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論語の読み方(渋沢 栄一)

総論

 まずは編者・解説が著名な地球物理学者である竹内均氏であることが(私にとっては)驚きの本でした。
 竹内氏は1981年大学を退職された後、科学雑誌Newtonの創刊者・編集長として、難解と思われる科学を広く一般の読者に身近なものとすることに尽力されました。

 その竹内均氏の手によるためかもしれませんが、内容は非常に平易な印象です。ひとつひとつの項について詳細な解釈が記されているものではありません。
 しかしながら、渋沢栄一氏自身が論語の教えを忠実に守りそれを生涯の行動規範として実践したこと、そして、それにより超一流の実業家としても成功したという事実がこの本の重石となっています。

 渋沢氏と同時代の人物評が随所に見られるのはこの本ならではの楽しみです。言行一致の人物を高く評価する等「論語シフト」のコメントは簡素です。

 論語は、孔子と弟子との問答形式のものが多く、そこで語られる孔子の教えは対象である個々の弟子にtuneされたものになっています。したがって同じ問であっても孔子の答はその時々で異なっているように思える場合があります。
 これは、(答の本質は同じでも)その答に達する道程を、それぞれの弟子の個性・熟達度等にあわせて具体適切に示しているためです。
 論語が学問ではなく実行を重視する実学の教えであることの証左と言えますし、(この本を読んで改めて思ったのですが、)孔子は学者・思想家というよりはむしろ超一流の教育者であったのです。

2500年前も同じ

 論語の有名な一節で、私が特に今でも人口に膾炙していると思うものを1・2挙げてみます。

 まず、
「子曰く、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む(衛霊公)」

 この節について竹内均氏は、「すべて自分のことと考えれば問題はおのずから解決する」とリードをつけています。
 本節は今流に言えば「自責と他責」の話です。
 自分が存する環境下において何らかの事が起こったとき、その事に対してまったく自分に関係がない(自分に責任がない)ということはまずありません。程度の差はあれ何がしか事に影響を与えているはずです。少なくともそうである以上、その関わっている部分については「自己責任」が生じます。
 真に他者の責任である部分まで負う必要はありません。ただ、自己の責任部分をどれだけ我が事として認識し、それをトリガーにしてどんな能動的なアクションをとるかが君子と小人の大きな差になるのです。

 もうひとつ、
「子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ。(衛霊公)」

(p312より引用) 己の欲せざるところは、人に施すことなかれということは、裏返せば、己の欲するところは人に施せということになり、このように解釈すれば、西洋流の積極的道徳の意味と一致する。

 渋沢氏も講釈の中でこのように述べていますが、この点は、ほぼ同時代の漱石の言う「近代個人主義」と一脈通じるところがあります。
 しかしながら、私は、根本ではやはり異なるように思います。
 「自己の個を尊重するのであれば、同じく他者の個も尊重すべき」というのが漱石の「個人主義」だと私は理解しています。その意味では、「自己」と「他者」の明確な峻別がその前提にあります。
 他方、孔子はその前提を「恕」においています。「恕」とは「思いやりの心」であり、これは「他者との同化」といった感覚に近いものだと思うのです。


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