証法的思惟の基本原則とは両立しない。

 人間の歴史はひとつの発展過程であるとしながら、自らの思想体系を絶対的真理だとしたのは、致命的な矛盾だと指摘したのです。

 そして最終章「三 資本主義の発展」では、弁証法的唯物史観から資本主義を論じます。
 唯物史観の命題は「生産と生産物の交換が一切の社会制度の基礎」だというものです。

(p65より引用) 一切の社会的変化と政治的変革の窮極原因は、これを人間の頭のなかに、永遠の真理や正義に対するその理解の進歩に求むべきものではなくて、生産と交換の方法の変化のうちに求むべきものである、哲学のうちに求むべきものではなくて、それぞれの時代の経済のうちに求むべきものである。

 「生産」と「市場(交換の方法)」の無政府性という資本主義の進展は、生産力の絶え間ない拡大をもたらし、生産過多、市場の未消化、恐慌を引き起こす必然に帰結します。エンゲルスは、この解決方法として「計画生産」たる科学的社会主義があると主張してこの章を終えるのです。

 もちろん、現在、結果論的に振り返ると、この計画経済の機能不全は歴史の証明しているところです。また、この社会主義が最終形だとすると、本書自身第二章においてヘーゲル哲学を批判した弁証法的立場からの矛盾が、自説にも降りかかってくるように思います。が、ともかく、このパンフレットが出版された当時、19世紀末においては、ひとつの経済思想の潮流となっていました。

 最後に本書を読んで思うところですが、その論旨の正否・適否はともかく、こういった形式論理的な媒体が広く労働者層においても読まれたという事実を鑑みると、現代社会における自省の要を感じざるを得ません。



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