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進化しすぎた脳 (池谷 裕二)

いいかげんな?脳

 以前「だまされる脳」という本を読んで、ちょっと大脳生理学に興味を持ちました。

 本書は、著者が数人の高校生相手にフランクな講義をしている、ほぼそのままの様子を文字に起こしたものです。話のテンポもよく、受講者(読み手)の興味をかきたてながらの親切丁寧な語り口は、著者の人柄かもしれません。

 この本を読んで、事実としての新たな知識と発想としての新たな気づきがありました。

 まずは「感覚の時間差」についてです。
 たとえば、ものを見たとき、そこに含まれている種々の情報を分析・感知するプロセスは個々に独立しているそうです。

(p125より引用) 目から入った情報は視覚野で解析されるよね。その時、脳は形を分析したり、色を分析したり、動きを分析したりという処理を、独立に並行して行っている・・・。この3つの特徴、つまり形、色、動きの情報は、解析にかかる時間が異なる。・・・
 たとえば、ここにリンゴが転がっているとしようか。それを見たとき一番先に気づくのは色。色の処理は素早いので、「赤」にはすぐ気づくんだ。その次に「あっ、リンゴだ」とわかる。形だね。そして、最後にわかるのは「転がっている」という動きの情報だ。「色」に気づいてから「転がっている」と気づくまでの時間は早くても70ミリ秒ぐらいの差がある。

 また、発想として刺激を受けたのは、「光の三原色」についてです。

(p129より引用) 光というものはもともと三原色に分けられるという性質のものじゃないんだ。網膜に三色に対応する細胞がたまたまあったから、人間にとっての三原色が赤・緑・青になっただけなんだよ。もし、さらに赤外線に対応する色細胞も持っていたら、光は三原色じゃなくなるよ。・・・

 なるほどという感じですが、「『そもそも』三色に対応する細胞があった」という理由も気になりますね。
 このあたり、以前読んだ三谷宏治氏の「観想力」 の記述を思い出します。この本のサブタイトルにある「空気はなぜ透明か」との問いに対する著者の答えは「生物の目がそのように進化したから」でした。

 「見えている」世界は、視覚細胞と脳がつくった「たまたまの」世界だというのは、面白い気づきです。

(p130より引用) ・・・実際の人間の目は、世の中に存在する電磁波の、ほんの限られた波長しか感知できない。だから、本来限られた情報だけなのに「見えている世界がすべて」だと思い込んでいる方が、むしろおかしな話でしょ。
 その意味で、世界を脳が見ているというよりは、脳が(人間に固有な)世界をつくりあげている、といった方が僕は正しいと思うわけだ。

あいまい記憶の意味

 この本を読むと、「『意識』して行う」というヒトならではの行為のウェイトが予想以上に少ないことに驚かされます。逆にいうと、大半の行為が「無意識」のうちになされているのです。

 私たちの脳は、そういった「無意識」の行為を見事にコントロールしています。たとえば、(普通に)歩くとかボタンをとめるとかの行為は、こうしたら次はこうやって・・・といった段取りをいちいち意識して意図的に手足や指を動かしているわけではありません。簡単な「会話」ですら、確かに反射的にやりとりしています。

 また、脳は、「記憶」についても、意識せずして自律的に素晴らしい処理を実行しています。

(p188より引用) 記憶というのは正確じゃダメで、あいまいであることが絶対必要。
 ・・・もし記憶が完璧だったら、次に僕と会ったときに、着てる服が違ったり、髪に寝癖がついていたりしたら別人になっちゃうんじゃない。
 ・・・だから脳はそういう特徴を抽出してるんだ。完全に覚えるのでもなく、また完全に忘れちゃうんでもなく、不変の共通項を記憶しているんだ。

 いわゆる「抽象化」「汎化」という処理です。
 この抽象化・汎化の程度は、絶妙です。確かに、寸分違わず記憶しそれが個体識別の根拠だとすると、時間や場所を隔てたものはほとんど「別物」と判断されてしまいます。同一物(同一人物)が別物(別人)と判断されない程度の適度な「汎化」という処理を「意識せずに」しているのですから驚きです。

(p192より引用) 記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント。人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ。

 こういった「抽象化」「汎化」が、概念や行動にひろがりとゆとりを与え、その結果、「適応力」「応用力」といった「変化に対応する柔軟な力」を産み出しているのです。

逆進化

 著者によると、「脳は体に規定される」そうです。
 ヒトの脳は、今以上に身体性能が向上しても、それをコントロールする潜在能力を十分に有しているとのことです。その意味では、さらなる「進化」の可能性は間違いなくあるといえます。
 しかしながら、著者は、ヒトは進化を止めたと言います。

(p313より引用) いま人間のしていることは自然淘汰の原理に反している。いわば〈逆進化〉だよ。現代の医療技術がなければ排除されてしまっていた遺伝子を人間は保存している。この意味で人間はもはや進化を止めたと言っていい。
 その代わり人類は何をやっているかというと、自分の「体」ではなくて「環境」を進化させているんだ。従来は、環境が変化したら、環境に合わせて動物自体が変わってきた。でも、いまの人間は遺伝子的な進化を止めて、逆に環境を支配して、それを自分に合わせて変えている。・・・そういうことができればもう自分の体は進化しなくてもいい。そんなことを人間はやり始めている。新しい進化の方法だ。

 このことが良いことか悪いことかはともかく、確かにそういう傾向は否定できません。
 なかなか刺激的な示唆だと思います。

 さて、この本は、まさに時代の最先端を走る「研究者」の著作です。
 こういった自然科学系の研究者の方が書いた本で、最近よく登場することばが、「セレンディピティ」という単語です。「偶然に思いがけないものを発見する能力」のことですが、本書でもやはり触れられています。
 特に本書が、これから研究を志すであろう若者を対象としているので当然といえば当然ですね。

(p299より引用) 正しい知識をいかに持っているかどうかで、アイディアを思いつくかどうかっていうのもまた決まってくるんだよね。発見や発明はなにも神様が与えてくれるもんじゃなくて、やっぱり日頃の勉強や努力のたまものってわけ。

 もうひとつ。「相関と因果」について。
 こちらは、データに基づく「正しい情報の読み取り方」を論じる文脈でよく登場します。

(p370より引用) 相関と因果の違いは一見微妙なものだけど、これは実に深い溝だ。
 科学で証明できることは相関だけだ。研究者たる者、実験科学の本質と限界を忘れてはいけない。因果関係を証明することは基本的に不可能だ。



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