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日本語の作法 (外山 滋比古)

 英文学者の外山滋比古氏の本は、以前「ちょっとした勉強のコツ」を読んだことがあります。
 本書は、「現代日本語」をテーマにしたエッセイです。まさにエッセイなので、「正しい日本語」の教本ではありません。

 いくつかの著者の話題のなかで、私の関心をひいたものをご紹介します。

 まずは、「ゆっくり話す」という作法について。

(p40より引用) たとえそうはできなくても、静かにゆっくり話すべきであるということを心得ておくのは現代の教養である。イギリスのチャーチル元首相は「大声で話すと、知恵が逃げ出す」と言った。

 あと、よく話題になる「カタカナ語」の氾濫について。

(p59より引用) いまの日本人はおしなべてことばの教養が不十分で、ものをよく考えないから、あいまいなことをカタカナ語で誤魔化して恥ずかしいとも思わない。自前のことばがないとすれば、借りてくるほかないが、それを恥じる心をなくしては困る。

 私もついカタカナ語を濫用することがあります。外来語が「日本語」になることはあるのですから、何でも「日本語に直せ」とは思いませんが、外山氏のご指摘のように、少なくともカタカナ語を使うにあたっては、「日本語でも言い換えられるだけの内容の理解」は最低条件ですね。

 本書では、話し言葉も書き言葉も話題にのぼっていますが、「手紙」についての外山氏の思いもそこここで語られています。

(p123より引用) 手紙のはじめに時候のあいさつをのべるのはわが国特有の習慣で、外国には見られない。そのせいか、この頃だんだん書かれなくなった。いきなり用件へ入る手紙がふえている。若い人には、歯の浮くような文句が美しいと思われないということもある。

 手紙の書き出しもそうですが、敬語の使い方についても迷うことがありますね。作法とか文法とかを理解していたとしても、あえて、ひろく世の中で使われている言い回しを使うことも時折あります。いくら文法的に正しくても、受け取る相手が「今の人」の場合は、正しい言葉づかいが相手にとって心地よく感じるとは限らないからです。

 さて、その他、本書を読んで私の関心をひいたところを2つ。
 ひとつは、「ユーモアのセンス」の章で紹介されている楽しいやりとり。

(p169より引用) アメリカの片田舎のこと。駅に大きな時計が二つあったが、時間の合っていたためしがない。口やかましい乗客が、合わせておけばいいのにと注意した。駅長、すこしも動ぜず、
「それじゃ、二つある意味がないでしょう」

 もうひとつは、私も含めて「確かにそうだな」と首肯できる外山氏の指摘です。

(p146より引用) わからないことがわからない、というのは、日本人の知性の泣きどころであるらしい。

 最後に、蛇足です。
 本書は、いまどきの日本語を語るにあたって話題にするに不思議ではない「メール」の作法に言及していません。著者自身、メールでのやりとりの機会が薄いためだと思いますが、ひょっとすると、携帯メールの絵文字や略語の行列は、著者にとっては「日本語」の範疇外なのかもしれません。


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