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幕末遣外使節物語 ― 夷狄の国へ (尾佐竹 猛)

(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)

 会社帰りにときどき立ち寄る図書館の新着書の棚で目に付いた本です。

 採録されているのは、幕末、欧米に派遣された

・遣米使節 新見豊前守一行 (万延元年)
・遣欧使節 竹内下野守一行 (文久二年)
・遣仏使節 池田筑後守一行 (文久三年)
・遣仏使節 徳川民部大輔一行 (慶応三年)

の各使節団の記録です。

 そこには、訪問先にて、初めて日本人を見る当地の人々、初めて異国の人・風俗・文化に触れるサムライたち、それぞれの驚きの姿が鮮明に描かれています。

 それらの中には、当時の日本の社会慣習に対する懐疑を惹起させたような卓越した気付きもありました。
 日米修好通商条約批准書の交換のため万延元年(1860年)に渡米した第一回目の使節団員玉虫左太夫誼茂の渡米日録にはこう記されていました。
 彼がサンフランシスコに着いたときの記録です。

(p43より引用) 船将の前と雖共唯冠を脱するのみにて礼拝せず、尤平日船将士官の別なく上下相混じ、縦令水夫たり共敢て船将を重んずる風更に見えず、船将も又威焰を張らず同輩の如し、而して情交親密にして、事有れば各力を尽して相救う事、凶有れば涙を垂れて悲嘆す、我国とは相反する事共なり。我国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず、恰も鬼神の如し、是に准じて少しく位ある者は大に威焰を張りて下を蔑視し、情交却て薄く、凶事ありと雖共悲嘆の色を見ず大に彼と異也、如是にては万一緩急の節に至り誰か力を尽すべきや、これ昇平長く続きたる弊ならん、慨歎の至りなり、然らば礼法厳にして情交薄からんよりは、寧ろ礼法薄く共情交厚きを取らんか予敢て夷俗を貴むに非ず、当今の事情を考え自ら知らるべし。

 また、初めて議事堂にて議会模様を見たときの感想にも興味深いものがありました。
 使節団副使村垣淡路守範正の日記の記述です。

(p82より引用) ・・・その中一人立て大音声に罵、手真似などして狂人の如し、何か云い終りてまた一人立て前の如し、何事なるやとといければ国事は衆議し、各意中を残さず建白せしを、副統領聞きて決するよし。・・・衆議最中なり、国政のやんごとなき評議なりと、例のもも引き掛筒袖にて大音に罵るさま、副統領の高き所に居る体抔、我日本橋の魚市のさまによく似たりとひそかに語合たり。

 もちろん言葉が分からないということもあるのですが、議場での演説模様が「魚河岸」のようというのも傑作です。
 とはいえ、そういう喧しい議会に閉口しつつも、当時の日本は「議会制」という仕組みやその意義など全く理解していませんでした。

 遣欧使節竹内下野守一行オランダの議会を傍聴した際も、こういった様子でした。

(p230より引用) 福沢先生ですら、
 政治上の選挙法というようなことが皆無分らない、分らないから選挙法とは如何な法律で、議院とは如何なる役所かと尋ねると彼方の人は只笑っている、何を聞くのか分り切った事だというような訳、それが此方では分らなくてどうにも始末がつかない。(福翁自伝)
といい、福地源一郎も、
 英国々会議事のことなどは目撃したる我でさえ解せざる位なればとても日本人には容易に分り難かるべし(懐往事談)
といっている位だから、勿論使節はこれ以上の無識であったろう。

 さて、著者が紹介している4つの旅行譚を読む限り、それぞれ欧米数都市を巡った使節団に対する現地の人々の反応は熱狂的で頗る好意的でした。しかしながら、やはり一部には、使節一行に対する無作法な行為や偏見もあったようです。
 それに触れたアメリカの書物の一節です。

(p119より引用) ・・・全体の最も滑稽なる事は吾々が日本人に付て彼等が恰も野蛮人か未開人かの如く話す事なり、然し吾々此等の行為中の瞬間に於て日本紳士達が何の国又は何の時代に於ける何の紳士達と同様に十分に威厳ある事、才智ある事、及躾よき事なりしことに付て知らざるべからず。野蛮的未開拓的行為は全く吾々の方にありき。

 米国人の不心得な行動に対し自らの態度を顧みるこの書の著者の主張は、“ジャーナリズムの良識” が伺えるものとして流石と言わざるを得ません。



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