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21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考 (ユヴァル・ノア・ハラリ)

(注:本稿は、2020年に初投稿したものの再録です。)

 恥ずかしながらユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作を読むのは初めてだと思います。

 私たちが現在直面している21の重要テーマについての論考です。
 もちろんどの考察も興味深いものですが、それらの中から特に私の興味を惹いたものをいくつか覚えに書き留めておきます。

 まずは、「2 雇用」の章での「AI」について論じているくだり。

(p42より引用) AIが持っている、人間とは無縁の能力のうち、とくに重要なものが二つある。接続性と更新可能性だ。
人間は人ひとり独立した存在なので、互いに接続したり、全員を確実に最新状態に更新したりするのが雄しい。それに対してコンピューターは、それぞれが独立した存在ではないので、簡単に統合して単一の柔軟なネットワークにすることができる。 だから、私たちが直面しているのは、 何百万もの独立した人間に、何百万もの独立したロボットやコンピューターが取って代わるという事態ではない。個々の人間が、統合ネットワークに取って代わられる可能性が高いのだ。したがって、自動化について考えるときに、単一の人間の運転者の能力と単一の自動運転車の能力を比べたり、単一の人間の医師の能力と単一のAI医師の能力とを比べたりするのは間違っている。人間の個人の集団の能力と、統合ネットワークの能力とを比べるべきなのだ。

 さすがに “現代の歴史学者” の知識は技術的ジャンルでも一流のようです。というより、そういった科学的知見も有しないと「人類の歴史」は語れないということでしょう。

 次に「3 自由」の章での「自動車自動運転アルゴリズムと倫理」についての議論。
 「トロッコ問題」における採るべき行動について何が正しいのか、アルゴリズムの実装においては何らかの明確な選択が求められます。

(p90より引用) テスラは自動車を生産するために、そのような込み入った問題で、実際に態度を明確にしなければならないのだろうか?
 ひょっとするとテスラは、それをあっさり市場に委ねるかもしれない。テスラは、「テスラ利他主義者」と「テスラ利己主義者」という、二つのモデルの自動運転車を生産する。緊急の場合には、アルトゥルーイストはより大きな善のために、所有者を犠牲にするが、エゴイストのほうは、たとえ二人の子供の命を奪うことになっても、所有者を救うために全力を挙げる。こうしておけば、消費者はお気に入りの哲学的な見方に合うほうの自動車を買うことができる。テスラエゴイストを買う人のほうが多くても、それでテスラを非難することはできない。なにしろ、顧客はつねに正しいのだから。

 「AI」が社会で実働するということは、人間に代わって “AIにこういった「倫理(哲学)的判断」を委ねた世界を受け入れる” ということなのです。

 そして「14 世俗主義」の章での「陰の面を認める」ことの価値について。

(p278より引用) 私たちがこれから生命の歴史の中で最も重要な決定を下すにあたって、私としては無謬性を主張する人よりも無知を認める人を信頼したい。もしあなたが、自分の宗教かイデオロギーか世界観に世界を導いてほしいのなら、私は真っ先に問いたい。「あなたの宗教かイデオロギーか世界観が犯した最大の過ちは何か?その宗教かイデオロギーか世界観は、何を誤解していたか?」と。もしあなたが、何か重大なことを思いつけないのなら、少なくとも私は、あなたを信用しないだろう。

 教条主義の自信過剰よりも非教条主義の慎ましさに信を置く考え方です。それは、ソクラテスの “無知の知” にも通底するものです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 “このところ休業状態だった脳のパート”を使おうとあがいてみたのですが、予想どおりなかなか思うようにはいきませんでした。情けないことに集中力が「2行」と持ちません・・・。休業中だと思っていたものが、実際はどうやら “消滅” していたようです。著者の論理の筋道を何とか辿れたのは、全体の1割にも満たないでしょう。

 とはいえ、著者の抱く現代社会が直面している “危機感” は大いに伝わってきました。それだけでも本書を手に取った意味はあると思います。

 やはり、時々は、こういったしっかりとした内容の著作に触れるトライだけはし続けたいものですね。



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