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人生論ノート (三木 清)

 このところ、最近の話題本を手にすることが多かったので、久しぶりに哲学系の定番の著作を選んでみました。

 著者の三木清氏(1897~1945)は兵庫県生まれの大正・昭和期の哲学者です。京都帝国大学哲学科で西田幾多郎に師事し、卒業後ドイツに留学、歴史哲学を学ぶ一方、ハイデッガーの哲学やマルクス主義の影響を受けたと言われています。

 さて、この「人生論ノート」、巻末の解説において中島健蔵氏は「このようにわかりやすく、しかも肌のぬくもりを感じさせるものは、・・・」と語っていますが、私は正直なところかなり難渋しました。
 たとえば、「感情と知性」についての記述です。

(p66より引用) 感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情ではなく知性に属するのでなければならぬ。

 感情は通り一遍のレベルでは社会通念等に晒されたものであり、それゆえ社会化されたものだという論旨は理解できるような気がしますが、知性が「主観的なもの」「人格的なもの」だという立論になると、残念ながら私の理解力がついていけません。

 そうはいっても、何となく分かったような気になったくだりもあります。
 1・2、ご紹介すると、まずは、「秩序」の本質を「心」に求めている部分。

 (p99より引用) 外見上極めてよく整理されているもの必ずしも秩序のあるものでなく、むしろ一見無秩序に見えるところに却って秩序が存在するのである。この場合秩序というものが、心の秩序に関係していることは明かである。どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。心の秩序を度外視してどのように外面の秩序を整えたにしても空疎である。

 もうひとつ、「確実なものは不確実なものから形成される」という指摘。

(p112より引用) 仮説は或る意味で論理より根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理そのものが一つの仮説であるということもできるであろう。・・・
 すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないということは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、仮説はこの形成的な力である。認識は模写でなくて形成である。

 いずれにしても、この150ページほどの文庫本、久しぶりに“怠惰な脳みそ”への刺激にはなりました。(「刺激」に止まったのが情けないのですが)
 私自身、哲学の素養が全くないだけに、改めて、思索の専門家のその意図するところを理解する困難さを思い知らされた1冊でした。


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