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蓮如 (五木 寛之)

 「五木寛之氏」と「蓮如」と「岩波新書」という取り合わせが気になって読んでみました。

 五木寛之氏の本は、はるか昔、中学時代に「風に吹かれて」というエッセーをはじめ何冊か読みました。当時はちょっとした流行でした。

 さて、この本ですが、五木氏自らいわく「蓮如紹介パンフレット」とのことです。蓮如という不思議な魅力をもつ人物のアウトラインを、五木寛之流の関心と感性で辿っていきます。

 蓮如(1415~99)戦国時代の浄土真宗の僧本願寺中興の祖と言われています。蓮如を語る際には、浄土真宗の開祖親鸞と比較されることが多いようです。
 五木氏によると、両者の対比は以下のようになります。

(p43より引用) 蓮如は、まったくそれと対照的です。彼は、親鸞が自己の「苦悩」を出発点としたのに対して、現世に生きてゆく人間の「悲苦」、つまり悲しみを原点として出発しました。

 五木氏の語る蓮如像は、本書のあとがきに記された以下の文に表わされています。蓮如もまた、大きな歴史のうねりのなかで、あるときには自律的に振舞い、あるときには他律的に振付けられたのです。

(p193より引用) ある個人を歴史を動かす巨大な司祭のように見なすことにも私は反対です。加賀の一向一揆に火を点じたのが蓮如であると同時に、北陸の被支配民衆の津波のようなエネルギーこそが蓮如を大波のてっぺんに押し上げ、そして投げ捨てたのだと私は考えます。親鸞が関東の野を去るのも、蓮如が吉崎から逃れるのも、ともに自力の働きだけではないでしょう。人の生涯には、それぞれに大きな他力の風が吹いている、と感じるのです。

 本書は、もとより蓮如に関する学術的な専門書ではありません。五木氏自らも、「聖俗具有のモンスターともいうべき蓮如への私的なオマージュ」だと述べています。
 ただ、蓮如という生々しい存在感溢れる人物を語る文脈を通して、五木氏の抱いている「歴史感」も垣間見ることができます。

(p46より引用) 人間の情念、怒り、悲しみ、血の記憶と、そこに注がれた大量の涙。そのような、いわば近代の理性が古いおくれたものとして軽蔑してきた情念によって、いま歴史がつくられつつある、それが現代であると思うのです。



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