一握の砂・悲しき玩具 ― 石川啄木歌集 (石川 啄木)
(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)
なかなかできていないのですが、図書館に行ったら、普段手に取る本とは出来るだけ違ったジャンルのものにも関心を向けようと思っています。
とはいえ本書はあまりにも有名な石川啄木の歌集ですから、“何を今さら”という感は拭えず、かなりの気恥ずかしさがあります。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」等の誰でもが諳んじられる歌が採録されている歌集ですが、この歳になるまで全編を読み通したことはありませんでした・・・。
ともかく、一首一首目を追っていった中で、その刹那気になった歌をそのまま書き止めておきます。
まずは、啄木の処女歌集「一握の砂」から。
かの有名な歌「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹と戯る」が冒頭を飾り、以下551首が並びます。
貧困に苦しみ周りの人々にも馴染めず、心身ともに疲れ切った啄木の心情がストレートに伝わってきます。
そういった厳しい日々の暮らしのなかでも、時には緊張が弛む一瞬もあったようです。
さらに、サスペンス風のちょっと変わったプロットの歌として。
かと思うと、妻を想うこういう歌も
次の歌にある “黒き瞳” というのは、いったい誰の瞳なのでしょう。
そして、26年の短い生涯の晩年の歌を集めた「悲しき玩具」の最後の歌。
なかなか歌集は読むのに時間がかかりますね。私の場合、一首読むごとに何度か繰り返し目を走らせないと、一度だけでは何を詠っているのかイメージすら浮かばないことがほとんどでした。
それ故か、印象に残った歌は直線的に心情が吐露されたものが多くなってしまったようです。
さて、本書を読み通してですが、メインの啄木の歌に加え、巻末に採録されている啄木と親交の深かった金田一京助氏の小文にもとても興味を惹かれました。
また、同じく巻末の解説の中では、文芸評論家の山本健吉氏が「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹と戯る」という有名な啄木の歌を取り上げ、
と評価しています。
啄木自身、こういう新詩社風・象徴風の短歌から脱却したのち到達した自らの詩の本質を「刹那々々における自己存在の確認が自分の歌だ」とし、「一利己主義者と友人との会話」のなかで、
と語っています。
こういった精神世界の到達点を鑑みるに、26年間という年月は啄木にとって険しい流転の連続であり、それゆえ同世代人に比して何倍も濃密な時間だったのでしょう。
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