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臨済録 (入矢 義高)

(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)

 中国唐の禅僧で臨済宗の開祖臨済義玄の言行を弟子慧然が記したものです。
 “語録”の中でも一定の評価を受けているものということで手に取ってみました。

 “語録”といっても「仏の教え」をベースにしたものですから、私のように最低限の仏教・禅宗の基礎的な素養すらない人間が読んでもやはり全く理解できませんでしたね。

 たとえば、“棒と喝のどちらが法の示し方として勘所を得ているか” を説いた一節はこんな具合です。

(p167より引用) 師は楽普に問うた、「これまで、ある人は棒を用い、ある人は喝を浴びせた。このどちらがぴたりだと思うか。」楽普「どちらもぴたりときていません。」師「ではどうやればぴたりとくるか。」楽普はそこで一喝した。師は打った。

 恥ずかしながら、私にはこれがどういうメッセージなのかさっぱり分かりません。

 とはいえ、そのなかでも、2・3、単なる覚えでしかありませんが、気になったくだりを書き留めておきます。

 まずは、「外に仏法を求める修行者の姿勢」を否定する臨済の教え
 臨済は、「何者にも依存しない“無依の道人”はお前たちそのものなのだ」とと説きます。

(p34より引用) 今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。・・・ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。・・・このごろの修行者たちが駄目なのは・・・自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。

 臨済は「自らを信じきれぬ修行者」を厳しく叱咤します。自らの外に求める仏はいないのです。それは、自らの認識でしかない、自らの外に客体としての仏が存在するわけではないのです。

(p91より引用) 諸君、真の仏に形はなく、真の法に相はない。しかるに君たちはひたすら幻のようなものについて、あれこれと思い描いている。だから、たとえ求め得たとしても、そんなものは狐狸の変化のようなもので、断じて真の仏ではない。

というわけです。

 そして、もうひとつ。潙山が後に、「師の法恩に報いるもの」という点から黄檗と臨済との師弟関係を語った言葉。

(p199より引用) 弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある。

 弟子は師を越えた存在にならなくてはならない、法を未来に伝えるためにも師はそういう弟子を育てなくてはならないということですね。

 さて、本書を読んでの感想です。
 こういった類の書は、「解説本」ではなく「原典」に当たれとよく言われますが、とはいえ、原典に向かうのであれば最低限の知識は必要でしょう。それは、漢文・古文の解釈力はもちろん、仏教(禅)をはじめ基本的な東洋哲学の知識もです。さもないと私のように、ただ文字を追うだけという情けない様になってしまいます。

 ただ、ときに無謀にも、この手の書物を手に取ってみたくなるのが不思議ですね。



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