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親鸞 (五木 寛之)

 五木寛之氏の著作は、直近では岩波新書の「蓮如」を読んでいますが、そのほかはエッセイが中心で小説は久しぶりです。ひょっとすると初めてかもしれません。

 小説なので「あらすじ」には触れず、断片的に気になった描写をひとつふたつ覚えに書き留めておきます。

 親鸞が8歳、まだ日野忠範だったころ、乞食の聖、遊芸人、童、車借・馬借、その他諸々の雑民たちといった人々と出会いました。それは、それまでの自分の垣根の外の世界でした。

(上p108より引用)  なにかが変わった、と、そのとき忠範は感じた。自分は一人ではない。・・・今様に切なる思いを托して、石ころ、つぶてのごとく生きている無数の人びとの兄弟であり、家族なのだ。そう思うと急に気持ちが明るくなった。

 その後の親鸞の生き様を決定づけた瞬間でした。

 もうひとつ、こんどは親鸞が綽空と名乗っていたころの場面。
 心の悩み吐露した親鸞に対して、親鸞を幼い頃から知る下女サヨが発した言葉です。

(下 p83より引用) わたしたちを救ってくださるのは、偉いお坊さまじゃない。わたしたちよりもっと罪のふかい、極悪中の極悪人が、この自分でも救われるのだよ、と教えてくださってこそ信じられる。ほどほどの悪人に悪人面されたんじゃ、迷惑というものです。・・・だったら、心底極悪の自分だと悟ってくださらねば。綽空さま、・・・わたしたちも懸命に生きてきました。・・・必死になればなるほど、真剣に生きようとすればするほど悪をさけることはできません。・・・

 「悪人」としての真剣な自覚を求める緊迫の追及です。

 さて、この「親鸞」という小説についての感想です。

 私としてはもっと重厚な物語を予想していたのですが、青春小説的また活劇的な味付けもあり、思いの外の軽い筆致で少々面食らった感があります。北海道新聞から琉球新報まで全国各地27紙に載せられた連載小説に加筆されたものとのこと、圧倒的な読みやすさはそのせいもあるのでしょう。
 他方、「易業念仏」「信心為本」など内包している新仏教を語るくだりは哲学的であり思索的で、このあたりのコントラストは、とても面白く感じられます。
 ただ、どうでしょう、読み終えてみて、正直なところ私としては少々物足りなさが残りました。



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