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増補 八月十五日の神話 : 終戦記念日のメディア学 (佐藤 卓己)

(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)

 8月15日が「終戦記念日」とされていることに、私は何の疑問も感じていなかったのですが、著者の探究はそこから始まっています。

 そもそも8月15日が「終戦記念日」と定められたのは終戦まもなくではありませんでした。

(p279より引用) 「八・一五=終戦記念日」の法的根拠は、戦後18年も経過した1963年5月14日に第二次池田勇人内閣で閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要領」であり、正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」は鈴木善幸内閣が1982年4月13日の閣議で決定している。

 そして、確かに「8月15日」はいわゆる天皇による玉音放送があった日ではありますが、日本がポツダム宣言を受諾したのは「8月14日」、アメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で対連合国降伏文書に調印したのは「9月2日」ですから、この記念日にいう「終戦」の意味を一体何に求めるのかが、大きな関心事として浮かび上がってくるのです。

 「終戦記念日」制度化への動きは、戦後日本の経済復興と強い関わりをもっています。「1955年後経済白書」における“もはや戦後ではない”という宣言は、それゆえ「終戦」という区切りとしての「終戦記念日」を求める動きの後押しをするものでした。

(p125より引用) 8月6日の被爆体験に始まり8月15日の玉音体験に終わる「国民的記憶」がメディアによって再編成されていった。・・・
 各メディアは1955年「終戦10周年特集」を新たな伝統として、翌1956年から「8月ジャーナリズム」を本格化する。

 こういうメディアにより地ならしされた下地のもと、1982年「戦没者を追悼し平和を祈念する日」いわゆる「終戦記念日」が公式に定められたのですが、その直後、歴史教科書問題が口火となった中・韓等アジア諸国からの非難の声も巻き上がりました。

(p132より引用) それは記念日とメディアの相互作用から予測できたことである。つまり、「8・15終戦」にこだわる限り、いくら近隣諸国の対日批判を引用して終戦記念日の内向化を批判しても、批判そのものが記念日イベントの一部として人々を国民アイデンティティに統合するように機能する。

 メディアが伝える「批判報道」自体も、「終戦記念日」の定着化に寄与するものだったのです。

 ここで改めて「終戦記念日」とされた「8月15日」は何があった日なのかに立ち戻ると、それは「玉音放送」があった日でしかないのです。現実、その場にいた人の耳には明瞭には聞き取れなかったと言われる「玉音放送の記憶」が、日本国民にとっては「終戦」を意識した根源でした。

(p157より引用) 確かに、玉音放送を国民は直接聞いたわけだが、その国民的体験は後からメディアによって創られた集合的記憶でもあった。逆に言えば、それが後から創られた集合的記憶であるために、私のような戦後派も含めた国民一般が玉音体験について一定のリアリティを抱けるのである。そうした集合的記憶のリアリティを維持するために、各種メディアは「あのとき自分は」という新しい回想を絶え間なく転載し続ける必要があったのである。

 そしてこの「集合的記憶」は、玉音放送で告知された内容(=意味)の共有によるものではなく、その時ラジオの前で「玉音を聞いた」という形式(=声)の共有、すなわち玉音放送という祭儀的性格を有する「儀式への参加」の記憶だったというのが著者の考えです。

(p158より引用) かくして、「玉音」はそれ自体が「国民的記憶の象徴」と理解されるようになったため、読み上げられた詔書の日付が前日の14日であっても、あるいは国際法上の終戦である降伏文書調印が9月2日であっても、国民総「動員=参加」の終戦は8月15日として受け入れられた。8月15日を終戦記念日とすることに論理的な合理性はないが、それを国民感情が抱きしめる必然性はあったのである。

 戦後の代表的知識人の一人とされる政治学者丸山眞男も「8月15日」の意味について、その日を大きな節目(革命)の日として戦後民主主義の「始まり」とする論を展開しました。「帝国主義の最後進国であった日本が敗戦を契機として平和主義の最先進国になった」という“二十世紀最大のパラドックス”という主張です。こういった当時の言論界の流れを著者はこう捉えています。

(p273より引用) 進歩派の「8.15革命」は保守派の「8.15神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。それを制度化したのが・・・「記憶の1955年体制」であり、8.15終戦記念日にほかならない。丸山眞男が「8月ジャーナリズム」最大のイデオローグとして戦後の言論界に君臨できた理由もここにあろう。

 そして、こう続けます。

(p273より引用) しかし、「8.15革命」論の受容には、もう一つ別の側面があったのではないだろうか。それは、「革命=断絶」を設定することで、戦前と戦後の連続性を見えなくする効果である。そのことが、例えば戦時下から戦後にわたるメディアや情報統制の連続性を隠蔽してきたように思える。1945年8月15日を境に変化したメディアは、新聞、放送、出版など、どの分野にも存在しない。

 著者は文庫版で追加された「補論」において、繰り返し「8.15終戦」の歴史的な位置づけを整理しています。

(p293より引用) そもそも歴史的事実として、1945年の8月15日に終わった戦争は存在しない。玉音放送で昭和天皇が朗読した「終戦詔書」の日付は、日本政府がポツダム宣言受諾を米英に回答した8月14日であり、大本営から陸海軍へ停戦命令が出されたのは8月16日である。国際標準としては東京湾上の戦艦ミズーリ号上で降伏文書が調印された9月2日(中国では翌3日)はVJデイ(対日戦勝記念日)であり、8月15日はただ「忠良ナル爾臣民」に向けた録音放送があった日に過ぎない。

 メディア論から見た場合の「8月15日」の意味づけは、歴史的事実によるものではなく、戦後しばらく経ってからなされた極めて政治的なものだったとの認識です。



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