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現代語訳 論語と算盤 (渋沢 栄一)

 渋沢栄一氏が論じる「論語」の本としては、以前「論語の読み方(竹内均 編)」を読んだことがあります。
 本書は、「道徳経済合一説」を唱えた渋沢氏の代表的著作「論語と算盤」の現代語訳です。
 本書において、渋沢氏は「論語」の教えに基づいた自己の思想や行動について分りやすいことばで説明していきます。

 たとえば、時折清濁併せ呑むという印象を与える渋沢氏の交友についてのくだりです。

(p72より引用) 悪人が悪いまま終わるとは限らず、善人がよいまま終わるわけでもない。悪人を悪人として憎まず、できればその人を善に導いてやりたいと考えている。だから、最初から悪人であることを知りながら世話をしてやることもあるのだ。

 もうひとつ「修養」、すなわち自分を磨くことについて。

(p134より引用) 理論と現実というものは、お互いに一緒になって成長していかないと、国家の本当の発展には結びついていかない。・・・現代において自分を磨くこととは、現実のなかでの努力と勤勉によって、知恵や道徳を完璧にしていくことなのだ。つまり、精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨きあげていくわけだ。

 この考えにおいて渋沢氏は、論語と実業とを結びつけていました。

 当初、尊皇攘夷の志士であった渋沢氏は、一橋家家臣、幕臣、明治政府官僚とその活躍の場を移していきました。
 1873年、大蔵官僚を辞して実業界に転身した当時の渋沢氏の懸念は、同時代の商工業者の道徳観念の希薄さでした。これは契約遵守という商習慣の根本を蔑ろにするものであり、国際的な信用にも悪影響を及ぼしているとの国家的見地からの危惧です。
 渋沢氏はこの要因を、過去からの教育の弊害だと考えました。

(p176より引用) 『論語』にある
「人民とは、政策に従わせればよいのであって、その理由まで知らせてはならない」
という考え方が、江戸時代に定着していたことは確かだろう。儒教のなかでも朱子学を信奉する林家(林羅山の家系)という家柄があった。この林家が明治維新までの幕府の教育権限を一手に握り、この考えを浸透させてきたのだ。治められる側にいた農業や工業、商売に従事する生産者たちは、道徳教育とは無関係に置かれ続けた。

 「論語」に心酔する渋沢氏も、儒教の教えの全てを受容していたのではないのです。

 これは、女性の尊重という考え方にも表れていました。

(p197より引用) 人類社会において男性が重んじられているように、女性も重んじられなくてはならない。・・・女性に対する昔からの馬鹿にした考え方を取り除き、女性にも男性と同じ国民としての才能や知恵、道徳を与え、ともに助け合っていかなければならない。

 実業教育や女性教育の重要性を強く認識していた渋沢氏は、一流の実業家であったと同時に、先進的な視野をもった教育者でもあったようです。

 さて、最後に「第10章 成敗と運命」で語られている渋沢氏の言葉を書き止めておきます。

(p220より引用) 成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。

 正に、達観の境地です。



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