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「善人」のやめ方 (ひろ さちや)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 ちょっと気になったタイトルだったので手に取ってみました。ひろさちやさんの本は初めてです。

 本書を読んで興味深かったのは、仏教の教えサマセット・モームが著した小説の主題とを関連付けて自説を語っているくだりでした。
 そこで取り上げられたモームの小説は「人間の絆」、その主人公はフィリップという青年です。

(p61より引用) フィリップは、さんざんに生活に苦労します。・・・彼は、「人生は無意味だ」ということに気がつきます。無意味だというのは、
-人生には失敗もなければ成功もない-
ということです。生活には成功/失敗があるでしょう。しかし、人生には成功/失敗がありません。それが無意味ということです。

 「無意味」というのは「無価値」ということではありません。

(p56より引用) モームが言いたいのは、
それぞれの人がそれぞれのしたいように人生を生きればいいじゃないか。別段、他人から褒められる必要はない。世間の有象無象どもがどう言おうと、そんなことは気にする必要はない。誰にも遠慮せず、自分の好きなように人生を生きるといいんだ-
ということです。それが「人生に意味はない」の意味だと思います。

 人は、まわりの人びと(世間)からよく見られたいと思いながら生きています。世間一般の明文化されていない判断基準を気にしています。これは特段日本においてのみ顕著な現象ではありません。

(p62より引用) われわれは世間に縛られているのです。世間の物差しに束縛されて、人生を生きようとしている。・・・
 その世間の束縛からの解放が、『人間の絆』のメイン・テーマです。
 そこでわたしは、またしても仏教を考えるのです。仏教というのは、本質的に、
出世間
の教えです。・・・出世間というのは、世間を馬鹿にせよという意味です。

 この「出世間」という考えは「自由」や「主体性」につながる概念です。

 著者は、モームの短編「蟻とキリギリス」を引いてさらに持論を展開します。
 この物語では、イソップの「アリとキリギリス(アリとセミ)」とは別の展開・結末が準備されています。また、この「アリとキリギリス」の物語には、種々の亜流があるようです。それらの主張は、必ずしも「勤勉なアリの生き方が正しい」というものではありません。

(p141より引用) 蟻は蟻の生き方をしてよい。しかし、キリギリスは蟻の生き方はできません。キリギリスはキリギリスの生き方しかできないのです。それぞれの人が、それぞれの生き方をしていいのです。

 人の生き方として、何かが絶対的に「善い」「正しい」というものはないと著者は主張しています。

 どんな宗教も、「絶対的な善人」はいないことを前提としています。真の善人は「神」であり「仏」のみです。したがって、人は善人になることはできない、善人に近づこうとしているだけだというのです。
 そして、さらに「善人になりなさい」ではなく「自分が悪人(偽善者)であることを自覚しなさい」と説くのです。

(p164より引用) 自分が心の中で考えていることを反省するならば、誰でも他人を非難する図々しさを持ちうるはずがないと私は思う。・・・こういう妄想が全ての人に共通なのだという認識は、他人に対しても自分に対しても寛大な気持を起こさせるはずだと思う。

 この言葉も、モームからの引用(出典:サミング・アップ)です。「自分のことを棚に上げて・・・」ということですが、私も心しなくてはなりません。

 さて、本書ですが、仏教とキリスト教、そしてモームの主張を引き比べて、「善人ぶるのはやめよう」「世間に縛られるな」「自由に生きよう」と説く著者の主張には、なかなか面白いものがありました。
 今度はモームの作品も読んでみようと思います。



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